6-10 フィオの家の夜
「おかえり、ノアス。……無事でよかった」
森から戻ったのは、もう夕方になろうという頃合いだった。ギルドに入ると、受付にいたフィオがたちまち眩しい笑顔を向けてくれる。それだけで、疲れた身体がすうっと癒された。
「ただいま。どうやら問題はなかったみたいだ」
ちょっと口ごもりながら、よくわからない返事をもごもごと返す。
「補足します。ノアスは“無事でよかった”という言葉に強く反応し、適切な返答を選べず混乱しています」
「言わなくていいから!」
俺が慌てて胸元のAIスマホを押さえると、フィオは肩を震わせて笑った。
宿に戻って風呂で汗を流すと、もう夕暮れだった。初めての一泊仕事のあとだし、そのまま倒れ込んで寝たい衝動に駆られる。だけど、フィオともきちんと話したい。今夜行くと約束したわけではないけれど……大丈夫だろうか。
オルベンの夕暮れは短い。あっという間に夜の暗さが町を包んだ。
ロスティアに転移して、そろそろ半年。フィオの家へ向かうようになったのはここ数か月だが、もう道にもすっかり慣れた。
食堂街を抜けるとき、店から漂う香辛料の匂いに腹が鳴る。今夜もフィオの家で夕飯を食べられたらいいな。
速足になったのは、もちろん腹が減っていたからだけじゃない。
フィオの家に着くと、窓から橙色の灯りがぽつりと漏れていた。外はすっかり暗く、家の明かりが島のように温かい。
ノックすると、すぐにフィオが出迎えてくれた。ギルドでの笑顔より、1.35倍くらい増している気がする。扉の奥から、煮込んだ野菜と香草の匂いがふわりと鼻をくすぐる。胃がきゅっと鳴った。やばい。
「まずは、ごはんにしようか。どうぞー」
腹をさする俺を見て、フィオがくすくす笑う。ドアをくぐると、後ろから俺の背中を軽くポンポンと叩いてくれた。その仕草が、どうしようもなく胸を熱くする。
この反応は五十五歳の精神が受け止めた温かさか、十八歳の肉体が感じた労りの嬉しさか……どちらだろう。
テーブルにつくと、フィオは次々に料理を並べていく。湯気の立つ皿が二つ。スープ、焼いた肉、パン。普段より明らかに豪華だ。
「おお……なんか、今日は豪勢だな」
「べ、別に。たまたまよ。たまたま」
フィオはそっぽを向く。耳がほんのり赤い。
席につくと、フィオはじっと俺の顔を見つめてきた。からかいよりも、どこか慈しむような穏やかさ。視線がやけに柔らかい。
「疲れてるでしょ。……今日は雰囲気が、なんだか優しいね」
「え? フィオこそ。いつもより優しいような」
「あのねー。普段わたしをどう見てるのよ」
鼻をちょっと動かすフィオ。そこへ、空気を読まないAIが割り込んできた。
「補足します。ノアスは“無事でよかった”という言葉に対し、心拍数が通常比で18%上昇しました。原因は“照れ”と推測されます」
「おい」
「解析結果:フィオさんの表情変化は“好意”の可能性が高いです。
なお、ノアスはそれに気づいていません。念のため記録します」
「ちょ、ちょっと。邪魔しないでよ、“声”さん」
フィオがほほを染めてAIスマホを睨む。
俺はスープをすすりながら、なんとなく視線をそらした。
……なんだ、この空気。胸の奥がむずむずする。甘酸っぱいなあ。
今夜のスープはとりわけ温かい。森の冷気で固まった体は風呂でほぐれたはずなのに、じわじわと心が溶けていく。落ち着くなあ。
フィオは俺の皿が空になるたび、さりげなくパンを足してくれる。
食べながら、この一泊二日の様子を問わず語りに話していった。
「そういえば、カイラムさん……そろそろ戻ってくるらしいよ」
ひとしきり話が終わったあと、フィオがぽつりと言った。
「確かに最近見なかったな」
「トラーム部門長が言ってた。“あまり深入りしない方がいい”って」
フィオの声が少し低くなる。その名前を出すと、部屋の空気がわずかに冷えた気がした。
「カイラムさんの行動パターンには、一定の規則性があります」
「規則性?」
「……いえ。まだ確証はありません」
AIが珍しく言葉を濁す。
フィオも何か言いたげに唇を噛んだ。
スープの湯気が、静かに揺れていた。
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食事のあと、お茶を持っていつもの小部屋へ。もう魔石カスは置いていないし、研究や議論はどこでもできるのに。ちょっと真面目な話がしたくて、俺はフィオをこの部屋に誘った。フィオが少し当て外れな顔をしていたのは……きっと気のせいだ。
「で、どうだったの? 森の奥」
お茶を飲んで一息ついたところで、フィオが口火を切る。
「んー、まあ余裕だったよ。ちょっと変な場所はあったけど」
「変な場所?」
「亀裂みたいな……谷ってほどじゃないけど、妙に空気が冷えててさ」
フィオの表情がわずかに強張る。コップを机に置き、顎に手を当てて宙を見つめる。そのまま俺は話を続けた。
「俺が行きついたあそこが、みんなの言う谷じゃない気がする。一日歩いただけで着いたし、ものすごく大きくて深い谷ってわけでもなかったな。
