第三章 片思い.1
片思いは楽しい。思い人に届かなくても、傷つくことも、別れる心配をすることもなく、ただ相手とのもしもを想像して頬を染めていればいいのだから。しかしだからといって、一生片思いでいたいわけではない。
現実での君の手を握りたい。君を抱きしめたい。君の声を独り占めしたい。君を。君を。
どうしたら、こっちを向いてくれる?
こっちを 向いて。
―だんっ!
「…ぐあっ…!」
威勢だけはよかった男子学生が芽生の拳一撃で倒れてしまい、周りの自称舎弟たちがバラエティ番組のような拍手を送った。
「芽生さん!そこで!おとといきやがれ!おとといきやがれって言って下さい!」
「…オトトイキヤガレー。」
どうでもいいが、おとといきやがれってどういう意味だろう。
誘いが五月蝿いのでお好み焼き屋に立ち寄り、芽生は次から次へ舎弟たちへ焼いてやっては、お小言を言っていった。
「あんたたちさ、小学生じゃないんだから、馬鹿みたいに売られた喧嘩買わなくていいの。ちょっとでいいから我慢する。負けるが勝ちって言葉もあるでしょう、たまには喧嘩は止めて逃げても」
「はい!はい、分かりました!」
「芽生さん、豚、追加していいっすか!?」
聞いちゃいねえ、ため息一つ、芽生はまた増えた生地を伸ばしていった。
不良というのは実に分かりやすい。情には厚いが喧嘩っ早いため、舎弟の一人が対立している生徒に傷一つでも負わせられれば、あっという間に全面戦争になる。やられたらやり返せ、またやられたらやり返せ、仕返し、敵討ちの繰り返し、全く収まることをしらない。
最近では『最強女番長』なんて笑えないあだ名が定着しつつある芽生だが、あくまで彼女は平和に学園生活を送りたいのである。なので無用な喧嘩はさっさと終わらせるに限る、雑魚を叩いてもキリがないため、頭を叩いたところ、うっかり他校ごと制圧してしまい、また最近舎弟が増えた気がする。
どうしてこうなったーイカ玉のイカも咽るというものだ。芽生が軽く咳き込んでいると、奥から優しい手つきで水が入ったグラスを差し出された。
「どうぞ」
「…ありがとう」
その男子学生は、なんというか、他の自称舎弟たちと毛色が違った。髪は地毛のまま真っ黒、ピアスはもちろん、装飾品を全く付けていない。制服はきちんと着ており、他の自称舎弟たちに水を汲んでやったり小手を回したり動いている。舎弟の舎弟といったところだろうか、目が合ってしまい、何気なく芽生は目を反らした。少し、ほんの少しだろうが、アリスと雰囲気が似ていた。
「あ~、食った食った…芽生さんまた明日!」
「さよなら!さよなら!!」
「はいはいさよなら」
自称舎弟たちを見送った。食べ方も汚いし行儀は決してよくないが、基本的には良い子たちだと思う。喧嘩さえしなければ。しかし、と芽生はお好み焼き屋の看板を見た。学生さんはどれだけ食べても500円、これで採算は取れているのだろうか。
残された芽生は一人、あ、と呟いた。自分はその500円さえ払っていない。自称舎弟の誰かが立て替えてくれたのだろうかー明日忘れないように返さなければ、と思っていると、店の暖簾をくぐって出てきたのは、水をくれた気の弱そうな男子学生だった。
手にレシートを持っている彼に微笑まれ、芽生は慌てて財布を取り出した。彼がまとめて払ってくれたようだ。
「ごめんね、はい、500円」
「いいですよ。それくらい、おごらせて下さい」
「え、い、いやいいよ、悪いよ」
「それくらい、格好つけさせて下さい」
紳士だ、後光さえ見えるような彼の言葉に、芽生は甘えさせてもらうことにした。そういえば名前も知らない。
「ありがとう…ええと」
「あ、すいません。自己紹介がまだでした。仙道です。昨日、芽生さんの舎弟見習いになりました。よろしくお願いいたします」
まるで本にあるような綺麗なおじぎ、柔らかい物腰と言葉遣い、芽生は慌てておじぎを返した。ほとんどの男子学生が着崩してしまっているため他校のにも見えるが、間違いなくうちの制服だ。自分の学校に通っていることももちろんだが、自分の舎弟になったことも驚いた。
諸々事情を聞きたいところだが、初対面で相手の事情を根掘り葉掘り聞くのも気が引けて、芽生がそのまま立ち去ろうとすると、彼の方から呼び止めてきた。
