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恋愛小説のはずでした

婚約者から壊れた屋敷を贈られましたので、直して、壊れた婚約だけお返しします

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/17


「婚約者から、屋敷を一軒いただきました」


クラリス・オルセン伯爵令嬢がそう言うと、エレノア・バージェス公爵令嬢は微笑んだ。


「まあ。婚約祝いですの?」


「屋根が半分ありません」


微笑みが止まった。


向かいに座るリディア・モルガン子爵令嬢は、そっと茶器を置いた。


「それは、屋敷なのでしょうか」


「権利書には、そう書かれております」


クラリスが差し出した書類を、エレノアが受け取る。


屋敷は王都郊外にある古い別邸だった。


クラリスの亡き母と、婚約者ランドルフの母は姉妹である。もとは二人が育った家だったが、相続の結果、ランドルフの家が所有していた。


今では誰も住まず、屋根は崩れ、窓は割れ、税と維持費だけがかかっている。


「ランドルフ様は、どうせ結婚すれば同じ家の財産になるからと」


クラリスは小さく笑った。


「修繕費も税も、今後は私の実家で負担すればよいそうです」


エレノアが書類をめくる。


「返還条件のない正式な贈与ですわね」


「はい。ですから、直せる職人をご紹介いただきたくて」


「婚約者についてのご相談ではありませんの?」


「屋根についての相談です」


エレノアが何か言おうとした。


その前に、リディアが尋ねる。


「クラリス様は、その屋敷に住みたいのですか」


クラリスは答えなかった。


数日後、三人は屋敷を訪れた。


門は傾き、廊下には雨水が染み込み、庭は枯れた枝に覆われている。


けれどクラリスは迷わず庭の奥へ進んだ。


小さな石造りの花壇が残っていた。


「母が好きだった場所です」


幼い頃、何度か連れてきてもらったのだという。


母が亡くなってからは、訪れることも許されなかった。


「ランドルフ様には、いらない屋敷だったのでしょう」


クラリスは土を撫でた。


「その程度のものを与えれば、私には十分だと」


「それで、あなたまで不要なものになった気がしたのですね」


リディアが言った。


クラリスの指が止まる。


「……はい」


「でも、屋敷まで嫌いになったわけではない」


クラリスは俯いた。


「本当は、ここに住みたいのです」


エレノアが壊れた屋根を見上げた。


「では、まず屋根を直しましょう」


「婚約のことは?」


「あとで考えますわ」


「考えるのですね」


「当然です」


屋敷の修理は、必要な場所だけに絞った。


雨漏りを止め、窓を入れ、厨房を使えるようにした。


荒れた花壇には、母が好きだった白い花を植えた。


豪華な屋敷にはならなかった。


けれど、クラリスが帰る家にはなった。


その頃、ランドルフが母親と一人の令嬢を連れて現れた。


令嬢の名はミレーヌ。


ランドルフが最近、夜会のたびに連れ歩いている女性だった。


「なるほど。思ったよりまともになったな」


ランドルフは玄関から広間までを眺め、満足そうに頷いた。


「君にも、これくらいのことはできるらしい」


クラリスは眉を寄せた。


「私が直した屋敷ですので」


「分かっている。だから褒めているんだ」


ランドルフの母が、扇の陰で笑った。


「クラリスは昔から、言いつけたことだけは真面目にいたしますものね。妹もそうでしたわ。華やかさはありませんけれど、我慢だけは得意でした」


クラリスの指が、わずかに強く重なった。


ランドルフは気づきもしなかった。


「これなら客を招ける。結婚後は、ミレーヌにサロンを任せよう」


ミレーヌが目を瞬く。


「わたくしに?」


「君は人を集めるのが得意だ。クラリスには無理だからな」


「ランドルフ様」


クラリスが呼ぶと、彼は面倒そうに振り返った。


「何だ」


「この屋敷は、私にくださったものです」


ランドルフの母が、小さく笑った。


「まあ。本当に自分のものだと思っていたの?」


その言い方は、聞き分けのない子供を諭すようだった。