でもあれを渡るのは無理だし、迂回するのも簡単じゃなさそう。オルベンの森に谷っていくつもあるのかな?」
「うーん、わからない。前も言ったけど、ギルドでも谷の情報は曖昧なんだよね。
地図があるわけでもないし。だけど、わたしの勘だけど、それはいわゆる“オルベンの奥の谷”じゃなさそう。
とはいえギルドで森の谷について探索依頼を出しても意味がないしなあ。誰もそんな情報を求めてないし。こういうとき、事なかれ主義なオルベンの気質がもどかしいよ」
軽く唇をかむフィオを見ながら、俺はごくりとお茶を飲む。もう片手で頭をかいた。
「そうだね、フィオ。わかるよ、その気持ちは。特に目先の何かに繋がらなくたって、必要に迫られなくたって、調査しなきゃって気持ちは大事だ。
はるか遠くのことじゃない。すぐにたどり着ける場所のことなんだから。俺も協力するよ」
「ありがとう。……ノアス。ところでさ。魔石カスって、本当に“ただの石”なのかな」
視線を落としたフィオがつぶやく。
その言い方に、背筋が少し冷えた。
「整理してみようか。AI、今までの分析結果をまとめるとどうなる?」
「説明します。魔石には四段階の変化パターンがあります」
また始まった。AIの講義モードだ。こいつの独壇場にはさせない。
「簡単にな、簡単に」
「説明します。魔石には四段階の変化パターンがあります。
生石 → 魔石 → 劣化石 → 魔石カス」
「へえ……そんな分類、ギルドでも聞いたことないや。新しいね」
フィオがキョトンとした顔で俺の胸元を見る。AIスマホが喋っているのはわかる。
机に置こうかと思ったが、そうするとフィオが俺ではなくAIを見る気がして……それはつまらない。
「今、作りました」
AIスマホはあっさりと、とんでもないことを言った。
「勝手に作るなよ」
「必要だと思いましたので」
「……でも、わかりやすいかも」
「フィオまで肯定するのか」
「魔石は“魔素を蓄えるスポンジ”のようなものと推測します。
魔素が抜け切った魔石カスは、逆に周囲から魔素を吸収する可能性があります」
「だから体調が悪くなるのね……オルベンで魔石カスも厳重管理な意味も分かるわ」
AIは俺の気持ちなど構わぬようすで、淡々と説明を続ける。フィオもすっかり好奇心旺盛モードで考察に頭を巡らせ始めた。
「魔石カスがまとまって吸収量が増えると、地形にも影響を与える可能性があります。
魔石カスは“魔素を蓄える機能を失った魔石”です。周囲から魔素を奪う挙動が確認されており、地形変動の可能性があります」
「じゃあ、ノアスが見た谷っぽい場所というのも……?」
フィオが目を見開いた。
「谷との関連性は否定できません」
「おい、怖いこと言うなよ」
「ただし、現時点では危険度は“中程度”と推定します」
「その“現時点では”って言い方やめて……」
小さく突っ込む俺。フィオが不安そうに眉を寄せる。
なんとなく笑ってごまかしたが、胸の奥に小さな棘のような違和感が残った。あの谷は奥が見通せないほど深かった。
小さいとはいえ、あの規模の谷を作るには、いったいどれだけの時間とどれほどの魔石カスが必要なのか。今ひとつ実感がわかない。
この世界は、魔石とは……いったい何なんだろう。
「それでノアス。トレッサ行きは数か月後くらいで良い?」
「ああ。なんとかそれまでに魔石を取って稼ぐよ。トレッサ行きの馬車って、いくらくらいするんだろ。……しかし馬車か。また酔うのかあ」
「……ちょっと、考えておくね」
フィオは小さく微笑んだ。その笑みの奥に、何か企んでいる気配がある。
でも俺は深く考えず、お茶をすすった。
そのあと、フィオとこれからの進め方を相談した。俺はとにかく魔石カスで金を稼ぐ。フィオは仕事を辞めざるを得ないのか、一時的な長期休暇で済むのか……トラーム部門長と相談するそうだ。
トレッサでの調査はせいぜい一週間、長くても一か月はかからないと俺は想定していたが、フィオはもっと長期間になる可能性も考えているらしい。
そうなると俺は、トレッサで魔石を取って日銭を稼げばいいか。こういうとき、自分が魔物を寄せ付ける体質がありがたい。危険な魔獣さえいなければ、最低限は何とかなる。
あとは向こうのギルドで仕事を手伝うなり、何とでもなるだろう。
いずれにせよ俺たちは、闇雲にトレッサへ向かうのはやめた。もう少し穏便に進めることにする。
もっともフィオがギルドを辞めるとなると、気軽な話では済まない。
ああでもない、こうでもないとフィオと話を重ねていった。AIスマホは、こういう時はなぜか黙っていた。
そろそろ夜も更けてきた。宿へ帰ることにする。
「今日は……ありがとね、ノアス」
「え、なにが?」
「……なんでもない」
フィオは少し寂しそうに笑った。
胸の中でAIスマホが小さくバイブした。なんだろう。
玄関を出ると、夜風がひんやりと頬を撫でた。
森の奥で感じた冷たさとは、少し違う。振り返るとフィオが扉の前で、小さく手を振っていた。
その仕草が、妙に胸に残った。




