7-6 草原の昼と、風のささやき
昼が近づくにつれ、草原の空気は少しずつ温かくなってきた。背中がうっすら汗ばんでいる。
荷馬車は相変わらずガタガタと揺れ、俺の胃袋は相変わらず不安定だが、さっきよりはマシだ。やはりこの開放感のおかげだろう。風が気持ちいいし、景色も広い。酔いと爽快感が同時に押し寄せるという、なんとも複雑な状態である。
「ノアス、そろそろお昼にしようか」
フィオが御者台から振り返り、軽く手綱を引いた。馬が鼻を鳴らし、草原の真ん中でゆっくりと止まる。
「お、おう……。休憩……助かる……」
「補足します。ノアスの酔い度は、現在“やや回復傾向”です」
「その実況いらない!」
「まあまあ。“声”さんもノアスを心配してるんだって」
フィオが優しく突っ込んでくる。荷馬車から長いヒモに馬を結び変え、車輪に止めを打って動かないようにする。そのまま馬があたりの草を食べるに任せた。へえ、こうやって昼飯を与えるんだな。
フィオが準備をしている間に、俺は荷台から降り、ふらつく足取りで草の上にへたり込む。腕を高く上げて身体を伸ばした。草原の匂いが鼻に心地よい。
「はい、これ。携帯食だけど……一応、味は悪くないはず」
フィオが差し出したのは、干し肉と固いパン、そして小さな果物。質素だが、旅の昼食としては十分だ。
「おお……ありがとう。なんか、キャンプっぽいな」
「キャンプってなに?」
「あ、そっか。伝わらないよな。えっと……外で食べるのって、なんかこう……雰囲気がいいだろ?」
「そうね。なんか、特別な感じがするよね」
フィオが微笑む。その笑顔が、草原の光に照らされてやけに眩しい。
「補足します。ノアスの“ときめき度”が上昇しています」
「お前は俺の心を覗くな!!」
フィオは肩を震わせる。
「ねえノアス、パンちょっと硬いから、果物と一緒に食べるといいよ。今は火を起こさないから、スープに浸さないで食べてね」
フィオが俺の手元にそっと果物を置く。その指先が一瞬触れただけで、心臓が跳ねた。 頷いた俺はパンにかぶりつく。確かにかなり硬いが、歯で削ぐように食べていく。若い身体は咀嚼力も元気いっぱいだ。
「補足しますね。ノアスさんの心拍数は──」
「言うなって言ってるだろ!!」
「もー。かわいいんだから」
微笑みながら干し肉をかじるフィオの横顔が、なんだかいつもより大人びて見えた。こういうところ、俺を弟みたいに見てるのかもしれない。五十五歳の心を持つ身としては、なんとも面はゆい。
「……ねえ、ノアス。聴いて。今回の旅、ちょっと……怖いけど、でも……楽しみでもあるんだ」
フィオは草原の向こうを見つめながら言った。
「怖いのか?」
「うん。だって、魔石の異変とか、湖のこととか……。何が起きてるのか、わからないでしょ?
でも……ノアスと一緒なら、なんとかなる気がするの」
その言葉は、風よりも柔らかく胸に落ちた。
「……任せろよ。俺がついてるからな」
「補足します。“なんとかなる”は根拠のない励ましですが、心理的効果は高いです」
「お前は黙ってろ!!」
「ふふ……ありがとう、ノアス。ほんとに、心強いよ」
その笑顔に、俺は完全に撃ち抜かれた。まだ知り合って間もない俺を、なぜフィオはこんなに信頼してくれるのか。期待に応えたい。
草原の真ん中で、こんなに心臓が忙しいとは思わなかった。
そのとき、馬がピクリと耳を立てた。荷馬車の方へ戻ってくる。
「……ん?」
フィオも気づき、馬の横に歩み寄る。
「どうしたの、馬くん?」
馬は草原の奥をじっと見つめている。風が一瞬だけ止まり、草の揺れが静まった。
「な、なあフィオ……なんか、変じゃないか?」
「……うん。今、何か……音がしたような……」
「補足します。風の乱れを検知しました。魔物の可能性は──低いと思われます」
「その“思われます”が一番怖いんだよな」
フィオは眉を寄せ、草原の奥を見つめた。その表情には、ほんの少しだけ緊張が走っている。
「……気のせい、かな」
風が戻り、草がざわざわと揺れ始めた。馬も落ち着きを取り戻す。
「大丈夫だよ、フィオ。なんとかなるって」
「補足します。“なんとかなる”の根拠は依然として確認できません」
「お前は黙ってろって!」
フィオがくすっと笑い、緊張が少しだけ解けた。
「よし……そろそろ行こうか。次の休憩まで、がんばろ」
「お、おう」
「補足します。ノアスの自信度はややふわっとしています」
「ふわっとって何だよ!」
フィオは笑いながら御者台に戻り、手綱を握った。荷馬車がゆっくりと動き出す。
草原の右には、広大な森が広がっている。まだオルベンの森だ。これが明日にはトレッサの森に変わっていく。森は一つなのに、近くの町によって違うものとして扱われる。 そして実際、同じ森のはずなのにオルベンとトレッサで魔物の分布や頭数が異なるらしい。なぜかはわからない。
日がかげるにはまだ早いのに、荷馬車の上で俺の頬にかかる風は、さっきより少しだけ冷たく感じられた。
