婚約者から壊れた屋敷を贈られましたので、直して、壊れた婚約だけお返しします
「婚約者から、屋敷を一軒いただきました」
クラリス・オルセン伯爵令嬢がそう言うと、エレノア・バージェス公爵令嬢は微笑んだ。
「まあ。婚約祝いですの?」
「屋根が半分ありません」
微笑みが止まった。
向かいに座るリディア・モルガン子爵令嬢は、そっと茶器を置いた。
「それは、屋敷なのでしょうか」
「権利書には、そう書かれております」
クラリスが差し出した書類を、エレノアが受け取る。
屋敷は王都郊外にある古い別邸だった。
クラリスの亡き母と、婚約者ランドルフの母は姉妹である。もとは二人が育った家だったが、相続の結果、ランドルフの家が所有していた。
今では誰も住まず、屋根は崩れ、窓は割れ、税と維持費だけがかかっている。
「ランドルフ様は、どうせ結婚すれば同じ家の財産になるからと」
クラリスは小さく笑った。
「修繕費も税も、今後は私の実家で負担すればよいそうです」
エレノアが書類をめくる。
「返還条件のない正式な贈与ですわね」
「はい。ですから、直せる職人をご紹介いただきたくて」
「婚約者についてのご相談ではありませんの?」
「屋根についての相談です」
エレノアが何か言おうとした。
その前に、リディアが尋ねる。
「クラリス様は、その屋敷に住みたいのですか」
クラリスは答えなかった。
数日後、三人は屋敷を訪れた。
門は傾き、廊下には雨水が染み込み、庭は枯れた枝に覆われている。
けれどクラリスは迷わず庭の奥へ進んだ。
小さな石造りの花壇が残っていた。
「母が好きだった場所です」
幼い頃、何度か連れてきてもらったのだという。
母が亡くなってからは、訪れることも許されなかった。
「ランドルフ様には、いらない屋敷だったのでしょう」
クラリスは土を撫でた。
「その程度のものを与えれば、私には十分だと」
「それで、あなたまで不要なものになった気がしたのですね」
リディアが言った。
クラリスの指が止まる。
「……はい」
「でも、屋敷まで嫌いになったわけではない」
クラリスは俯いた。
「本当は、ここに住みたいのです」
エレノアが壊れた屋根を見上げた。
「では、まず屋根を直しましょう」
「婚約のことは?」
「あとで考えますわ」
「考えるのですね」
「当然です」
屋敷の修理は、必要な場所だけに絞った。
雨漏りを止め、窓を入れ、厨房を使えるようにした。
荒れた花壇には、母が好きだった白い花を植えた。
豪華な屋敷にはならなかった。
けれど、クラリスが帰る家にはなった。
その頃、ランドルフが母親と一人の令嬢を連れて現れた。
令嬢の名はミレーヌ。
ランドルフが最近、夜会のたびに連れ歩いている女性だった。
「なるほど。思ったよりまともになったな」
ランドルフは玄関から広間までを眺め、満足そうに頷いた。
「君にも、これくらいのことはできるらしい」
クラリスは眉を寄せた。
「私が直した屋敷ですので」
「分かっている。だから褒めているんだ」
ランドルフの母が、扇の陰で笑った。
「クラリスは昔から、言いつけたことだけは真面目にいたしますものね。妹もそうでしたわ。華やかさはありませんけれど、我慢だけは得意でした」
クラリスの指が、わずかに強く重なった。
ランドルフは気づきもしなかった。
「これなら客を招ける。結婚後は、ミレーヌにサロンを任せよう」
ミレーヌが目を瞬く。
「わたくしに?」
「君は人を集めるのが得意だ。クラリスには無理だからな」
「ランドルフ様」
クラリスが呼ぶと、彼は面倒そうに振り返った。
「何だ」
「この屋敷は、私にくださったものです」
ランドルフの母が、小さく笑った。
「まあ。本当に自分のものだと思っていたの?」
その言い方は、聞き分けのない子供を諭すようだった。
「名義をあなたに移したのは、税と修繕費をオルセン家に負担させるためです。結婚すれば、どうせこちらへ戻る財産でしょう」
