第二章・告白 1
人生は思ったようにならないというのは聞きすぎて耳にタコができるどころか瀬戸内海を浮かべられそうなくらい聞き飽きている台詞だが、本当に何でもかんでも上手くいかなかったら、全ての人々が絶望に堕ちて楽しく笑えないのではないだろうか。辛い中にも楽しさを見つけてその中である小さな思い通りのことで喜び、生きてる喜びを感じる。
なるほど、確かに思い通りになったこともあった。うっかり最強の力を手にしたがうっかり邪魔になってしまい、困り果てて数年、うっかり出会った変態ウサギによってうっかり治ったように見せかけてうっかり治ってなかった。更にうっかり恋をしてしまい、うっかり側にいてくれることになったが。
うっかり。ウサギがいなくなってもう一週間が経とうとした。
あのウサギ、今度会ったら干物にしてやる。
その決意を胸に、芽生は便器横の大ボタンを思い切り押した。無論八つ当たりのためである。本当はどっちだったなんて、彼女と美少女に夢を抱いてる男達のための秘密である。
やれやれ、芽生が便座から立ち上がったその時だった。
最初に見えたのはウサギの耳だった。それが二本垂れてきたかと思うと、やがて男の顔がにまりと笑い、それがアリスだと分かるまで随分かかった。
「やぁ。芽生は小さくても大きく流しちゃう派?それとも節電で大きくても小さく流しちゃう派?意外と流れるけど、大出産には注意したまえ、たまに流れたつもりが流れてないから」
「…っ、死んでくいいわよ…」
「芽生、首をしめるより先に下着を上げたらどうかな。見えてはいけないものが大サービスだよ」
「ウサちゃん、大丈夫―?ぃたいの痛いの、とんでけーっ!」
「ありがとう、真生ちゃんの顔見たらもう痛いのなくなったよ」
また上手いことを言いながら、膝の上ではしゃぐ真生を、アリスは優しく抱いてやる。かなり面白くない光景だったが、お茶くらいは出してやった。さすがにトイレの中で一本背負いは反省ものだった。
しばらくして真生も眠ってしまい、母親はパートに出かけている時間の為、必然的に芽生とアリスは二人だけになった。妙に静かな空間になり、いたたまれず芽生がアリスの顔を見ると、笑顔を向けられ、すぐに顔を下げた。
やばい、抱きつきたい。
自分の信じられない感情に、今すぐベランダから落ちたいほど恥ずかしかった。これか恋か、なるほど面倒くさいなこの野郎。
会いたかった、会いたかった、死ぬほど会いたかったのだ。
一緒にいてくれると言いながら、気がついたらいなくなってしまい、まぁふらふらしてそうな奴だから、そのうち戻ってくるでしょうと思いながら、三日経ち、四日経つと、さすがに心配してきた。
警察に通報するにも身元が分からず(元々人間かどうかも危うい)、連絡を取ろうにも携帯番号が分からず(というか持っているのか)、不本意にも山ほどいる舎弟に頼もうにも兎耳の男を捜せなんてとち狂った命令を出せるほど馬鹿にはなれなかった。
もしかして何かあったのではないだろうか、それとも捨てられたのだろうか、そう悲しんだのが五日目、開き直って六日目、殺意が沸いて七日目。
結論は一つ、会いたかったのだ。
「ひさしぶりだね、芽生」
「…っ」
「ごめんね、色々あって、別の世界をうろうろしてたんだ。半日しかいなかったんだけど、こちらで一週間かかってしまった。心配したかい?」
ここで。した、と言えれば。言えなくても抱きつくことくらい出来れば、きっと可愛い女の子なんだろう。けど私は可愛くないから。
「してない!」
「そうか。それは残念」
どうしてそんなに笑っているのか、腹が立って、腹が立って。繋がれてきた手も払ってしまって、払ったのは自分なのに、泣けるほど後悔してしまって。半泣きの目を、とびきり笑顔のアリスが覗き込んだ。
「そうだ、デートをしよう」
「…っ、は!?」
「まだかい?芽生」
「まっ、まだよ!来ないでね!来たら皮を剥いで水に浮かべて漬けるわよ!」
「僕は梅干しかい?」
笑いながらアリスが足をぶらつかせながら、タンスと格闘している芽生を待っていた。ふと奥の部屋から真生が騒ぎに起きてしまったらしいが、姉の様子を見るなり、また寝室へと戻っていった。ちょっと笑ってしまった。あの年頃には信じられないくらい空気の読みようだ。
そしてタンスの前で、芽生は服を投げ、体に当て、捨て、また投げて、それを繰り返していた。顔は真っ赤、脳は今にも溶けそうで、すぐに倒れてもおかしくないくらいだった。
