第三章 片思い.2
地の底から響くような低い声だったが、芽生はその声が誰のものかすぐに分かった。なぜそう思ったのか上手く説明できないが、すぐに分かってしまった。
「…せん、どう、君?」
すると影は大きく後退して、そのまま見えなくなってしまい、同時に、アリスが自分へと崩れ落ちた。情けないほど泣き叫んだ自分は、震える手でなんとか携帯を握りしめた。
救急車救急車-しかし震える手は、アリスがゆっくりと握り止めた。
「大丈夫、少し寝てればよくなるから」
「そんなわけないでしょう!?」
「人間の病院はまずい。こちらの常識が壊れる。均衡が壊れる」
苦しそうにそう呟くアリスがなんだか無性に腹が立ってきて、傷口を殴って気絶させて無理矢理病院に連れていこうかと思ったが、驚くことに、アリスの傷は、本当に少しずつ癒えていっていた。
「ほら」
「…よかった。あんた、私より先に死ぬことは絶対にないわね」
「うん。芽生の死に顔は綺麗だろうから、僕は絶対に見るよ」
抱きしめて傷がないことを確認して、キスをして体温があるのを確認して、そして、怒りを精算するために、やっぱり殴らせてもらった。
朝。登校一番。
「仙道、ちょっと面貸しな」
女番長の正しい呼び出し、何のこっちゃ。学校に来ておいてなんだが、授業を四時間受けてから話すなんてとても精神が持ちそうになかったし、というか、学校に行かないと会えないし。
どういう反応を取るかちょっと不安だったが、彼は驚きもせず、赤くなるわけでもなく、普通に納得したような顔で、小さく頷き、廊下で待つ芽生の元へ歩いていった。
「すいませんでした。あんなことするつもりじゃなかったんです」
また本に載っているかのような素晴らしい角度のお辞儀に、芽生の緊張感は一周してわけが分からなくなった。全く知らないふりをするか、嘘が下手か、もしくは完全な人違いか、どれかだと思っていたのに。
認めやがった、こいつ。
「…ええと」
予想していたことと違うことをされ、急に言うことがなくなった。やっぱりアリスについてきてもらえばよかった、なんて女子中学生みたいなことを思ってしまい。更に。
「どういう…こと?」
小学生のような、質問だ。
しかし彼は笑うでもなく、馬鹿にするわけでもかう、怒るでもなく、悲しそうにするでもなく、ただ、真剣な顔をしてこちらを見ていた。
「昨日一緒にいた方は、無事ですか?」
「ええ、ぴんぴんしてるわよ。今日も朝から、家でごりごり人参かじってたし」
「そう…ですか。よかった」
仙道はほっと安心したように笑い、大きく深呼吸すると、覚悟したように、こちらへ向き直り、口を開いた。
「…そういう、生き物なんです」
「え?」
「いつからか…いつからでしょうか。気づいたら、傷つけていたんです。人を。そして僕はそれを端々にしか覚えていなくて、僕の制御なんてほとんど効かなくて…殺したことは一度もありませんが、まあ、威張れる部分でも、ないですが」
なるほど、『アリス』だ。芽生はとりあえず、あたりを見渡してみた。このタイミングでそろそろアリスが現れてもいいはずだが、彼は現れない。昨日の傷が響いているのか、それとも、どこか近くで見守っているのか。
どちらにしても、ここで引き下がったら格好悪い。
「私も…似たような力があったのよ。今もあるけど」
「本当、ですか?」
「ええ、ちょっと違うけど。治りはしなかったものの、少しは役に立つと思うわ。あなたの場合は完治するかも。まあ何にしても何もしないよりはマシでしょう。治りたい、わよね」
そうであってくれ、すがるようにそう言うと、即答するかと思ったら、彼はまた、思ってもないことを言い出した。
「原因は分かっているんです。今までもずっと、傷つけた人は、そうだった。共通点があるんです」
「何?」
「恋敵です」
なんだか急に可愛い話になってきた。多少立ちくらみを隠せないでいると、ふと視界に入った仙道は、少し赤い顔をしていた。悔しいが、つられてしまった。
「あなたのことが、好きです。だから、あの男が憎いです。あなたが彼と別れてくれれば、僕は彼を傷つけないと思いますが…いかがですか」