「あの…最近何か変わったこと、ありませんでしたか?」
「変わった、こと?」
一秒で脳内にアリスの姿が浮かぶが、もうこれは最近というかなんというか、すっかり慣れてしまったし、自分の並はずれた怪力なんて、そのずっと前からだ。女番長として日々暴れていることも、もう、通過行事のようになっている。
「特にないけど」
「そう、ですか」
よかった、と風になるような声で仙道は去っていった。最後まで爽やかだった。すると彼に別れてすぐ、別の自称舎弟たちが慌てるように走ってきた。
「めっ、芽生さん!あいつに何か妙なこと言われませんでしたか!?」
「妙、って?」
「いや、だって、あいつ、芽生さんに惚れてますって!絶対!!」
「…っ、はああ???」
またそんな馬鹿なこと言って、笑って、なんとなく目を反らした先にいたのは仙道で、彼はこちらの話が聞こえていたのか、首まで赤くなり、すごい勢いで走っていってしまった。
おい。おいおいおいおい。
これは、いくらなんでも、自惚れざるを得なかった。
じゅー…
考えたら。自称舎弟たちから冗談のような告白めいたものは何度も受けているが、なんというか、彼のようなまともな生徒から好意を抱かれたのは中学以来だ。いや、彼も一応、舎弟見習いだそうだけれど。
「芽生、本には黒こげじゃなくてあめ色になるまでって書いてあるよ」
自分には恋人はいないが、好いている相手はいるのだから、お断りをするのが妥当だ。しかし直接告白されたわけではないため、断るのも妙な話だ。ものすごく自惚れた阿呆感がある。
「芽生、煙出てるよ」
しかし、あそこまで、遠まわしでもなく、あからさまでもないが、分かりやすい対応をされて、何も答えない、反応がないというのは、どうなんだろう。
「…芽生」
はむっ。
「わっひゃああああああああ!!!?」
「フライパン、フライパン」
「…っ、あああああ!!!」
教訓。考え事をしながら料理をするべきではない。せっかくみじん切りした玉ねぎは全て墨になってしまった為、芽生は再び玉ねぎを半泣きで刻み始めた。返事をしなかった自分も悪いが、耳を噛んだのはやり過ぎのため、今は罰としてミンチをこねらせている。
「今日はハンバーグかい」
「う、うん」
「なら人参を刻みたまえ。美味しいハンバーグの黄金比は、人参8、玉ねぎ1、ミンチ1だよ」
「それ、ただの人参焼きじゃないの」
なんだ、なんだろう、なんと、いうか。アリスの目が見るのが嫌な自分が嫌だ。
後ろめたいことは何もしていない。というかそもそも自分が勝手に恋してるだけで、アリスはその気持ちを保留にしておいてくれている、それだけの関係だ。例え付き合っていたとしても、告白を受けただけならば、何も罪にはなるまい。
そうだ、気になるくらいならさっさと、告げてしまえばいい。世間話、世間話。
「そ、そうだ、アリス。今日ね、昨日私の舎弟見習いの子がさ、私に話しかけてね」
「うん」
「別の舎弟が、そいつが私を好きなんじゃなんかないかとか言い出すからさ、私笑ってやったの。そしたら、まだそいつ近くにいてね。なんと真っ赤になってたのよ。いやあ、参った参っ」
参った。というか、降参したい。白旗を揚げたい。
アリスの目が、鼻が、唇が、近い。要するに顔が近い。
すごい勢いで壁に背中をたたきつけられ、押さえ込まれ、じっと見られている。
「それで?」
「ど、どっか行ったわよ…何も、言わずに」
ていうか。
「ちかっ…近いんだけど!」
「舎弟見習いってことは明日も会うよね?どうするの?」
「どう、って…こっ、告白もされてないのに断るのはおかしいし、かと言って無反応は難しいし、困ってたのよ!今、正に困ってたのよ!」
「玉ねぎを焦がすくらい?」
「そうよ!」
じゅー…
「って、また焦げてる!早く離してよ!」
「顔赤いね。嬉しかった?」
「これはあんたの顔が近いからでしょうが!早く退いてよ!」
「質問に答えて。嬉しかった?」
「…っ!」
嗚呼。もう。
「嬉しいわよ、そりゃ嬉しいわよ、ひゃっほーよ!あんたが嘘でも冗談でも、嫉妬してるみたいな真似してくれて!残念だったわね、私は例え石油王に求愛されても、あんたへの片思いは揺らぐことないわよ!」
笑って退いてもらうつもりだったのに、アリスは驚いた顔をしたことに、芽生も驚いた。そしてアリスはわざとらしく考えるようなポーズを取り、その隙に芽生は空いた間をすり抜け、ようやく広いところに躍り出た。いつもの部屋が、ずいぶん広く感じた。