どうしようどうしよう-混乱しながら芽生は服をまた投げた。デートなんて当然始めてだ。アリスは近くを散歩するだけだと言っていたけど、そういう問題ではない。
可愛い服なんて着て、もし舎弟どもにばったり会ったら。けどだからって全然可愛くない服で行って、アリスをがっかりさせたら。
きっとどんなトンチンカンな服を着たところでアリスは可愛いと言ってくれるだろうが、それでは自分の気が済まない。しかしいつまでも待たせているのも性に合わない。
時間が随分経ってしまった、芽生はせーのと目を閉じて、掴んだ服を着て行くことにした。そして、我ながらくじ運の悪さに、青ざめてしまった。
この家の扉は、こんなに重かったか。
「…ぉ、また、せ」
「ううん、全然………わぁ。可愛いね、芽生」
「そ、う、かな」
許されるなら今にも逃げ出したいのを、芽生は必死で我慢した。あまり明るい色は好きではないから、黒いワンピースだ。それはいいとして、スカートが、ちょっと短いのだ。世間一般的には標準なんだろうが、制服以外はジャージで過ごしている芽生にとってはかなりの冒険だった。
それでも、まぁ、褒めてくれたんだし。そろそろとアリスの顔を見ると、うん、と笑顔で頷いてくれた。
「じゃ、行こうか」
「うん」
「はい、アイス買ってきたよ」
「あ…ありがとう」
がちがちに緊張しているため喉がからからだ、ありがたくアイスを受け取った。昼下がりの公園は家族連れが多い。自分の恰好ばかり気にしてアリスの耳のことを忘れていた。最初は携帯カメラですごい写真撮られたり、子どもに囲まれたりしたが、落ち着けばそうでもなくなった。
まさかこんなもの直に生えてるなんて思わないよな、ちょっと笑った芽生が、アリスの耳を引いてみた。
「いたた」
「痛覚、あるんだ」
「当たり前、生えてるんだよ」
「本当の耳は?」
好奇心で毛量の多いアリスの髪の奥を触っていると、ふといつの間顔が近づいて、なおかつ彼が笑っていることに気づいた。じっとこちらを見つめて。
慌てて離れると、アリスがアイスを食べ始めたので、自分も続いた。味なんて、分からなかった。
公園には自分たち以外カップルもいた。なんとなく目で追っていると、なんといきなりキスをした。アイス棒を落としてしまうかと思った。なんだかいけないものを見てしまったような気がして、慌てて会話を探した。
「そ、そうだアリス。私、あんまり力、爆発しなくなったのよ」
「へぇ」
「定期的に抗争があれば大丈夫。前みたいに、病的なまでに殴りたくなくなってきたわ。あんな無茶な高校通ってて、本当によかったと思うわよ」
「…それは大丈夫と判断しかねるけど…まぁ、芽生がいいならよかった。きっとその力が残っているのは、芽生の願いだろうね」
「私、の?」
「守りたい人が、いるからでしょう」
家族。舎弟と名乗る男子たち。自分。そしてもちろん、このウサギ。そして何よりこの力は、自分と彼を結ぶ、たった一つのものだから。
そこまで考えて、芽生は顔中真っ赤になった。ごまかすように再び会話を探そうとしたら、いきなりアリスが肩を抱いてきた。心臓が止まるかと思った。
「ななな何!?」
「芽生、さっきのカップル、こうして、キスをしていたよね」
「そ…っ、そうだったような…そうじゃなかったような…」
「人はどうしてキスをするの?」
「知らないわよ!す、好きだからじゃないの!?」
「お互いの細菌が数万個行き来するのに?」
「あんた夢もへったくれもないわねぇ!」
「…僕は多分、あまりないと思うんだ。こちらの食べ物はあまり食べないし、向こうの世界は細菌なんていない、あるのは人間の感情だけだから」
だから汚くない、と、アリスは言いたげだった。その目から反らすことが出来ず、己の瞳孔が開きすぎて目玉が落ちるんじゃないかと心配してしまうほどで、なのに、頭だけは冷静に、これから起きることに対して予想した上で期待して、早鐘を打ち続けていた。
「キスしてみようか」
いいわけないでしょう、つうかその理屈でいくと私の口の中細菌だらけよ、おまけに近頃妙に舎弟増えちゃってやたらジャンクフードばかり付き合いで食べてるから、細菌どころか虫歯もいるかもしれないわよ。
言いたいのに、言いたいのに、言えなくて。避けれなくて。芽生が思い切り両目を閉じたその時だった。
ずばしゃっ!
