第一章・アリス襲名 3
朝起きたら頭が割れるように痛かった。なぜここまで痛いのか分かっているから、余計に痛くなった。
最悪、最悪、最悪。死んじゃえばいいのに。
「ようし、上手にトイレ出来たね-」
「うさちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」
朝。快晴。外はすさまじくいい天気で、アリスは笑っていて、真生も笑っていた。台所からいい匂いがする、この匂いは私の好物の春キャベツの煮物だ。
幸せそうな空間が、なんだか、はぎ取られてようで、そこに入れなかった。何かしゃべりたくても出なかった。真生を撫でる、そのごつごつした手が許せなかった。
男の手が真生に触れている-それだけで、足の先から頭のてっぺんまで震えが走った。
「止めて!」
「…っ、お姉ちゃん」
「男のくせに、女の子のトイレに付いてってあげないでよ…気色悪い!」
「芽生!!」
いい加減にしなさい、母親からの怒鳴りに、芽生の頭は覚醒した。脳の中がゆっくりと、自分を責め、堕ちていく。それはやがて涙になり、芽生は気がつけば、カバンを抱えて走り出していた。
「待ってアリス」
「だから、あんたがアリスでしょうが!」
なんで追って来るんだ-芽生は更に加速した。力はもちろんだが、脚力にも同じくらい自信があった。中学の時は、大会を勧められるほど足が速かったのだ。しかしアリスの足はもっと速かった、気がつけば捕まえられていた。
「離して!男が触らないでよ!」
「じゃあ、女になればいい?」
「え?」
何言ってるの、顔を上げたアリスの顔は、信じられないほど悲しそうだった。
「僕は、ずっとこうなんだ。アリスに出会う前から、ずっとこうなんだ。男の、若い姿のまま、兎の耳があるまま。変われないんだ。僕は君を助けたいけど、君が僕を嫌だというなら、女の兎を連れてくるよ」
「…っでよ」
「君が泣くのは、嫌だから」
もう泣いてる、溢れる涙を振り払い、芽生はアリスを睨み付けた。
「なんでそんなに優しいのよ!?私が、不思議に迷い込んでる女だから!?ていうことは、治ったらもう用がないのよね!?そうなんでしょう!」
自分でも何を言ってるのか、分からなかった。何をこんなに怒ってるのか、何をこんなに泣いてるのか分からなかった。
「いつか捨てるなら、優しくしないでよ!」
なんだ。なんだ、これは。男に捨てられようとして、必死でしがみつこうとしている、情けない女ではないか。
―愛してるよ、芽生。
「…っ!!うっ…」
倒れ込むように芽生が膝をつき、幼子のように声を上げて泣いた。するとアリスも膝を曲げ、芽生と視線を合わせた。頭の上に妙な感触がある、涙が少し落ち着き、顔を上げると、自分の頭を撫でていたのは、アリスの耳だった。
「手で触ってないよ。セーフ?」
「…アウト。器用すぎるでしょ、その耳」
気がつけば、芽生は笑っていた。たくさん泣いて笑ったせいか、お腹から空腹を知らせる盛大な虫の音が鳴った。芽生が真っ赤になって腹を押さえるが、アリスは何事もなかったように立ち上がった。
「よし。ご飯にしようか。お腹が空いたらご飯を食べるべきだ」
「…でも遅刻しちゃう」
「学校も大事だけど、芽生の一番は家族だ。違うかい?お母さんと、真生ちゃんだ。まだ彼女たちにおはようもしていない、いただきますもしていない。彼女たちの愛が詰まった料理だ、食べたまえよ」
「真生は料理できないでしょう」
「僕と一緒に野菜を切ったよ」
「…嘘!?あの子、一人でトイレも行けないのに…」
そこまで言って、芽生はあることを思い出した。絶対に一人でトイレに行けない真生。朝から手の込んだ料理を作っていたせいで、恐らく、忙しかっただろう母。それを見て、真生がアリスにお願いしたのではないだろうか。
顔が少し赤くなり、ゆっくりと反省していった。気色悪い、は言い過ぎたかもしれない。いや、というか、朝わめき立てたこと、全て、あんなこと、言いたいわけではなかったのだ。
「あ、あのね、アリス」
芽生が顔を上げると、彼はやはり、笑っていた。笑っていてくれていた。何をしても怒らない、こうして笑っている。なんだか胸が熱くて、やっぱり、ごめんなさいは言えない。
「…ありがとう。あの子、暗くて狭いところ、駄目なの」
でもお礼は、なんとか言えた。絞り尽くした、小さい声だったけど。
「どういたしまして」
それでもこの男はちゃんと返してくれるから、本当に、ずるいと思った。
「おかわり」
「おぁわり!」
「あらら、二人ともよく食べるわねぇ」
はいはい、とご飯をつぐ母の背中を、彼女にばれないように芽生は見ていた。怒りもしない、聞きもしない、笑って、ご飯をどんどんくれる。
