第一章・アリス襲名 2
足元には付いてきてくれた男子生徒二人が倒れ、目の前には、今芽生の中で最大危険人物となっている兎耳男。幸いというか何というか男は一人の為、後方に逃げれば何とかなるかもしれなかったが、そう出来なかった。
級友が置いていけないのももちろんだが、なぜかこの男から目が反らせない。もっと言えば、足が動かない。
恐い。恐ろしいのか。いや違う。今までどんな不良に会っても怯んだことなどなかった。一度だって-
-愛してるよ、芽生。
「…!!」
「おっと」
気がつけば芽生は男に向かって殴りかかっていたが、男はまるで、赤子の手を受け取るような余裕で受け流してしまった。瞬間、今度こそ芽生の体に恐怖が走った。
今自分が持っている力は、彼女の望んでいるものではなかったが、それでも彼女を守ってくれた、戦わせてくれた全てだった。それが敵わないとなれば、もう逃げるより他にない。
逃げる-なぜ、逃げる。
場数を踏んだ喧嘩は無駄ではなかった。諦めの悪さと、度胸なら身に付いてくれていた。芽生は男を睨み上げ、級友たちをかばうように仁王立ちで構えた。
「こいつらを起こしなさい」
「そのうち勝手に起きるよ。というかどうして、僕が何かしたって決めつけているんだい」
「だってあんた普通じゃないでしょう。私のこの力を避けられるし、当たっても平気だし-あんた一体何なの。何なのよ」
男はうーんと唸り、漫画のような困った仕草をしたが、お世辞にも困っているようには見えなかった。どこまでも人を小馬鹿にした男だ、芽生は煮えたぎる怒りを必死で抑えながら、男を睨み続けた。
「見ての通り、兎だよ」
「あんた頭沸いてるの」
「酷いなぁ。古今東西、アリスを不思議の世界に案内するのは、兎と相場が決まっているんだよ」
「相場も何も、不思議の国のアリスって、話一つしかないでしょう」
「分かってないなぁ」
いつの間に-
唇が触れそうな位置に男が近づいてきて、慌てて距離を取ると、彼は愉快そうにケラケラ笑った。
「物事は捕らえようだ。兎を追いかけ、不思議の世界に迷い込む。時代がどうあれ、場所はどうあれ、そうなった少女はみんなアリスだよ。君の前にも21人いた。君の場合は、僕を追いかけてくれるより先に、不思議の世界に迷い込んでしまったけどね」
「…だから何を言ってるの?」
「君はもう何年も不思議の世界を迷っている。違うかい?出たいけど方法が分からない、違うかい?」
「だから、何を言って…」
いい加減殴って黙らせようか、拳を構えた芽生が、ふと自分の拳を見た。
不思議。ふしぎ。フシギ。
「…っ、もしかして、それ、今の私の『力』のことを言ってるの?」
「お、大当たり。君は今、その力の中で迷っている。何年も、何年も」
「ちょ、と、待って」
焦りすぎて、口調がどもってきたが、脳内は懸命に検索・整理をし続けた。そしてアリスの物語の結末のみを思い出した。数々の困難を乗り越え、彼女は夢から覚めた-
「治せるの!?」
それはまさに希望の光だった、芽生が思わず興奮気味に男に近づくと、彼は両手を挙げて、今度は彼から離れた。
「どうだろう」
「…何よそれ」
やっぱりこいつ殴る、芽生が再び拳を構えると、男はいやいやと首を横に振った。
「待て待て。僕は人間より少し強いが、全く痛くないほどではない。君の人並み外れた怪力が全く効かないってわけじゃないんだよ。僕は治せるかどうか保証はしないし、どんなことでも100%はないだろう、違うかい。どうして絶対なんて、君に言ってあげられよう。こんな優しい僕だ、少しは控えてくれるかい」
「そう…」
そうか痛いのか、なら仕方がない。芽生が手を下げると、男はほっと息を吐いた。
「今からいくつか質問がある。君はイエスかノーかで答えてくれ」
「分かった」
それじゃあ、と男がどこからかシルクハットを取り出し、それをぽん、と叩くと、そこは真っ白の何もない、二人だけの空間になった。が、芽生は、自分でも驚くほど、なぜかちっとも驚かなかった。
「君は僕を信用できるかい」
「ノー」
「力を治したいかい」
「イエス」
「それは僕と契約をすることになるが、それでもいいのかな」
「…まぁ、イエス」
「ふふ素直だね…では最後にもう一度だけ。本当に、ほんとうに、力を治したいかい」
「だからイエっ…」
-芽生さん!