「名義をあなたに移したのは、税と修繕費をオルセン家に負担させるためです。結婚すれば、どうせこちらへ戻る財産でしょう」


「戻る……?」


「あなた自身も同じですわ」


ランドルフの母は平然と言った。


「結婚すれば、オルセン家の資金も、あなたの持参金も、すべてランドルフを支えるために使われます。何を驚いているのです?」


ランドルフも呆れたように息を吐いた。


「君は本邸で母上の言うことを聞いていればいい。この屋敷はミレーヌに任せた方が役に立つ」


「私がここに住みたいとは、お考えにならなかったのですか」


「君が?」


ランドルフは本当に意外そうな顔をした。


「雨漏りだらけの屋敷を欲しがる物好きとは思わなかった。それに、君が何を望むかまで、いちいち確認する必要があるのか?」


ランドルフの母が続ける。


「あなたはランドルフの妻になるのです。妻が夫の判断に従うのは当然でしょう」


「では、ミレーヌ様は?」


「ミレーヌさんには、あなたにないものがあります」


母親は微笑んだ。


「社交性と華がね」


ランドルフもミレーヌを見て笑う。


「クラリスは金と家を持ってくる。ミレーヌは人を集める。役割が違うだけだ」


広間が静まり返った。


ミレーヌの扇が、ゆっくりと閉じた。


「わたくしも、あなたの道具ということですのね」


「君にも悪い話ではないだろう」


「そう思っているのは、あなただけですわ」


ミレーヌは立ち上がった。


「このお話から、わたくしは降ります」


「待て、ミレーヌ」


「待ちません」


彼女はクラリスを見る。


「知らなかったとはいえ、不快な思いをさせました。申し訳ございません」


クラリスは首を横に振った。


「ミレーヌ様も、知らされていなかったのでしょう」


「ええ」


ミレーヌは窓の外の花を見た。


「白い花は、そのままがよろしいと思います」


そう言って、広間を出ていった。


ランドルフの母がクラリスへ詰め寄る。


「考え直しなさい。あなたが婚約を解消すれば、こちらは困るのです!」


以前なら、その言葉に怯えたかもしれない。


自分が我慢しなければ、誰かが困る。


そう言われれば、頷いていた。


リディアの手が、膝の上でわずかに握られた。


エレノアは何も言わなかった。


ただ、二人ともクラリスから目を逸らさない。


自分が耐えれば済む。


その言葉が、どこまで人を黙らせるのかを、二人は知っていた。


「私が困っていた時、皆様は考え直してくださったのですか」


誰も答えなかった。


クラリスはランドルフを見る。


「あなたが私にくださったのは、壊れた屋敷です」


「だから何だ」


「ここを家にしたのは、私です」


ランドルフは唇を歪めた。


「屋敷のために、私を捨てるのか」


「いいえ」


クラリスは首を横に振った。


「私を妻ではなく融資として扱い、私の家を別の方へ与えようとした方とは、暮らせないと決めただけです」


ランドルフが睨みつける。


「後悔するぞ」


「後悔するかどうかも、私が決めます」


エレノアが、そこでようやく権利書を開いた。


「贈与は正式に完了しております。返還条項もありません。婚姻前ですから、ランドルフ様にも、ランドルフ様のお母様にも、管理権も所有権もございません」


ランドルフの母の顔から血の気が引いた。


「では、私たちには何が残るのです」


エレノアは書類を閉じた。


「借金ではありませんの?」


リディアがクラリスを見る。


「何か、お返ししたいものはありますか」


クラリスは少し考えた。


窓の外では、白い花が揺れている。


「そうですね……」


クラリスは、ランドルフを見た。


「壊れた屋敷は、いただきました」


そして、わずかに微笑む。


「ですから、壊れた婚約だけ、お返しします」


数日後。


リディアとエレノアのもとへ、白い花が二輪届いた。


一輪はクラリスから。


もう一輪には、ミレーヌの名が添えられていた。


クラリスの手紙には、短くこう書かれていた。


――私の家で、最初の花が咲きました。

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