5-9 フィオの家で
ギルマスに報告が終わったら、そろそろ昼。午後にやることもないので、試しにオルベンの町でできる仕事をフィオに紹介してもらった。
初めて町での仕事は清掃業務。ギルドと食堂街の道路や裏を掃除して回る。どのくらい時間がかかるんだろう。この手の仕事はやったことないんだよな。
「たぶん、夕方までかかると思う。大変だと思うよ。報告は明日の朝でいい。仕事を終わらせることを優先させて。……それとね、ノアス」
仕事の説明が終わったあと、フィオが声を潜めた。周囲に人がいないのを確認してから、そっと耳元に顔を寄せてくる。
「……終わったら今夜、私の家に来ない? あ、ちゃんとお風呂に入ってからよ。臭い人はダメ」
吐息が耳に触れて、背筋がくすぐったくなった。ずいぶんストレートなお誘いですな。
「そのお言葉は、期待していいんでしょうか」
「補足します。ノアスさんの“浮き足立ち指数”が通常時の235%に上昇しています。
なお──これは“好意を寄せる相手との接触前”に見られる典型的反応です」
AIスマホの嫉妬なんだか冷静なんだかわからないツッコミに、フィオが眉をひそめた。頬がほんのり赤い。
「何を言ってるのよ……掃除の仕事は、間違いなく体が埃と汗まみれになるでしょ」
「なあんだ」
「なんだって、なに?」
いや、それは言えないよ。五十五歳のプライド、十八歳の身体、どちらにおいても。
いざ、掃除だ。外に出ると、昼下がりの陽光が町の石畳を白く照らしていた。
オルベンの街並みの掃除は、想像以上に体力仕事。若い身体で良かった。掃き掃除が中心ながら、ごみ一つないなんてあり得ない。
落ち葉掃きですむはずもない。……何とは言わんが、見なかったことにしたいものもあった。
この町には上下水道なんかない。ゴミの収集システムも未整備だ。集積所を決めて、埋めるか燃やすか。どっちかだけ。
食堂街だから、表はこざっぱりしてても、炊事場の裏は鼻に来た。油と生ゴミの混ざった匂いが、鼻の奥にこびりつきそう。確かに終わったら風呂に入りたい。身体に染みついてないといいな。
へとへとになって宿に戻ったのは日が落ちかけたころ。これでだいたい一日五千円くらい貰えるが……割に合うとは言いがたい。貯金もできん。
この町の賃金相場は、食費や固定費をとことん押さえないと無理。割高になる宿暮らしだと前に進めない。地元民以外の労働力を前提にしてない行政に思えてきた。
風呂に入ってこざっぱりした俺は、改めてフィオの家の前に立った。
今日はろくでもない匂いばかりだったから、玄関から漂う木の香りが心地よい。鼻腔が洗われるようだ。
迎えてくれたフィオからは、ふわっと甘い匂いがする。香水じゃない。フィオの匂いだ。……我ながら、この感想はどうかと思うが。
「どうぞ。あ、そこ座って。ちょっと待っててね、お茶持ってくる」
場所はいつもの小部屋。散らかってるというが、前と変わってないように見える。
机の上には手製の地図と、前に取った魔素が抜けた魔石くずが三つ。光の角度で、かすかに色が変わる。
お茶を持ってきたフィオは、俺の隣に腰を下ろした。向かいじゃなくて、隣。距離が近い。肩が軽く触れている。声を潜めて、耳に口を寄せてくる。吐息がくすぐったい。
「ミルダンのこと、整理しようと思って。万が一にも話を誰にも聞かれたくないから、小声でお願い」
「湖の揺動の件?」
「うん。それもだけど……ノアスのことも」
俺のこと? 首をかしげると、フィオは少しだけ視線をそらした。睫毛が揺れる。
「まず、ミルダンの異変ね。あれ、やっぱり魔素流動の乱れだと思う」
「ウサギ魔物はあっちも変わらなかったんじゃないの? シカ魔物は遠くから見ただけだし」
「持って帰っては来なかったけど、あの魔石はちょっと輝きが違ったように思う」
フィオは真剣な顔で続けた。その横顔は、研究者の顔だ。
「あの兆候が本当にみられないか、オルベンでもっと奥を探したい。もしよかったら、ノアスに協力してほしい。でも、ノアスには気をつけてほしいの」
「俺が? 何を?」
「今から説明するけど、オルベンの森って本当に奥が深いの。そして、大きな特徴がある。迷わないように、怪我しないようにって」