-芽生さん、おはようっす。
偽物の力から成った、仮初めの信頼関係なのに、無くすと思ったら、なぜこうも愛しいのか。
無くすと想像した途端、芽生は予想外に自分の今の生活が楽しいのだと気づき、どちらかといえばショックだった。絶望さえしていると、周りがいつの間にか、元の旧校舎に戻っていた。
「…まぁ、いいか。今は。さて、契約だけど」
「言っとくけど、お金はないし、指一本でも触れたら殺すわよ」
「僕は山賊でも変態でもないよ…ただ。アリスを捜してほしいんだ」
首をかしげた芽生が少し考えて、ああ、と頷いた。
「私のように困ってる子を探せってこと?」
「それはそれで面白そうだけど…違うんだ。僕が言ってるのは初代のアリス。彼女だけ、契約を完了してないからね。ずっと心残りなんだ」
「何言ってるの。私が22人目ってことは、初代何年前よ。もうとっくに-」
そこまで言って、始めて、兎男の悲しそうな表情を見た。まるで世界の終わりのような。
「探して、いるんだ」
また人をからかっているのだと、どうせ演技だろうと、なぜかその時は決めつけて怒鳴れなかった。ただ、その男の悲しみと一緒にいた。
分かっているんだ。この男は。初代アリスがもうどこにもいないことなど。それでもまだ、探しているんだ。
「…分かった。時間が空いたらね」
「…ありがとう。君のことは何て呼んだらいいかな」
「芽生でいいわよ。あんたは」
「僕?僕は、アリス」
「あんたもアリスかい!」
思わず突っ込むと、アリスと名乗った男が笑った。妙な話だが、なぜかほっとした。あんな顔されるくらいなら、腹が立つくらい笑っている方が、まだいい。
倒れた級友二人は教室に送り届け、芽生はアリスと供に旧校舎にいた。小腹が減ったと何か買ってきたかと思えば、人参ジャム入りのパンだった。何というか期待を裏切らない。悔しいことに、美味しいし。
「で、結局あんた、何なのよ」
「だから、アリス。アリスをずっと待っているアリス。人生の中で一瞬の少女時代の中、迷ってしまうアリスを待って、追いかけてもらって、そして、夢から覚まさせてあげるんだ。そういう風に、出来ているんだ」
「…じゃあ、それ以外はずっと一人で、ここで待ってるの?」
「まぁ、そうだね」
平和にパンをかじっていると、頭の耳以外は、普通の男子に見える。後ろには、誰もいない放送室。ここでずっと、来るか来ないのか分からないアリスを待ち続けている-想像してみた。ここに来たばかりの自分より、100倍は寂しいのではないか。
「契約、ちょっと甘すぎない?」
「え?」
「だから、人捜しだけじゃ割に合わないんじゃないかって言ってるの。こんな力抑えるの、大変なんじゃないの?私に出来ることがあるなら、言ってみなさいよ」
不良に囲まれて身についたものは、度胸と精神力、忍耐力、力、人望-おまけに。馬鹿な男への同情力。
芽生が赤い顔を必死に下へ向けていると、アリスは笑った。
「じゃあ、恋をしよう」
「は?」
芽生が思わず顔を上げると、思わず叫びそうになった。だから顔が近い。芽生が慌てて後ずさると、アリスはまた愉快そうに笑った。
「永遠の愛を誓ったのに、男は浮気し、女も浮気する。あんなに愛し合っていたのに、味噌汁の具一つで離婚。あんなに愛し合っていたのに、年金問題、介護問題、妻に殺すか殺されるか怯える夫。借金までして尽くした彼女から突然のさよなら、おまけに口紅で鏡にさよなら、なぜかローマ字だ。昭和か、と叫んだ男には更に悲劇が待っていた。ああ、貯金通帳がない!」
