夢の世界で聞いた最後の音
「告白さえすれば、どんな女性からでも必ずOKを貰える夢のような世界に行けるんだよ」
一年ぶりに悪友の彰の家に呼び出されたかと思ったら、リビングでそんな話をされた。
「嘘だろう?」
俺は目の前の彰をまじまじと見つめる。
「ああ、俺も嘘だと思うよ」
彼はそう言うと、テーブルの上に古びた鏡と、透明の液体の入った小瓶と、大きな砂時計のようなウォータードリッパーを置いた。
「祐介さ、彼女いない歴何年?」
彰はそう言って、ニヤニヤしながらこっちを見てくる。
「二十と三年。年齢と同じだよ」
本当なら、彼女いない歴は二十二で止まるはずだったのに。
「じゃあ、お前にやるよ。唯にもう一度告白して、返事を貰ってくればいいじゃん」
唯。俺がこの人生を捧げてもいいと初めて思えた女性。彼女に告白した二日後に、首を吊って自殺した。
唯のことを考えていた俺に、彼は鏡とドリッパーをずいと突き出してくる。
「いやいやいや。怪しすぎるだろ。死んだ、彼女と付き合えるわけがない。大体どこでこんなもの手に入れたんだよ」
彰は顎に指をかけ、ほんの少しだけ首を傾げた。
「嫁から。魔法使いだし、こういったポーションの調合もお手の物だぜ。俺も少しだけ手伝ったけどな」
彼はそう言うと、小瓶を摘んで軽く振った。確か彼女は薬剤師だったはずだ。ふざけた答えだ。
二人で話し込んでいると「どうぞ」という声と共に、タピオカミルクティーが差し出された。彰の妻、葵からだ。屈み込むその姿にドキリとする。結んだ髪がすらりと流れ落ち、うなじが露わになる。右の首筋にほくろが見えた。やっぱり唯とは違うんだな。そう思いながらも、俺はどこか気まずさを覚え、視線を反らす。
俺はテーブルの上の物を一瞥すると彰の方へ向き直った。
「分かったよ。ありがたく預からせてもらう。で、どうすればいい?」
「ウォータードリッパーに、この魔法の液体を投入して、ドリッパーの下に鏡を置く」
彰はそう言いながら、実演するふりをしてみせた。
「ドリッパーから落ちた水滴が鏡に当たると、夢の世界への入り口が開くんだよ」
彼はそう言うと、ニヤリと笑う。
「後は全裸になって、鏡に左手の薬指を触れれば、鏡の中に入ることができる。喜び勇んで裸踊りなんかするなよ?」
全裸。もしかしたらネットワークカメラかなんか仕込んでいて、盗撮とかされるとかじゃないだろうな。
「もうあなたったら、流石に失礼でしょう? でも、服を着ていると想い人には会えないわ」
葵が彰の隣に座りながらカラカラと笑った。
(妹が死んだって言うのに、どうしてこう元気でいられるんだか)
唯は葵の妹だ。なんだか、この二人を見ているとタチの悪い人形劇でも見てるような感覚に囚われる。どこかムシャクシャして、目の前のタピオカミルクティーを一気にあおると、そのまま飲み干した。
「とりあえず家に帰って試してみるわ。さすがにここで変な格好を晒すわけにもいかないからな」
思わせぶりに、葵がウィンクしてきた。
「あら、私は構わないわよ。女性に裸を見せるの、初めてってわけじゃないでしょう?」
その言葉に彰がピキリと固まる。
「葵さんには裸を見せた覚えはないです。ほら、旦那さんが氷みたいになっちゃってますよ」
それだけ言うと俺は立ち上がり、二人に軽く手を振った。
「ごちそうさま。家に帰ったら、早速試してみるから」
「おう。まあ楽しんでこいや」
「良い返事をもらえるといいわね」
テーブルの上の物をリュックに押し込む。そのまま逃げるように彼らの家を後にする。
道すがら、唯のことを思い出していた。俺の全裸を見せたのは唯の方だ。大学時代、部活終わりに更衣室で海パンを下げたところを彼女に見られただけだ。彼女は何も言わず、ただ興味深そうに俺の裸体をじっと見つめていた。
自宅のマンションに戻った俺はリュックをテーブルの上に置くと、冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出す。プルタブに指をかけ、そのまま引っ張った。缶の縁を口につけ、一気に流し込むとほのかな苦みと、シュワっとした爽やかな麦の味が口の中に広がる。冷たいビールが身体を火照らせた。
目の前の壁紙を見上げた。そこには水着を着て笑顔を向ける唯、浴衣を着てウチワを扇ぐ唯、真剣に授業を受ける唯の後姿。大学時代に撮った写真ばかりだ。
「今度こそ、返事を貰えるのかな」
告白したときの事は昨日のことのように思い出せる。彼女は目を潤わせ「こんな姿じゃ恥ずかしいから、きちんとした格好で返事をさせてください」と言って、顔を赤らめながら去っていった。流石にそこまで言っておいてお断りの返事は無いだろうと、喜び勇んだ気持ちのまま、その時は家に帰った。
アルコールが体を巡る。頭に雲が浮かんだようにホワホワし、心臓が高鳴る。唯に会える、そのことで興奮しているのかもしれない。