「………あれ。結局質問には答えてないよね」
「しつこい男は嫌われるわよ!」
「ふむ、それは困るな」
「ただいまー…あーっ!うさちゃーん!」
「やあ真生ちゃん、また可愛くなっちゃたねぇ」
「お、お帰り真生!」
本当のことを言うともっと早く帰ってきてほしかったが、そんなわがままは言ってられなかった。妹の帰宅が、こんなに助かったと思ったことは初めてだった。
「あれ、オムライス?ハンバーグは?」
「ごめんね、真生ちゃん。僕がどーしても食べたいって言ったから、メニュー変更になったんだ」
「えー、じゃあ、しょうがないなぁ」
結局タマネギは全滅してしまい、助けを求めるように冷蔵庫を開けると卵とご飯が大量にあったため、急遽メニューを変更することになった。挽肉と野菜は無事でよかった。
優しい嘘。アリスの膝ではしゃぐ真生。この光景もずいぶん馴染んだな、と 芽生は一人納得しながら自分も食事を頂く。母が同窓会で不在の為、ちょっと自信がなかったが、我ながらなかなか上手に出来た。
「今日ね、おままごとしたのよ。真生がお母さんやったの。でもお父さんが意地悪な子だったから嫌だったの。だからね、うさちゃんがお父さんだったらよかったのにって思ったの」
「あはは、光栄だな」
「お姉ちゃん、いつ、うさちゃんと結婚するの?」
「…え?」
ちょっと待て。いつからそういう話になった。アリスを見ると、笑って、笑っていやがるし。
「うさちゃんがお父さんになったらいいなぁ」
お父さんってそっちのお父さんか、一人慌てている芽生の向かいで、アリスは一人、余裕の笑みを浮かべていた。
「違うよ真生ちゃん。僕が君のお母さんと結婚したら、君のお父さんになるんだよ。お姉ちゃんと結婚したら、お兄さんだ」
「あ、間違えちゃった!じゃあ、お母さんと結婚して!」
「いいよー」
「妙な勧誘は止めなさい!そしてあんたも受けるな!!」
「子どもの言うことにムキにならなくても」
「そういう問題じゃないでしょう」
否、実際そういう問題なんだが。まったくもって恋というものは面倒だ。まさか実の母に嫉妬する日が来るなんて思ってもいなかった。
母がようやく帰宅してきて真生も寝てしまい、アリスを送ってあげなさいと母から言われた。男女の立場上普通逆だが、少しでも二人きりにさせてあげようという母のいらん気遣いだろう。送るといっても、どこまで送ればいいのか。
「ねえ…あんた、どこで寝泊まりしてんの?」
「空間だよ」
「あそこか…たまにはちゃんとしたところで寝たら?いつも真生と遊んでくれてるし、うちに一泊くらいだったら」
「そのまま、夫婦になる?」
「ばっ」
悔しいが首まで赤くなると、向かいのアリスは笑っているが、笑い方がいつもの笑い方と違った。
「芽生の将来に、僕はいれるかな?」
「え?」
「どこから、どういう理由でここにいるのか、こんな姿なのか、どうしてアリスを捜し続けてるのか、よく分からない、もしかしたら、明日消えるかもしれない僕との将来を、想像してくれるかい?」
「…出来るわよ。余裕よ。だって、私の理想は、今だもの。お母さんがいて、真生がいて、あなたがいるの。今がずっと続けばいいと思ってるもの。それともまさかあんた、嫌だとでも言うの?誰か他に一緒に暮らしたい人、いるの?」
アリスは少し考えるように宙を見て、そして、力なく笑った。いつもの笑い方に近かった。
「いない」
「でしょう。だったら、今で満足しててよ」
「そうだね」
-ざんっ!!
明日かもしれないことは言われたが、今だなんて、誰も聞いていない。
「…っ、アリス!!!」
いきなり現れた何かにアリスの背中は切り裂かれ、衝撃で吹っ飛んでしまった。慌てて駆け寄ると、アリスは芽生を庇うように抱きこんだ。かばう背中を、何かが容赦なく切り続ける。
「止めて…止めて止めて止めて止めて止めて!!」
涙で目が霞み、声が叫び声と混じってよく声が出なかったが、叫ぶこと以外出来なかった。脳がどんどんパニックで容量オーバーの警報を鳴らし続け、そして体は動くことも出来なかった。
「止めて!!!」
血管が切れるかと思うくらい叫ぶと、ようやく何かの動きが止まった。
『退け』