いや、いかがですかって-首まで赤くなりそうな体温から逃げるように、芽生は思い切り首を横に振った。
「つ、付き合ってないわよ!」
「ええ?付き合ってもない男を家に上がらせたりします?」
「します!自称舎弟たちだって、私の家に上がってきたことあります!」
「違う」
何が、と、言葉は出なかった。顔が近い。最近喧嘩相手があまりに弱すぎて勘が鈍っているのか、仙道はあっという間に、お互いの胸が触れるくらいまで近づいてきた。
「僕は入学してから、ずっとあなたを見てました。綺麗な人だなって。綺麗な強い人だなって。あなたは笑ってさえいたけど、どこか、苦しそうだった」
「だからそれは、妙な力の」
「それは解決出来てないのに、あなたは実に楽しそうだ。楽しそうになってしまった。毎日毎日嬉しそうに笑って、もっと綺麗になってしまった。それで舎弟が1.8倍になったの気づいてます?」
「知らないわよ、勝手に増えてくもの数えてないし!」
「ああ…あなたは本当に鈍いな。けどそこが好きです」
「だから、知らないって!」
ていうか顔が近い-ぐいぐい近づけてくる仙道をぐっと押しやるが、動かないことに驚いた。自分の怪力より、彼の怪力の方が勝っているんだ。男だからだろうか、それとも、自分が少し治ってしまったからだろうか。
「き、気持ちは嬉しいわよ、ありがとう!私自慢じゃないけど、中学次代ちょっともてたけど、この怪力が出てきたからはからっきしで…だから告白なんて久しぶりで嬉しいけど!けど、私、付き合ってないから、あいつが好きなの!」
「片思い、ですか」
「そうよ!」
「僕、では駄目ですか」
「…は…」
真剣な目が、というか、目が近い。だからしつこいようだが顔が近い。
「僕はこの通り、あなた一筋です。絶対に浮気をしない自信があります。自慢ではないですが成績もいいし教師受けもいい、推薦ももらえるでしょうから、有名大学へも行けます。まあ今時大卒なんて何の価値もありませんが、僕の父の会社は結構有名どころで、産まれながらの勝ち組ですから、将来も安泰です」
「自分で言うな!」
「芽生さんほどではないでしょうが、僕もまあ、もててる方でした。格好いい方だと思います。背も高いし、太りづらい体質です。三代前までさかのぼっても髪はふさふさ、老後も安心です。子どもも好きですし、それはそれは幸せな家庭を築けます」
「だから自分で言うなって!ていうかこれじゃまるでプロポーズじゃないの!」
「僕は付き合う=結婚の重いタイプです」
「だから…っ、ああもう!私はアリス一筋なんだってば!あいつしか好きじゃないし!それに!あいつをあんな風にしたあなたを絶対に好きになんて」
「僕には、兎の耳なんてない」
今までのどの言葉よりも、その言葉は強烈な一撃だった。
「…だから何よ。人間だから、とでも言いたいの?」
「そうです。あなたと同じ人間です。あなたと供に生きていけるし、あなたと供に、死んでいける」
「可愛いからって、近づきすぎ」
「…っ、アリス!」
「やあ、芽生。随分な浮気現場だね」
助かった、なんか知らんがすごく助かった。思わずしがみつきかけ、我に返って離れようとすると、アリスは見せつけるかのようにしっかりと抱きしめた。
「この通り、彼女は僕に夢中だ。諦めたまえよ」
「…では、あなたは?」
「ん?」
「人間でないものが、人間に恋が出来るんですか?片思いでも側にいられればいいなんて、そんなことはすぐ嘘になる。彼女も時間の問題だ。それまでにあなたが好きになる保証は、あるんですか?」
「まあ、ないね」
傷つくべき言葉だった。でも。
「だからって君にあげるわけでもないけどね」
この言葉があれば十分すぎた。アリスから離れ、芽生は仙道に向き直る。どうしてアリスと少し似ているなんて思ってしまったんだろう。全然まったくちっとも似ていない。
「君は恋敵を傷つけるアリスだと思い込んでるみたいだけど、違うみたいだね」
「え?」
「君の傷つける人に共通点があったわけじゃない、君の好きになる人に共通点があったんだ。みんながみんなして、愛してる人がいたんだよ。相思相愛、もしくは、守ってくれるくらいは、大事に思ってくれてる人が」
「どういうこと?」
「つまりね」
ざん!!