俺はおもむろに全ての衣服を脱ぎ捨てた。もし、唯に会えるのなら、会いたい。告白の続きが聞きたい。そんな思いでリュックの中から預かった物をテーブルに並べ、彰に言われた通りにセットする。
ドリッパーから、ポタリ、ポタリと音を立てながら上品な香りと共に水滴が落ちる。それが鏡の上で跳ね返る度に、鏡に波紋が広がった。
左手の薬指で鏡にそっと触れてみる。何も起こらなかった。水滴が落ちた鏡の上で、波紋だけが広がる。斧を投げ込んだ泉よろしく説明しにくる女神も来ない。鏡に俺の歪んだ顔がみえた。ろくでもないイタズラだな。フッと息を吐き、指を離そうとした刹那。鏡から白い手が伸び、俺の左手を万力のような力で掴む。そのまま引きずり込まれた。
「……っ!」
水洗トイレで流されるトイレットペーパーもこんな気持ちなんだろうな。そんなことを思いながら鏡の中へと俺の身体は吸い込まれていく。
降り立ったそこは見覚えがあった。目の前にあるのは水泳部の更衣室のカーテン。あの時のままだ。古い布と埃の匂いがするそれを跳ね除けた。
「祐介くん……」
どこか懐かしい、聞き覚えのある声。そこには、あの頃と変わらない唯が白い肌を覗かせながら、驚いた顔を見せていた。
「唯? ……なのか。唯、唯……」
心臓が高鳴った。いや高鳴りすぎている。そのまま駆け寄ると、唯をぎゅっと抱きしめた。同時に頭の中に直接語り掛けてくるように「駄目! 駄目!」という唯の声が響く。
涙を浮かべ、顔を赤くした唯と、頭の中に響き渡る、嬉しい悲鳴のような恥ずかしがる唯の声。そういえば、あの時も同じように恥ずかしがっていたっけ。
「唯。好きだ。付き合ってくれ」
以前は「こんな姿じゃ恥ずかしいから、きちんとした格好で返事をさせてください」と言われ、バスタオルを胸に抱えながら飛び出して行ったはずだ。今度は逃さないよう回した腕をきつく締め上げる。彼女の濡れた髪から甘い匂いがした。
唯は俺の胸の中で脱力したまま暫く俯いていた。やがてぽつりと呟く。
「……はい。喜んでお付き合いさせて下さい」
俺は生唾を飲み込んだ。ふいに視線が彼女の首筋に行く。だが、その細いうなじは葵が見せたものと全く同じだった。こいつ。そのまま唯に似た何かを突き飛ばす。
「……祐介くん、どうして? どうしてそんなことをするの?」
唯が怯えたような顔で俺を見上げている。肩が勝手にブルブルと震え出す。昔からそうだ。
「葵さんこそ。どうして、こんな酷いことをするんですか?」
「唯だよ。私、唯だよ」
そう言いながら、唯だったものがよろよろと立ち上がった。
「唯には右の首筋にほくろはありませんでした。葵さん、あなたにはありますよね? 唯の写真をずっと見ていたから知ってるんですよ」
まるでその言葉が合図にでもなったかのように、唯の顔がぐにゃりと葵の顔へと変わる。
「唯はどこにいるんです? 唯に会わせてください!」
葵は一歩前へと進み出ると、ずいとその顔を俺の目の前に晒した。
「唯はあなたのせいで死んだ」
そう言うと、葵の温度のない茶色い瞳が真っ直ぐに射抜いてくる。いつの間にか、更衣室の前の廊下に立っていた。
「……祐介さん。なんであんなことしたの? 部活終わりの更衣室にまで忍び込んで。唯はね……泣き喚いていたわ」
葵は目に涙を浮かべている。
「忍び込んでなんかいない! 唯の着替えを待っていただけだ……それに、俺が海パンを下ろしたときも、唯は俺の体をじっと見つめてた。誘ってると思ったんだ」
「恐怖で声も出せず、固まってただけよ」
「でも、俺が告白した後、返事をくれるとも言っていた!」
「咄嗟に嘘ついたに決まっているでしょう。ねえ、不法侵入して無理やり抱きついた後に、告白の返事を迫るなんて頭おかしくない? 妹は何度も『駄目!』って言ってたはずよ」
「恥ずかしがって、照れていただけだろ、そんなの」
おもむろに、葵が俺の髪の毛を鷲掴みにした。
「妹はね。そのせいで精神を病んで、自ら命を絶ったわ」
そのまま、ものすごい力で地面に引き倒された。思い出した。以前もこうして葵に引き倒されたことを。
「もういい。報いを受けさせてあげる」
そういって、葵はどこへともなく消えていった。唯が自殺してから、ずっと靄がかかっていた記憶と全く一緒だったことに気付く。何故今になって思い出したのだろう。
「祐介さん。早く来て?」
唯の声がする。俺は声のする方へと向き直りながら立ち上がった。唯は窓の外、まるで白い雲のようなベッドの上で、うつ伏せの格好で寝そべっていた。にこやかに笑いながら、両腕で頬杖を付き、両足をパタパタとさせている。
俺は大きく頷くと、窓を開け、その縁へよじ登りながら足をかける。縁を蹴り、勢いよく唯の待つベッドへ向かってジャンプした。
ふわりと風が身体に纏わりつく。
グチャッ。
その音は不思議と心地良かった。
(おわり)




