1-8 仕事と“声”と、初日の終わり
まずは一時間くらい、とにかく書類の口頭入力に集中。夕暮れが始まりかけたころ、机の上の紙束は一山が片付いた。先は長いな。
AIスマホに向かって、俺はひたすら書類の要点と思しきところを読み上げる。区分の抜け漏れがあっても、それは後で考えよう。
少なくとも、俺の読み上げに対してフィオは注文を付けてこない。大筋では間違っていないらしい。
「……ノアスさん。本当に“渡り人”なのですね。
この世界の人では、まず見ない処理の仕方です」
フィオは驚きと感心が入り混じった表情でしゃべりかけてきた。
返事をしようとしたが、喉が絡む。咳払いした。水が欲しい。
気づいたフィオが、すっと立ち上がってドアの横にある水差しへ向かう。器に注いだ水をそっと差し出してくれた。ほんのり柑橘系の香り。お茶の一種のようだ。
「ごめんなさい、気が利かず。お飲み物をどうぞ。一度、沸かしてありますよ」
「ありがとうございます。大したことはしてませんよ」
「音声入力の継続が困難と判断しました。休憩を推奨します。なお、水分補給は処理効率の向上に寄与する可能性があります」
フィオはくすりと笑う。AIスマホから、こういう一言が無ければなあ。せっかくフィオさんと会話してるんだからさ。
「お疲れのようすですね。“声”に出てますよ」
「ははは。お恥ずかしい。ちょっと一息つかせてください」
フィオは書類の束に視線を落とした。
「声を使って思考を整理する方はいますが……“声が返事をする”人は、初めてです」
「いや、だからそれは……」
「……待機状態を維持しています。“声が返事をする”という表現は、比喩表現として処理すべきか判断できません」
「黙ってろって……!」
胸元に向かって、俺は声をかけた。フィオはクスクスと笑う。
「もう日暮れのようですし。今日はこの辺にいたします。では、宿へご案内しますね」
宿はギルドの上階にあった。結局俺は門からギルドへ、そして宿へ。まったくオルベンの町に足を踏み入れていないぞ。緩いようで、この辺の運用は厳重だな。
「こちらの二階、三号室が今夜のお部屋となります」
階段を指し示すフィオ。
「カギはこれからお渡しします。共同浴場と食堂は先ほどお話しした通り、それぞれ地下と一階にあります。売店もご利用いただけます。簡単な日用品を置いてあります。
その他のご質問は受付へ。もうすぐ閉まりますので、お気をつけて」
てきぱき説明してくれるフィオ。ずいぶん丁寧だなあ。ぼんやりと彼女の口元を眺めてしまう。いや、説明は聞いてますよ。って、誰に言い訳してるんだ。
「他に何かご質問は?」
「宿泊環境の安全性は未検証です。就寝前に施錠の確認を推奨します」
フィオは苦笑し、耳の後ろを軽く指先でかく素振り。
「ええと、一応ここはギルドの施設内ですから、泥棒などは少ないと思いますよ。価値があるものは魔石くらいですが、特別に保管していますし」
「はい、フィオさん。余計なことを言いました。・・・もう追加質問はないからな」
「質問の終了を確認しました。ただし、未解決の不安要素が残存しています。就寝中の異常音や振動を検知した場合は、即時報告を推奨します」
はあ、もう。こいつってば。気が利くようで、空気を読まない。
「慎重なんですね」
フィオはもう不審を通り越して、完全に面白がっているようだ。勘づいてるんだろうなあ、AIと俺の関係を。問いただしたりせず、“声”として通してくれるのがありがたい。
「では、ゆっくりお休みください。明日は準備ができたら受付にお声がけください。私が参ります」
すっと身体を翻すフィオ。
「あ、開始時間とかは決めないんでしょうか?」
振り返るフィオ。髪がふわりと揺れる。
「お任せしますよ。お仕事はあくまであなたへの臨時支援です。気が乗らなければ来ない方もおられます」
じっと目を見つめられる。はい、わかりました。まじめにやれってことですね。
「了解しました。ただし、“気が乗らない場合は来ない”という運用方針は、適用外です。例外はありません。本日の作業進捗から判断し、明日の参加を強く推奨します」
「では、また明日」
“声”の返事に満足げなフィオ。俺の返事を待たずに行ってしまった。ああ、俺にカッコつけさせて。
部屋に入ると、ようやく肩の力が抜けた。ベッドに腰を下ろし、深く息をつく。
「さて。整理しよう。AI、とりあえずいろいろと俺がしゃべる。それをまとめてくれ」
今夜の夕飯に酒は、あいにく無かった。そのほうがいいな。泥酔がこんな羽目に陥った一因だし、今日は控えておこう。
「本日の行動ログを参照します。書類処理の進捗は全体の一割程度。対人関係では、監督者フィオとの信頼度が上昇傾向にあります」
「信頼度って……まあ、いいけど」
「明日の最適行動案を提示します。第一に書類処理の継続。第二に情報収集。第三に生活基盤の確立。優先順位は状況に応じて再計算します」
淡々と告げる“声”を聞きながら、俺は天井を見上げた。
――異世界での初日としては、悪くない。むしろ上出来だ。
「よし。明日も頼むぞ、AI」
「了解しました。待機状態を維持します」




