第五章・恋 1
反省しても治らないところというのは、人間多々ある。
「芽生、悪いんだけど、今日、真生迎えに行ってくれない?おばさんの話、長くって」
「うん、分かったわ」
「真生」
「あ、お姉ちゃん!今日、お姉ちゃんなの?」
「そうよ。さあ、早く帰ろう」
「うんっ」
「…ねえ、あの制服…柄が悪いって噂の…」
「不良がたくさんいるんでしょう、恐いわぁ」
「あそこ、お父さんもいないんでしょう?」
「子どもの教育に悪いわぁ」
深く、考えないところがある。例えば、自分が、自分なんかが、迎えに行ったらどうなるか。どう見られるか、とか。とかとか。
「…お姉ちゃん?どうしたの?」
「な、なんでもないよ。なんでも」
この子の笑顔に助けられ、救われ、大丈夫だと奮い立たせられ。それでも、自分の立場や、今までやってきたことに、ふと立ち止まり、振り返りたくなる。
「ねえ、真生…その。いじめられたり、とか、してない、よね」
「えー?大丈夫だよ。真生、お姉ちゃんの妹だもん」
「そ、そうよね」
世間に認められなくても指を差されても、自分には手を繋いでくれるこの子だけでいいのだと自分で言い聞かせながらも、人目が刺すように痛い。こんなの、ずっと平気だったはずなのに。
傷。痣。跡。体。体。体。
先日の呪い騒ぎで、それが無事完治した後、傷跡もほとんど消えてくれた。裸だけ見たら、真人間みたいだ。普通に、普通に、青春を送ってきたみたいな体。
これなら真生と銭湯にだって行ける、と思ったら、少し肩のあたりが軽くなった気がした。
「芽生、ごめんね今日は」
「ううん…どうしたのお母さん、ニヤニヤして」
「これ。真生の家族の絵」
どれ、と覗き込んできて、せっかくの力作相手に吹くところだった。お母さん、芽生、真生、そして兎の耳があるこの男は-
「今時母子家庭なんて珍しくないでしょうけど…あの子の家族の絵、やっぱりちょっと寂しかったから。何だか嬉しくて」
「でもこれじゃ余計不審がられるんじゃ…ていうか、あいつのクレヨンが一番丁寧じゃない?」
「あら、ほんと。ふふ、うさちゃんと結婚する、とか言い出すんじゃない?」
「止めてよ、もー」
「うさちゃーん♪うさちゃーん」
また兎を描いてる-落胆しながら、芽生は真生の元に座り込んだ。
「上手ねえ」
「でしょー?」
ほんとに-幼いながらも恋してたらどうしよう。あいつアリスってくらいだから、幼女趣味なんじゃ-
頭が痛い。
「…いた…」
痛い、あれ?
「真生?どうしたの」
真生が頭を抱え込んで、そのまま、うずくまって動かなくなってしまった。
「…っ、お母さん!」
「どうしたの!?」
救急車を呼ぼうとする芽生を落ち着かせながら、急ぎながらも落ち着いた母は、行きつけの小児科まで連れていった。小さな体に、見ているこちらがぞっとするような大きな聴診器、医者はため息混じりにこう言った。
「ストレス性の頭痛ですな」
「…すとっ…まだ、こんな子どもなのに」
「子どもだからこそ、溜めやすいこともあるんですよ。日中は幼稚園に預けてるそうですが、そこで-もしくはご家庭で、何か、問題があるのかは分かりませんが。とにかく早急に解決することをお勧めします。体がまだ出来上がっていない、小さなことでも、どんな影響を及ぼすか分かりませんからね」
ありがとうございました、と母が眠る真生を背負い歩きだす。何とか後ろをついていく芽生は、一言もしゃべれそうになかった。
「真生…やっぱり…いじめられてるんじゃないかな…私のせいで…」
何とか絞り出した声はそんな内容で、そんな言葉が終わらないうちに、母が大笑いした。
「真生があなたを大好きなのは、あなたが一番よく知っているでしょう」
「そ、それは、そうだけど」
「まだ小さいけど、女よ。ちゃんと自分の正しい道を見つけられる。違う?」
「………いえ。」
多分この人には一生敵わない。敵う気など、最初からしてなかったけど。
しかし翌朝、真生は珍しく、朝食に手をつけなかった。
「…まだ、頭痛いの?」
「う、うん…少し」
「…心配ね。今日、お母さん、仕事休むから、一緒にいようか」
「お母さん、忙しいって言ってたでしょう。私が休むよ。一日くらいなら何とかなるから」
「そ…う?」
「保育園行きたい」
「だめ」
「寝てるのつまらないよ」
「駄目」
不謹慎と言われるかもかもしれないが、芽生が自分が楽しんでいることを自覚していた。久々に、妹と朝から一緒にいられるのだ。おまけに今日は具合が悪いのだから、特別、独り占め。
「薬、飲まないとね。少し何か食べた方がいいな…何か食べれそうなのある?」
「アイスっ」