昼を過ぎたばかりだが、空気がどこか澄んでいる。いや、澄みすぎている。
「ノアス、さっきの……怖かった?」
御者台からフィオが声をかけてくる。馬の背中越しに振り返るその表情は、さっきよりも少しだけ柔らかい。
「いや……まあ……ちょっとな。馬があんな反応するとは思わなかったし」
「補足します。馬は環境の変化に敏感です。特に、魔素の揺れや、遠くの音に反応しやすい傾向があります」
「魔素の揺れって何だよ。俺には見えないし聞こえないし感じないんだけど」
「魔素を私が吸収したことで、この揺らぎの感知度合いが78%上昇しました。ノアスは“魔素感知スキル:未実装”です」
「いつの間に進化してたんだ、お前は……」
フィオが吹き出した。
「ふふ……ノアスだけじゃなく、“声”さんも頼もしいよね。いてくれると、なんか安心するよ。なんだかんだで頼りになるもん」
その言葉に、胸がじんわり熱くなる。
頼りになる? 俺が? なんかしたっけ? まさか魔石カスを森に捨てただけで、こんな高評価ってわけないよな。
「補足します。頼りになる根拠は現在調査中です」
「お前は余計なことを言うな!!」
フィオは微笑みを続けたまま、手綱を軽く引いた。馬が速度を落とし、草原の緩やかな坂を下っていく。
「ねえノアス、トレッサに着いたら、まず宿を探そうね。
それからギルドで情報を集めて……森の調査は、そのあとかな」
「そうだな。宿は……どんな感じなんだろうな。オルベンの宿は、まあ……普通だったけど」
「トレッサはもっと大きい町だから、宿もいろいろあると思うよ。でも、あんまり高いところは無理かな……」
フィオが少しだけ眉を寄せる。
「お金、そんなに余裕ないのか?」
「うん……。ギルドからちょっと借りたけど、私の貯金もそんなにないし……」
「だったら、俺が出すよ」
「えっ……?」
フィオが驚いたように振り返る。馬車の揺れで髪がふわりと揺れ、光を反射してきれいだ。
「いや、ほら……俺、この旅に向けて魔石狩りを、目立ちすぎないぎりぎりまで頑張って貯めてたからさ。フィオに負担かけるのは嫌だし」
「ノアス……」
フィオの目が、ほんの少し潤んだように見えた。
「……ありがとう。じゃあ、甘えちゃおうかな。
それとね、しっかりノアスは目立ってたよ。毎日きっちり三〜四個魔石を持ってくるんだもん。
ルミリは『ノアスさんが悪目立ちしてるって気づいてないと思ってるのかな』って心配してたし、
トラーム部門長は『知らないふりをするのがギルド職員というものだ』って言ってたし。
今日は三個か四個か賭けよう、ってルミリは盛り上がってたのよ。知ってた?」
「……知らなかった」
俺はがっくり肩を落とした。
「でも、嬉しいな」
フィオの優しい声に癒される。彼女は振り向かない。御者台に座った背中だけが見える。
草原の風が、さっきよりも暖かく感じられた。
しばらく進むと、遠くに商人の隊列が見えてきた。向こうからこちらへやってくる。
荷馬車が三台、護衛らしき人影が四人ほど。こちらに気づくと、軽く手を挙げて挨拶してきた。
「こんにちはー!」
フィオが明るく手を振る。商人たちも笑顔で応じてくれたが、護衛の一人がこちらをじっと見ている。
「……なんか、探られてないか?」
「うーん……旅人が珍しいのかもね。オルベンからトレッサへ行く人って、商人以外だとそんなに多くないし」
「補足します。護衛の人数は“平均よりやや多め”です。……何かあった可能性がありますね」
「おい、その“何か”って何だよ」
「現在の情報では特定できません。ただし、魔物の増加傾向は──」
「言わなくていい!」
フィオが苦笑しながら、馬の首を軽く撫でた。
「でも……確かに、最近は魔物の話、多いよね。オルベンの森でも、ちょっと増えてるって聞いたし……」
「カイラムさんも言ってたよな。“揺動”とか、“湖の異変”とか……全部つながってるかもしれないって」
「うん……」
フィオの表情が、また少しだけ曇る。
「大丈夫だよ。俺がついてるからな」
「補足します。“なんとかなる”の根拠は依然として──」
「黙れぇぇぇ!」
フィオが吹き出し、空気が少しだけ軽くなる。
「ふふ……ありがとう。ほんとに、ノアスと“声”が一緒でよかった。
魔石への私のこだわりを怪しんだり変な目をせずに、協力してくれて」
その言葉は、昼の光よりも温かかった。
荷馬車は草原を進み続ける。遠くの森が、さっきよりもはっきりと見えてきた。
風がまた少し冷たくなった気がした。森は右に大きく広がる。風景は何も変わらない。丘のような起伏もないのに、なぜこんな頻繁に風の違いを感じるんだろう。
「……なんか、空気変わった?」
「そうかな?」
「補足します。次の休憩は約一時間後です。……ただし、馬の気分によって前後する可能性があります」
「馬の気分ってなんだよ!」
フィオが笑い、馬が鼻を鳴らす。
草原の道は、まだまだ続いていた。