今まで森の手前でひょいひょいウサギ魔物を狩ってたからな。確かに森の奥は知らない。
「それと、ノアスの話。……“声”さんは、最近ちょっと変」
「AIはいつも変じゃない?」
「解析します。私は正常です」
「正常じゃないよ!」
フィオがすかさず返す。いきなり耳元でデカい声は勘弁してくれ。顔をしかめた俺を見て、
フィオは身体をそらし距離を取ってしまった。ああ、なぜ。AIよ、この恨みは忘れんぞ。
「ノアスの心拍とか、いちいち言わなくていいの! あれ、絶対おかしいから!」
「事実を述べています」
「そういう問題じゃないの!」
フィオは頬を赤くしながら、俺の胸から顔に視線を上げた。
その目は、怒っているというより、戸惑っている。
「……ねえ、ノアス。あなた、最近……わたしの近くにいると、“声”さんの反応が変じゃない?」
「そうかい?」
「ほら、昼間も。わたしが近づくと、すぐ心拍とか言い出すし……。ミルダンでも、わたしが触った魔石の波長を異常に詳しく解析してた」
「言われてみれば……」
「解析します。フィオさんの魔素波長は──」
「黙ってて!!」
俺の胸を指さし、フィオは叱りつけた。AIは静かになった。
AIに言っているとはわかるが、なんか俺が悪いみたいだな。とはいえAIの手綱を握るべきは俺か。
フィオは小さく息をつき、俺の袖をそっとつまんだ。また囁きかけてくる。フィオのいい匂いが濃くなった。距離が近い。心臓がうるさい。
「……ねえ、ノアス。わたし、ちょっと怖いの」
「怖い?」
「うん。わたしの“波長”と、“声”さんが……なんか、共鳴してる気がするの」
共鳴──湖面を揺らした、あれか。
「でもね、もっと怖いのは……」
フィオは袖をつまんだまま、さらに身体を寄せてきた。肩が触れた。柔らかい。
良いのか、フィオ。俺は我慢できるとは限らんぞ。
「……あなたがわたしに何も言わず、どこかへ行っちゃうこと」
心臓が跳ねた。びくり、と体も動いてしまう。
フィオは自分で言ってから、慌てて顔をそむけた。耳まで真っ赤だ。
「ち、違う! その……ギルド職員として! うん、そういう意味で!」
「フィオ」
「な、なに」
「俺は行かないよ。どこにも」
フィオはゆっくりと俺のほうを向いた。瞳が揺れている。
その揺れは、不安と期待の混ざった色だ。
「ほんとに?」
「ほんと」
「記録します」
「……黙れ」
がっくり肩を落とす俺。俺とフィオの声が重なり、二人で笑った。
フィオは肩の力を抜いて、寛いだ様子になった。
「……ねえ、ノアス。わたし、あなたにお願いがあるの」
「お願い?」
「うん。そんなに大したことじゃないけど……わたしを、ちゃんと頼ってほしいの」
「頼る?」
「そう。あなた、なんでも一人で抱え込むでしょ。魔石のことも、“声”さんのことも、ミルダンのことも……全部、自分だけで考えようとする」
図星だった。フィオから見たら、若いやつがいきがってるように見えるんだろうな。
「だから……わたしにも、分けてよ。一緒に考えたいし、一緒に悩みたいし……」
フィオは小さく息を吸った。その目は、まっすぐだった。
「……一緒にいたいの」
その言葉は、甘くて、少し震えていて、俺の胸にまっすぐ刺さった。
「……ありがとう。頼るよ。これからは」
フィオは、ほっとしたように微笑んだ。
その笑顔は、今日一番綺麗だった。
「……絶対だよ?」
「絶対」
「記録──」
「黙ってろ!」
すかさず突っ込む俺。AIよ、空気を読め。
フィオが笑いながら俺の肩を軽く叩いた。新しいお茶を入れてくるね、と立ち上がる。
俺は一歩踏み出すべきか、もう少し様子を見るべきか。フィオのガードは妙に緩いが、ここで十八歳の身体感覚を優先させて、嫌われたらどうしようもない。
改めて手書きの地図を睨む。まずは情報を集めて、前に進もう。
ミルダンの異変。魔素流動の乱れ。フィオの波長とAIの共鳴。フィオの抱えている不安の解消。そしてこの後、俺はどうするべきか。
すべきことは山のようにある。不安もある。
でも──フィオが隣にいるなら、きっと大丈夫だ。