「もう…じゃあ、おかゆさん半分食べれてら、あげる。買ってくるから、大人しく寝ててね」
「うん」
お腹がびっくりするからアイスじゃあんまりかな-ゼリーでいいかな、でも買ってくるって言っちゃったしな-
ああでもない、こうでもない、スーパーの中で芽生がうろうろしていると、いきなり後ろから思い切り抱きつかれた。
「芽生!おはよう!!」
「ふがああああああああ!!」
芽生に思い切り叩かれた頬をさすりながら、全ての荷物を持たされて歩くアリスの前を、芽生が真っ赤な顔して大股で歩いていた。
「一線越えかけた男に抱きつかれて、この仕打ちはあんまりじゃないかな」
「五月蠅い。あんたがいきなりすぎるのよ」
「ところで、今日はお休みかい?」
「ううん、真生がちょっと具合悪くて-お母さん、最近、仕事大変そうだから。私が代わりに休んで、真生といるの」
「なるほど。ではお見舞いに行こう」
「そうね、真生も喜ぶ-」
言いかけて。あの丁寧に重ねたクレヨン画がアリスが思い出された。
「…ね、ねえ。あんたさ。つかぬことをお伺いするけど、恋がしたいって言ってたわよね」
「そうだね、そういう設定だね」
「設定って言うな!それってどれくらいストライクゾーンなのかしら…まさか四歳とか入らないわよね」
少し上を向いて、んん、と考えていたアリスが嫌に笑った。
「本当にあった恐い話をしていいかな。まだ寿命が短かった時代、子作りは早くて七歳から」
「殺すわよ!!」
「あー、うさちゃんだ!」
「やあ真生ちゃん。お土産買ってきたよ」
「真生、あんた元気じゃないの!」
会うなり抱きついて、姉はどうした、ぶつぶつ文句言いながら芽生がお茶を用意していると、アリスが計ったように近づいてきた。
「妬いてくれてるのかい?」
「沸騰したてのお茶を全部かけるわよ」
「…痛…」
「…っ、真生!?」
お茶を台所において、芽生が真生に駆け寄る。真生は少し震えながら、また頭を抱えていた。
「大丈夫?あんまり痛いだったら、また病院に」
「芽生、ごめん、ちょっといいかい」
「…何」
止めて、触らないで、そこまで妬むほど子どもじゃない。子どもじゃないけど。まさかの疑惑に震えてしまうくらいには、大人にもなれそうにない。そんな真剣な目で、真生を見られたら。
「真生ちゃん、痛いのはどこ」
「頭…かな」
「…ちょっとごめんね…うん、頭じゃない。痛いのは耳だね」
「お耳?痛くないよ」
「ちょっと見せて」
アリスが真生の少し長い髪をかきあげ、そして、叫びそうになった。叫べなかったのは、真生がいたこと、そして、アリスがいてくれたこと。
真生の耳が、まるで最初からそうだったように、綺麗さっぱりなくなっていた。
ぽす、と、緊迫した空気を緩くするように、真生が穏やかに眠る。アリスの胸元で。彼はごめんね、と呟いて、真生を横にさせた。そしてもう一度、ごめんね、と言った。
「芽生、怒っていいよ」
「…またあんたのせいなの?」
「今度は覚えがないけど、もしかしたら、知らず知らずのうちに、アリスにしてしまったかもしれない。彼女は、僕と君の関係者だから」
「そうね。怒るわよ。でも、だからって何もしてくれなかったらもっと怒るわ」
「…違いない」
アリスが力なく笑うから、芽生は軽く額を殴り、そして、軽く抱きしめた。
眠る真生の耳があったはずのところを覗き込むと、小さなくぼみのようなものが出来ていた。
「治る?」
「原因が分かればね。これは所謂、耳をふさいでいる状態だ」
「それは…聞きたくないことがあるってこと?」
「そうだね。何か思い当たることがない?」
「…あの、ね」
少し迷ったし、言いたくなかったけど、そういう場合でもない。保育園に迎えに行ったときのことを話すが、アリスの顔つきは少しも晴れないままだった。
「それじゃあ考えにくいな」
「考えにくい?」
「これはあんまり言いたくないことだけれど…黙っておいた方が君が怒るだろうから。このままほおっておくと、視力も失う」
「め…っ、目玉が無くなるの!?」
「あはは、目玉って。どうなるだろうね。とりあえず、耳は無くすことで解決したみたいだけど、目はどうするか、子どもの考えることだから、どうなるか予想がつかないな」
聞きたくない。見たくない。こんな小さな体に、何を、そんなに背負っているのか。
「でも…ちゃんと、話し、出来てた。聞こえてるんじゃないの?」
「聴力はほとんど残っていない。けど分かるんじゃないかな。大好きなお母さんとお姉ちゃんの言葉なら。口の動きな、言いそうなことくらいは。必死にくみ取ろうとして、無くなった耳が痛むんだろう」
あの藪医者め-まあアリスを見抜け、というのも酷な話しかもしれないが。