我が母ながら、変な人だと思う。強い人だとも思う。美しいとも思う。でもだからこそ、とも思ってしまう。
母がこちらを向いたため、視線を逸らすと、一緒におかわりした真生が、アリスの膝で、元気に食べていた。もう、近づくなと遠ざける気はしなかった。
基本的に人見知りはしない子だが、こんなに懐くのは珍しい。やはり父親がどこかで恋しいのだろうか-そこまで考えると、先ほどまで無限のように思われていた食欲が、一気に失せた。
箸を置き、カバンを持ち、芽生が立ち上がった。
「ごちそうさま、いってきます」
「あ、じゃあ、僕も行きます。ごちそうさまでした」
「いいのよ、アリス君。またいつでも来てね」
「やだー!うさちゃんやだー!!」
実の姉はどうした、なんて芽生が思わず妬いてしまうほどに、真生はアリスの膝にしがみついた。困ったように笑ってみせたアリスが、真生と視線を合わせ、姿勢を低くした。
「また来るよ。ほら、約束の人参だ」
「ええ!?人参、きらぁい」
「僕、真生ちゃん大好きだよ。けど、人参食べてくれる真生ちゃんはもっと好きだな」
「…っ、う、うー…」
真生は嫌そうに大きな人参三本を抱き、小さな手で大きく手を振っていた。後ろで手を振っている母にも手を振りながら、芽生たちは、ようやく登校した。
「子どもの扱いが上手いのねぇ」
「代々のアリスに、子どもが多かったからかな」
「ああそう」
自分でも嫌になるくらい、嫌味な声だった。真生を取られたような気がする妬みか、それとも。考えたら余計に腹が立ってきた、駄目だ、この男とこのままいては駄目だ。
なんだか異常な危機感を感じ、芽生は急ぎ、アリスの方を振り返った。早くこの男から逃げなければ、否、捨てられなければ。
「早く治してよ」
「え?」
「治せっていってるの。出来ないの?」
「…じゃあ。治してみようか。いっせーの…」
「え?」
「あ、ごめんね。いっせーの、せ派?で派?」
「いや、そんなことどうでもいいでしょうが」
どこだここは-芽生はゆっくりと見上げた。以前に空間を何もなくされたことよりも、今回の方が驚いた。今の今まで、朝の通学路を歩いていたはずなのに、時間は夜、月が出ていた。おまけに、周りには建物一つない。草原が広がっているだけだった。
「ここは?」
「ここは、人の痛みを探す場所」
「痛み?」
「そう。どうしてライオンには牙があるんだと思う。どうして豚には尻尾があると思う。どうして猫は爪が鋭いんだと思う。どうして虫は擬態化が出来るんだと思う」
「そんなの…何かから自分を守る為でしょう」
そう答え終わるか終わらないの間で、後ろから殺気を感じた。振り返るより早く殴り捨てると、巨大な何かが大きな音を立てて倒れた。驚きと急に力を出したせいで芽生が肩で息をしていると、アリスが拍手していた。
「正解。君は誰から自分を守ってるのかな」
「不良、でしょう。うちの学校には馬鹿ばっかで」
「高校に入る前から、守ってた。違うかい?」
「違わ、ない…」
「じゃあ…いつから?」
「いつ、って…」
-芽生ちゃん…
-何も…そこまでしなくても…
じわ、っと芽生の額から汗が吹き出した。始めて力が出てしまった時のことを思い出した。
「ちゅ、中学の時…」
誰かに話すことなど、一生ないと思った。けど、口が勝手に動いた。素直になれない口とは逆に、自分でも信じられないくらい、頭の中では、この男を絶対的に信じていた。アリスなら、何を聞いても、きっと、笑っていてくれている。
「友達と夏祭りに行ったの…帰り遅くなるから、お母さん迎えに行くって言ってくれたんだけど…私、中途半端な反抗期で、恥ずかしいからやだって言っちゃって…そしたら…帰り道、祭りの時にナンパ断った男が…仲間連れて…私たち、囲んで…」
恐かった。異常な恐怖だった。当時なんとなくしか性知識がないから、中途半端な知識しかないから、余計に恐かった。男の一人が、友人の肩を掴んだ瞬間だった。
気がついたら、血の海だった。自分がやったなんて、思わなかった。思えなかった。しかし目の前の、まるでこの世のものではないものを見るような友人たちの目が、全てを語っていた。
警察が来て、すごい騒ぎになった、気がする。気がするというのは、芽生はもう完全に、世界を自分で遮断してしまったのだ。周りは誰も芽生がやったと信じなかったが、友人はそれから距離を置いてしまい、有名高校の推薦も失った。しかしそれらは全てまるで他人事のようにすり抜けて、ただ、抱きしめてくれる母が辛かった。
「…それから…かな…定期的に力出したくなって…信じられないくらい強い力で…そしたら、遊んでる風の女の子が、爆笑しながら、今の不良高校、教えてくれて、そこなら芽生がいくら暴れても大丈夫だって言ってくれて…そしたら、舎弟?とか?出来ちゃってさぁ」
