プロローグ
世の中には知らない方がいいことがいくつもある。
大人が子供を躾けるように、
村の決まりで禁忌が作られるように。
害を受けることが分かっている博識者は、
その危険性の全てを公表することなどしない。
伝えてしまうことそのものが危険だからということ。
それゆえにそれを教えなければ、
その危険なものがどう危険なのかは知られない。
知る前に触れてしまうこともあるのだから。
―― 十数年前・極北地区某所
私の前には何年も見ていない冷たい雨がふっていた。
まるで嵐のように激しく、
その雫の先には赤く揺らめく炎。
今目の前で、
霞んでいても見える距離で、
はっきりと、私の家が、
私が住んでいた屋敷が、燃えている。
発火魔法でもあんな大きな炎は出来ないはずとわかっていても、
目の前の事実は変わらない。
呆然としていた、
状況がわからなかった。
ただ、目の前で大切なものが、
雨音の合間から、
はっきりと耳に届くほどの大きな音を立てながら崩れていく。
ぐしゃぐしゃに濡れた銀髪の前髪の間から、
かすかに見える白い屋敷。
でも、その白い屋敷のほとんどは今燃えている。
血の色のように真っ赤に染まりながら燃えている。
「……何が起こって、るの?」
フラフラの足のままゆっくりと燃え盛る屋敷へ手を伸ばす。
あそこにいるはずの主人を、
あそこにいるはずの笑顔を。
この炎が燃やしていないかと不安だから、
古傷でボロボロの腕を伸ばす。
だが、その望みは一瞬にして蹴飛ばされた。
突然宙を舞った私の身体は十メートルほど飛ばされ、
ドンと鈍い音を立て身体を強く打ち付けた。
どうして宙を飛んだのかも、
叩きつけられた場所もわからない。
ただ身体中にある古傷が開くほどの強い衝撃に襲われたのはハッキリと身体が感じていた。
何が起きたの?
腕で必死に立ち上がろうとするが、
古傷が開いて細い腕は言うことを聞かない。
いたるところから痛みと出血を感じる。
ただ、どうなっているのか、
その一心で顔を上げた。
そこに見えた一人の女性の顔。
いつも見てきた暖かで優しい歳の近い女性ではなく、
冷たく笑みを浮かべるもう少し歳の離れた女性の顔。
その笑みは古傷を負ったときに浴びたまなざしによく似ていた。
私によく似た銀髪は館の炎でうっすらと赤く染まっていて、
顔からこぼれる雨粒はまるで流れ出る血のように気味の悪い色をしていた。
「ふふっ、ごきげんよう?」
「あ……あぁ……」
「あらら、腰抜かしちゃっているのね。かわいそうに」
もの柔らかい口調とはまったくの裏腹、
動けないなんて生易しいものではなかった。
かつて私が味わった思い出したくもない恐怖。
今思えばトラウマという言葉で言い正せるような、
そんなものを幼い身体全身に感じた。
「あぐっ……!?」
「せめてもの情けよ。あなたの大切な人のところで死なせてあげる」
彼女はおそらく利き手ではないだろう左腕で倒れこむ私を首から持ち上げ、
この幼い身体を思い切り投げ飛ばした。
この身体は燃え盛る屋敷の中へと滑り込み、
身体を引き摺り打ちつけ燃える破片が身体を傷という傷をえぐり返すように襲った。
古い傷も新しく出来た傷もズタズタに開き、
そこに肌がある感覚をなくすほどの痛みを感じた。
「あ……ぐっ……。はぁっ……!?」
元の空気が冷たかっただけに、
館の燃え上がる火はむき出しになった肌をあぶり声に出せないほどの熱気を感じる。
いつも見ていたエントランスホールの隅々に火の手が上がり、
霞んでいる目では炎しか見えない。
その揺れる炎の中に見えたのは、
燃え上がる一つの塊。
力の入らない眼を何とか見開くと、
炎の間には薄いブロンドヘアの髪。
紛れもない私の主人だ。
髪の毛が少し見えるだけで顔も見えない、
うつぶせの状態なのだろう。
「あ……ある…じ……!?」
体中の痛みとあまりの熱気で声が出ない。
さっきよりも力の弱くボロボロの腕を伸ばしながら
何とか主人の下へと身体を匍匐前進していく。
あたりでは壁や屋根からボロボロと焼け、
破片がそこら中に落下している。
この光景では外では雨が降っていることを忘れそうになる。
これだけ強い炎に雨が負けているのか、
どうかこの火を鎮めてと、
声にならぬとも必死に叫んだ。
うつぶせのままの主人はピクリとも動かない。
真っ白なドレスがただ無残に燃え上がり、
階段にもたれかかった身体の四肢に合わせ火の塊を作っている。
もはや燃えていない髪の毛しか見えない。
今の現状は絶望など生ぬるい言葉じゃすまない。
かつて浴びた恐怖を再び呼び起こされ、
あまつさえその恐怖から救ってくれた居場所を燃やし尽くされている。
あれも、これも、すべても。
何もかもが無残な灰と化していく。
その夜、雨の中で真っ赤に燃え上がった屋敷は全焼した。
館は近くの町から離れた森の中に建っていたため、
この被害が公表されたのは翌日だったという。
館の主人と従者総勢二十九名が焼死、
その中唯一生き残ってしまったのが私だった。
この話はこれからしばらくたった現在から始まる。