【フィオ断章:その夜】
ノアスは帰った。帰してしまった、のかな。ほんとは引き留めたくて……でも、はしたないよね。
扉が閉まる音がして、足音が遠ざかっていく。その瞬間、胸の奥に火がついた。今すぐドアを開けて呼び止めようとして……こらえた。そんな関係じゃない、まだ……まだ?
さっきまで一緒にいたのに。ほんのさっきまで、隣に寄り添って話していたのに。
彼がいなくなったこの家は、なんだか空っぽ。
どうして、こんなに静かなんだろう。さっきまでの部屋の暖かさが、急に冷え切っていくみたい。
……だめだ、意識しすぎ。
机の上には、魔素が抜けたはずの三つの魔石くず。“声”さんの解析結果が、頭の中で何度も繰り返される。
──魔素濃度、微増。
そんなはず、ない。魔素が抜けた魔石は、ただの石。教団の教本にもそう書いてある。
私がこれまで観察してきた感覚でも、そう思っていた。
でも、目の前の石は……生きているみたい。気のせいかなあ。
こんなに魔石を身近に置いたこと、今までなかったから。気づかなかっただけ?
「……やっぱり、変だよね」
指先でそっと触れると、かすかに温かい気がした。気のせいだと思いたい。でも、違う。
さっきノアスに伝えたかったこと、全部伝えたよね。
森の様子、わかっていること、わからないこと。深い谷の話。他の町との違い。
調べてほしいこと、魔石の扱い、そして……もう一度家に来てほしいって頼んだこと。
……全部、大切なことばかり。でも、肝心なことは言えてない。
ノアス。気づいてる?
あなたの顔を見て話してると、研究の話をしてても胸の奥がじんわり熱くなる。
彼が渡ってきて、そんなに時間は経ってないのに。
わたしがどれだけ、彼を頼りにしているか。
どれだけ、彼と一緒に調べたいと思っているか。
……いや、違う。調べたいだけじゃない。“そばにいたい”んだ。
最初は軽くからかってるつもりだった。
こんな気持ち、研究するなら邪魔にしかならないのに。
でも、抑えられない。
ノアスが渡って来てから、いろんな“当たり前”が揺らぎ始めている。
魔石の再吸収。森の奥の魔素の乱れ。ミルダンの湖の揺動。
そして──わたしの波長と“声”さんの共鳴。
胸の奥がざわつく。怖い。でもそれ以上に、知りたい。
ノアスが帰る前、「また明日、よろしく」って笑ったとき、胸がぎゅっと締めつけられた。
あの笑顔、ずるい。あんな顔されたら……でも、期待していいのかな。
たぶん私はノアスより五つくらい年上。
がつがつと彼に想いを寄せていいのかなあ。
若い子のほうがいいよね、きっと。ルミリみたいに、明るくて、可愛くて、誰にでも笑顔を向けられる子とかさ。
……ルミリがノアスに話しかけるたびに、胸がちくっとする。
あの子の笑顔がノアスに向くと、どうしようもなく落ち着かなくなる。
こんな気持ち、初めて。
ノアスは私のこと、どう思ってるんだろう。
ただの年上のギルド職員?それは、あまりにも寂しすぎる。
距離を思い切って詰めたら、どぎまぎする様子が可愛い。だけど平然ともしてるんだよね。
女の子に慣れてるのかな。よくわからない。
あれは、私に対してだけ?それとも女の子に対してなら誰でもああなの?
ノアスの落ち着きが、時々シャクにさわる。もう何度も家に呼んでるのに。わかってるのかな、その意味を。
それとも少しくらいは、私を大切に思ってくれてるのかな。
……だめだ、この考えは終わりがない。研究者らしく、冷静に考えないと。
湖の揺らぎ。うっすら光った魔石。“声”の分析。オルベンとの違い。
考えなきゃいけないことは、たくさんある。
ノアスが帰ったあと、部屋の静けさの中で、その確信がじわじわ強くなる。
たぶん“声”は変わってきている。
彼は気づいてないみたいだけど。
“声”は、何かを吸収している。魔素なのか、揺らぎなのか……
それとも、もっと別の何か。
あの女の子の声で喋られると、ノアスに想いを寄せてるんじゃ、って思うときもある。
“声”は彼にだけ反応が柔らかい。
私に対しては、どこか刺々しいときもある。
まるで……私を牽制しているみたいに。
“声”を女の子に変えたのは、私と話してた時だし。
悔しいから言ってあげないけどさ。
最初の“声”はノアスの分身みたいだった。感情に左右されない、もっと冷静な“声”。
でも、あのとき──彼の背中をさすった私を止めた“声”は、まるで彼が気になってる女の子が横にいたみたいだった。
……ねえ、ノアス。
あなたは気づいてる?
私が、あなたに心を開いてしまっていること。
あなたの前だと、孤児だったことまで、軽々しく口にしてしまったこと。
誰にも言わなかったのに。ルミリも、トラーム部門長も知らないはず。
孤児院で育ったわたしには、家族の記憶も、血のつながった相手もいなかった。
空っぽな毎日だったのに、なぜか魔石には興味があった。ギルドに勤めて、どんどん魔石に惹かれていった。
魔石のことを知れば、自分のことも少しわかる気がして。
だから魔石に関しては、怖くても目をそらしたくない。
「……ほんと、なんなの、あなた」
気づけば笑っていた。不安と、期待と、どうしようもない気持ちが混ざった笑い。
……ねえ、ノアス。
あなたは、どう思ってるの。私は、あなたにとって何なんだろう。
彼はは明日から森に行く。谷の手前まで行って、魔石も集めてきてくれる。
わたし一人じゃ絶対にできないことを、あの人は当たり前みたいに引き受けてくれた。
「……頼るよって、言ってくれたし」
胸がじんわり熱くなる。
あの言葉は、ずるい。あんなふうに言われたら、期待してしまう。でも──
「……絶対、無茶しないでよ」
誰もいない部屋で、そっと呟いた。届かないのに、届いてほしい声で。
魔素の乱れの正体に触れるかもしれない。
そして、わたしの波長と“声の共鳴も……もっと強くなるかもしれない。
怖い。でも、進まなきゃいけない。
だって──
「……一緒にいたいんだもん」
小さく、小さく呟いた声は、湯気の消えたカップの中に吸い込まれていった。