気づかなかった。アリスの耳が自身を撫でてくれるまで、自分がまた、泣いていることなど。
「私、守りたかっただけなの。友達を。家族、守れなかったくせに…」
あ。
あ。
あ。
そこまで言って、芽生はあることに気づいた。違う、と感じた。違うんだ。無意識とはいえ、殴りかかったのは自分が先だった。どこかで知っていたのだ、自分にこんな力があること。
「…違う…違う、違う…最初、最初に、殴っちゃったの………」
-芽生、愛してるよ。
「パパ」
そうだ、覚醒したように芽生が顔を上げると、先ほど殴り飛ばした何かが、起き上がった。睨み上げようとしたが、失敗して、挙げ句、悲鳴をあげて尻もちをついてしまった。それは、父親の顔をしていた。
「いやあああああああああああ!!!」
ふとアリスの存在に気づき、せがむように彼の膝にしがみついた。
「助けて!助けてよ!!」
「彼は何もしないよ」
「嘘よ!」
「本当だ。君は知ってるはずだよ」
「…え?」
「彼はもう、殴れない」
そういえば、と芽生は恐る恐る『父』を見た。狂ったような張り付いている笑顔ではなく、彼はただ、無表情に立っているだけで、人形のようでさえあった。
いつからそうなったのか、もしかして最初からそうだったのか、分からないが、父はずっと母と私を殴っていた。愛してるよ、なんて呟きながら、殴っていた。母は私を連れて何度も逃げようとしたが、その度に父に見つかってしまい、もっと酷く殴られた。
近所の人の噂を聞いたことがある。私は、父が母を乱暴して出来た子どもだと。今までどれだけ殴られたことより、痛いことだった。自分さえいなければ、母はもしかしたら、逃げられたかもしれないのに。
さすがに父も年老いてきたのか、酔わない限りは殴らなくなってきた頃、信じられないことが起こった。母が妊娠したのだ。私は産まれてくる命だけは守ろうと、必死だった。母と妹を閉じ込め、父に必死で殴られた。母の泣き叫ぶ声と、妹の泣きわめく声だけが、私をなんとか耐えさせていた。
ある日、学校から帰ってきた時だ。私の時間が止まるかと思った。母はいない部屋、真生と名付けた妹が寝ている。その愛くるしい寝顔を、泥酔した父が笑いながら、布で塞いでいたのだ。
私の体内を激情が走った。そして、気がついたら。
真生は奇跡的に命に別状はなく、後遺症もなかった。だが、父は。父は。二度と目を覚ますことはなかった。
ゆっくりと、真生の拳が止まった。『父』は、相変わらず人形のように立っている。そこで、また涙が噴き出した。
「今、ここで彼を壊せば、もう二度と、100%、恐怖はなくなるけど。どうする?」
「…どうもしないわ」
芽生が、ゆっくりと『父』を見た。不思議と殺意がなかった。確かにアリスの言う通り、ここで彼を壊してしまえば、もう母たちが殴られることは有り得なくなる。
けど。それでも。だからこそ。
「死ぬことさえ許してあげない…ずっと生きて、反省してなさい。後悔すればいいわ、あんなに綺麗なお母さんと、こんなに可愛い姉妹と、絵に描いたようなアットホームな家庭を築けなかったこと」
ぱぁん!!
『父』の影が消え、ゆっくりと周りが、朝になり、見覚えのある通学路へと変わっていった。アリスはやはりというか何というか笑っていたが、演技でも嘘でも、笑い返しそうになかった。
ゆっくりと拳を見る。もう殴れるはずもない父から、ずっと自分を守っていてくれていた拳が、もう懐かしくさえある自分の拳に戻ったのだ。もう自分は夢から覚めた。ウサギと別れなければならない。
嫌だ、と、始めて素直に、否定できた。
「…何が?」
「…だから…っ、あんたと…別れるのが…」
「どうして別れるの?」
「だって…私、もう治ったじゃない。もう、不思議の力、ないんでしょう?」
「そうだね。でも、まだ、契約完了していない」
「え?」
「恋を、していない」
でしょう、とアリスが芽生の唇を軽く突き、首まで赤くなり、気がつけばアリスをぶっ飛ばしていた。その飛距離と威力に、赤かった顔が青くなった。
「治ってないじゃない!!」
「あはははは」
「あははじゃない!!」
「芽生さん、さっきの抗戦、見事っした!」
「やっぱ、芽生さん、最強っす!」
「あははは、ありがとう」
それから、それからというのは変な話だが、芽生は相変わらず『最強』だった。自分の制御なしに暴れたがること、必要以上に人を傷つけることはなくなったが、それならいっそ力が消えてしまえばいいのに。
「芽生。あんまり乱暴しちゃ駄目だよ。女の子なんだから」
「うるさぁい!!」
いややっぱり力万歳、消えなかったのは、この男をぶん殴り続けさせてくれるためだろう。そうでしょう、そう思わないとやってられない。
この力も、この、絶対に認めてやらない、教えてもやらない、この恋心も。