すごい勢いで水をぶちまけられ、夢が覚め、完全に目が覚めた。顔を上げると、そこには死ぬほど不機嫌そうな男の子が立っていた。まだ中学生ではないだろう、背はそれほど高くないが、長い足が妙に印象的な少年。彼はホースを手に、鼻息荒く、こちらを睨み付けていた。
「俺の縄張りでいちゃつくの禁止。うぜぇ」
「…っ、なっ」
いきなり何をするんだ、とは怒鳴れなかった。自分より小さいものは、ほとんど真生と重なって見えてしまう。水を振り払い、芽生は立ち上がった。
「行きましょう、アリス」
「うん」
「…っ、ひゃああああああああ!!!」
すると今度はいきなり悲鳴を上げ、少年が芽生に思い切り抱きついてきた。これはさすがに無視しきれず驚いて、足を止めてしまった。
「な、ななななな何だよこいつ!何で頭から耳生えてるんだよ!」
「…っ、ああ。これは、えと飾りよ。ね、アリス」
「…」
「…アリス?」
アリスはずっと笑顔だったが、その笑顔はやがて影を帯び、笑いながら怒っているのだと理解するまでそれほど時間は要らなかった。ゆっくりと芽生から少年を引き離し、彼の口元を掴んだまま、上へ高く上げた。これにはさすがに言葉を失った。
「僕の芽生に気安く触らないでよ」
「いたたたたたたたた!!」
「何してんのよ、あんたぁ!」
痛い、芽生にひっぱたかれた頬を撫でながら、命令で買ってきたジュースを手に、少年に差し出した。
「どうぞ」
「…っ、要らない」
「受け取ってくれないかな。じゃないと彼女、恐いから」
指さした向こうには、懸命にハンカチを濡らしてる芽生がいた。少し腫れた少年の口元の為だろう、そしてもう一枚あるのは。アリスが思わず笑うのを、少年が面白くなさそうに見えてた。そして芽生がようやく還ってくると、待ってましたとばかりに、少年が彼女の後ろに隠れた。
「…また、いじめたの?」
「いじめてないよ。ね?」
ふんっと少年が顔を反らし、アリスが苦笑する。随分嫌われたものだ。せめてジュースで少しでも株を回復しようとしたが、公園の時計が歌い出して手を止めた。子ども達が友達と、あるいは母親に手を引かれ帰っていく。五時の合図だ。もうそんな時間か、芽生が空を見上げた。まだ暗くはならないが、夜には雨だといっていた。
「ねぇ、そろそろ帰ったら?なんだったら、送るから」
「いいよ、僕、ここにいないといけないんだ」
「お母さんが来るまで待ってるの?」
すると少年は大きく首を横に振った。
「絶対帰れない」
「絶対、って」
お母さんと喧嘩でもしたのかな、と芽生がとりあえず少年の手を引こうとしていると、今更、違和感に気づいた。自分の圧倒的な怪力のおかげで忘れていた。少年の異常な体重に。そして、彼が微動もしない、否、できないことに。
額に汗が出てきた芽生がアリスを見ると、これは驚いた、と彼が少年を覗き込んだ。
「彼、ここから動けないね」
「え?」
「そういう風に、出来てるね」
当然のようにあっさりと言われ、芽生が驚いて少年を見た。彼は泣きそうな顔こそしているものの、泣きはしなかった。こんな小さな体で現実を受け止め、諦めてしまっているのだ。彼もまた、自分と同じような境遇なんだろう。