「戻る……?」
「あなた自身も同じですわ」
ランドルフの母は平然と言った。
「結婚すれば、オルセン家の資金も、あなたの持参金も、すべてランドルフを支えるために使われます。何を驚いているのです?」
ランドルフも呆れたように息を吐いた。
「君は本邸で母上の言うことを聞いていればいい。この屋敷はミレーヌに任せた方が役に立つ」
「私がここに住みたいとは、お考えにならなかったのですか」
「君が?」
ランドルフは本当に意外そうな顔をした。
「雨漏りだらけの屋敷を欲しがる物好きとは思わなかった。それに、君が何を望むかまで、いちいち確認する必要があるのか?」
ランドルフの母が続ける。
「あなたはランドルフの妻になるのです。妻が夫の判断に従うのは当然でしょう」
「では、ミレーヌ様は?」
「ミレーヌさんには、あなたにないものがあります」
母親は微笑んだ。
「社交性と華がね」
ランドルフもミレーヌを見て笑う。
「クラリスは金と家を持ってくる。ミレーヌは人を集める。役割が違うだけだ」
広間が静まり返った。
ミレーヌの扇が、ゆっくりと閉じた。
「わたくしも、あなたの道具ということですのね」
「君にも悪い話ではないだろう」
「そう思っているのは、あなただけですわ」
ミレーヌは立ち上がった。
「このお話から、わたくしは降ります」
「待て、ミレーヌ」
「待ちません」
彼女はクラリスを見る。
「知らなかったとはいえ、不快な思いをさせました。申し訳ございません」
クラリスは首を横に振った。
「ミレーヌ様も、知らされていなかったのでしょう」
「ええ」
ミレーヌは窓の外の花を見た。
「白い花は、そのままがよろしいと思います」
そう言って、広間を出ていった。
ランドルフの母がクラリスへ詰め寄る。
「考え直しなさい。あなたが婚約を解消すれば、こちらは困るのです!」
以前なら、その言葉に怯えたかもしれない。
自分が我慢しなければ、誰かが困る。
そう言われれば、頷いていた。
リディアの手が、膝の上でわずかに握られた。
エレノアは何も言わなかった。
ただ、二人ともクラリスから目を逸らさない。
自分が耐えれば済む。
その言葉が、どこまで人を黙らせるのかを、二人は知っていた。
「私が困っていた時、皆様は考え直してくださったのですか」
誰も答えなかった。
クラリスはランドルフを見る。
「あなたが私にくださったのは、壊れた屋敷です」
「だから何だ」
「ここを家にしたのは、私です」
ランドルフは唇を歪めた。
「屋敷のために、私を捨てるのか」
「いいえ」
クラリスは首を横に振った。
「私を妻ではなく融資として扱い、私の家を別の方へ与えようとした方とは、暮らせないと決めただけです」
ランドルフが睨みつける。
「後悔するぞ」
「後悔するかどうかも、私が決めます」
エレノアが、そこでようやく権利書を開いた。
「贈与は正式に完了しております。返還条項もありません。婚姻前ですから、ランドルフ様にも、ランドルフ様のお母様にも、管理権も所有権もございません」
ランドルフの母の顔から血の気が引いた。
「では、私たちには何が残るのです」
エレノアは書類を閉じた。
「借金ではありませんの?」
リディアがクラリスを見る。
「何か、お返ししたいものはありますか」
クラリスは少し考えた。
窓の外では、白い花が揺れている。
「そうですね……」
クラリスは、ランドルフを見た。
「壊れた屋敷は、いただきました」
そして、わずかに微笑む。
「ですから、壊れた婚約だけ、お返しします」
数日後。
リディアとエレノアのもとへ、白い花が二輪届いた。
一輪はクラリスから。
もう一輪には、ミレーヌの名が添えられていた。
クラリスの手紙には、短くこう書かれていた。
――私の家で、最初の花が咲きました。
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