「…ねえ、ごめん、何の話?」
「愛は素晴らしい!」
「いや、今の話、愛を全否定してたよね!?」
「いいや素晴らしい、こんなに裏切られても、こんなに金を持って行かれても、それでも人は恋をする。何年経っても何百年経っても、人々が日々頭を悩まし続ける愛。えるおーぶいいーらぶ。ああ愛、素晴らしい。そんなこんなで、僕は君を愛そう。僕だけじゃ不公平だから、君も僕を愛してくれ。契約関係には有利不利が最大ポイントだ、君が僕を愛してくれそうにないなら、早急に改善してくれ」
「………帰る」
「待ってアリス!」
「だから、アリスはお前だろうがよ!!」
何度でも言うが私は悪くない。鼻に蹴りは不味かったかなんて思わない。あの変態兎生きてるだろうか、何て思わない。
「芽生-、早くお風呂出ちゃいなさい」
「はいはい」
明日一番にあの兎を見に行こうか-いやそれではあの男の思うつぼのような気がする。しかしいつまでもあんな男を気に病むのは非常に癪だ。
ため息一つ、芽生が気合いを入れるような意味合いでもう一度顔を洗おうとすると、残り少ない石けんを排水溝に流してしまった。おかげで変な音がするが、もうそれどころではなかった。
呑気に風呂に浸かり、素っ裸でこちらを見ているのは、アリスその人だった。
「長風呂は体によくないよ。芽生」
「………」
ぼじゃん!!
「ぅな!!」
「いやー美味しいなぁ、お母さんの手料理」
「あらぁ、ありがとう。おかわりあるわよ」
「いただきます」
いきなり風呂から現れたびしょ濡れ(それは芽生が沈めたからなのだが)の兎耳変質者を、食卓に招き入れるなんて、この母こそ、すごい通り越していっそ異常ではないだろうか。芽生が隅っこで布団にくるまっているのを見て、母がこそっとアリスに囁いた。
「ごめんなさいね、あの子、胸がないのを気にしてるみたいなのよ」
「大丈夫です、僕、そういうの気にしないから」
「あら、よかったわね芽生」
「ねぇお母さん、何か他に言うことない!?」
「あーうさぎさーん!!」
「…真生!!」
奥からやってきた芽生の四歳になる妹、真生が駆けつけてくるなりアリスの耳を思い切り引っ張った。こら、と母親が真生を引っ張った。
「ごめんなさいね、アリス君」
「いえいえ。えーと、まいちゃん?お姉ちゃんと一字違いなんだね。こんばんは」
「こんばんはー!」
思い切り笑った真生にアリスが撫でてやろうとすると、次の瞬間、布団の中にいたはずの芽生が彼女をかばうように抱き上げていた。
「…わんないで」
「…お姉ちゃん?」
「男がこの子に触らないでよ!!」
「芽生」
怒るでも、慰めるでもなく、ただ冷静に、母がそう呼ぶと、彼女ははっと我に返り、真生を床に下ろすと、布団と供に自室へと走っていった。母親がアリスにごめんなさい、と言うと、彼女を追っていった。
二人だけになると、真生がアリスの服をちょいちょい引っ張った。
「ごめんね」
「ううん、僕の方こそ。お姉ちゃん、泣いちゃったかな」
「…あのね、まいね、ちょっと覚えてるの。おじちゃんがね、お姉ちゃんを叩くの。たくさん、たくさん、めってするの。ママが泣いてるの。まいも、泣いてるの」
「…そう」
ふすまの隙間からちらっと見えた芽生は、やって来た母親に、まるで幼子のように抱きついた。彼女の震えは止まりそうになかった。
アリスは今頃、この家に父親の存在がないことを気づいた。