何かの影が伸び、まだアリスが傷ついたかと思ったら、その影は、芽生の首もとすぐを貫いていた。
「昨日も、恐らく、その前の人たちも、彼は恋敵じゃない、思い人そのものを殺そうとしているんだ」
「…どう、して…」
「鳴かぬなら、殺してしまえホトトギス」
「え?」
「恋が届かぬならば、殺してしまえ」
ざん!!
再び影が伸びてきたところで、アリスがしっかりその手を握った。
「違うな。君は、好きになりすぎてしまうんだ。殺したいほどに」
「…っ、じゃあ、あんたが傷つくことは!」
「あるよ。芽生の死に顔を見るのは、僕だけで十分だ」
まばたきすると、見覚えのある、何もない空間が広がっていた。自分は鳥籠のようなところに閉じ込められ、何度か揺らしてみたが、びくともしない。目を懲らしてみると、少し向こうで、影がアリスを何度も斬りつけていた。喉の奥から叫び声が生じた。自分は一瞬だと思っていたが、時間はどれくらい経ったのか、どれくらいアリスは傷つけられているのか。
「アリス!!」
呼んでもアリスはこちらを向かない、当然影もこちらを見ない。籠もいくら揺らしてもびくともしない。
「アリス!あんたまさか、このまま殺されるつもりじゃ-」
「ないよ。だって彼、好きな人しか殺したくないんだもん。僕はただの壁、障害物。僕が意識でも飛ばせば、君に向かう。そして君を殺せば、彼は『治る』だろう」
「でも、今日、普通の彼と話した!殺さなくても、ちゃんと-」
「そう、そこが甘い。高校生の恋愛なんてそんなものかな所詮。君は好きな人の死こそ美しいと思ってくるせに、どこかで、迷ってる」
「五月蠅い、五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い!!」
影は叫びながらアリスをめった刺しにしてしまい、血が沸くように噴き出してくる。震えすぎて芽生はもう声が出なくなってしまいそうだった。さすがに人でなくても、死んでしまっても少しも驚きはしなかった。
「だって…しょうがないじゃないか…生きてる芽生さんが…あまりにも…あまりにも綺麗だから…っ」
ばん!!
「中途半端な恋…呟いてんじゃねぇよ!!」
怪力が残っていてよかった、アリスを守れそうで、よかった。鳥籠はなんとか外すことが出来、芽生は二人に少し近づいた。
「芽生、来たら…」
「行くわよ。行かないわけ、ないわよ」
「うあああああああああ!!!!!」
「芽生!!」
影が襲いかかってきそうになり、芽生がアリスの前にかばうように立つと、影は立ち止まった。我ながら無謀な賭けだったが、ここはやはり、と言わせてもらおう。やはり、止まってくれた。
嘘でも演技でも計算でも、最初に話した時の彼はそれはそれは笑顔が素敵で紳士で、虫一匹殺せないような顔をしていたのだから。
「これ以上この兎に何かしたら、私、あんたの目の前で死んでやるわよ。それはそれは汚く死んでやる。あんたのトラウマに残るように。あんたがもうこれから先死ぬまで、誰も殺したいほど愛せないくらい」
「…っ、芽生、さん…」
「それくらいなら、呪わせてくれるわよね」
「…僕…芽生さんが、好きで…好きで好きで好きで好きで」
「うん」
影は少しずつ、仙道の顔をしてきた。仙道になっていった。
「どう殺してやろうかと…そればっかり考えて…」
「うん」
「いつか僕が普通になったら…一緒に…綺麗に、生きて、くれますか?」
「ごめんなさい」
仙道に戻ったから、普通に、普通に。お断りした。
「でも、ありがとう」
「おはようございます!」
「…おはよう、ございます」
翌朝。朝。普通の朝。学校へ行くべく家を出ると、舎弟たちかと思うほど元気な声の正体は、仙道だった。
「な、何してるの?」
「舎弟見習いですし、芽生さんのこと好きですし、迎えに来たらいけませんか?」
「いや、でも、それは断って」
「諦めませんよ、僕」
「…っ、ははははは」
全く。どいつもこいつも。諦めが悪い。本当に、恋は面倒だ。
「…ん-、このもやもやした気持ちはなんだろう…面白くないなぁ」
そしてこのある一匹の兎にも、その面倒な気持ちが宿ろうとしていたことを、芽生はもちろん、本人も気づいていなかった。