5-6 馬車は帰路へ。
日が昇り切る前に、俺たち三人はギルド前に集まった。
ミルダンの町はまだ眠っている。俺たちと馬車以外にほとんど人影はなく、冷たい空気だけが肌を刺す。
そういえばこの町は、何の産業が主なんだろう──そんなことをぼんやり考えた。
「乗れ。急ぐぞ」
カイラムは短く言い、馬車の客車を指さした。
フィオは眠そうに目をこすりながらも、返事はしない。
昨夜、結局フィオとは一言も話せなかった。
部屋の前を通った気配はあったが、ノックはなかった。
馬車が動き出すと、車輪の振動が身体に伝わる。
一晩寝て、疲れはほとんど抜けた。さすが、若い身体は違う。
四十年前は、元の俺の身体もこうだったろうか。もはや記憶はあやふやだ。
「……フィオ、眠いか?」
「ううん。考えごと、してただけ」
フィオは幌の隙間から、遠ざかるミルダンを見つめていた。
その横顔は、もっと遠いどこかを見ているようでもあった。
「昨日の湖のことか?」
「それもある。あれ、やっぱりおかしいよ。魔素無しの人間に反応するなんて、聞いたことない。ちょっと気になったことはあったけど……また、あとでね」
声が小さい。
カイラムに聞かれたくないのだろう。
「ノアスのほうはどう?」
「何もないな。むしろ俺が聞きたいくらいだよ」
フィオは軽く唸り、下唇を噛んだ。
その仕草が妙に胸に残る。
「あとは魔石のことも気になる。昨日落としたやつ。あれ、揺らいだよね。ほんの一瞬だけど」
「ああ……やっぱり気のせいじゃなかったか」
胸のAIスマホが、ぶるりと震えた。
何かを伝えたいのだろう。あとでな。今はカイラムがいる。
「ギルドの人、何か言ってた?」
「ううん。普通に受け取っただけ。でも……」
フィオは言葉を濁した。
「でも?」
「……なんでもない。また後でね」
それ以上は話さなかった。
「それよりさ、体調は大丈夫?」
「ん……今のところ平気だな。たぶん、俺が慣れたんだよ、もう」
「補足します。ノアスさんが“慣れた”と自己申告していますが、医学的根拠は確認できません。現在の体調は“たまたま良好”である可能性が高いと推測します」
AIスマホよ、言ってろよ。俺をなめるなよ。
***
馬車は森の中へ入っていく。
昨日通った道だが、朝の光のせいか雰囲気が違う……ような気がした。
鳥の声が戻り、風が枝を揺らす音が心地よい……のかもしれない。
うそぶけたのは一時間ほど。
やはり俺はグロッキーで、馬車の中で呻き倒していた。ちくしょう。
「……AI、出発から何分たった? 次の休憩まで、どのくらいかなあ」
「現在、出発から百六十二分が経過しています。次の休憩地点までは……ノアスさんの体調を考慮し、できるだけ早めの到着を推奨します」
推奨はいらん。たすけて。うう。
「ふん。馬車の中で吐くなよ」
カイラムの声も、ろくに耳に入らない。
フィオが心配げにこちらを見ている気配だけが伝わる。
そんな中、AIスマホが胸元で小さく震えた。
「……再解析、継続中。ノアス、周囲の魔素濃度に変化を検出」
「後にしてくれ……」
「……ノイズが多く、詳細は不明。再解析を行います」
またノイズ。昨日からずっとだ。
「おい、何をぶつぶつ言ってる」
カイラムが睨みつけてきた。
「いや、AIが……」
「その“声”か。何なんだ、その声は……まったく」
カイラムの声に怒気が混じる。
いや、うるさいとは思うよ。怒らないでくれ。
「ノアス……気をつけろ」
しばらくの沈黙のあと、カイラムがぼそりと言った。
「お前の持ってるその板……妙な反応をしている。よくわからん」
視線は俺の胸元──AIスマホに向けられていた。
「昨日の湖でもそうだ。お前じゃない。反応していたのは“それ”だ」
フィオが息を呑む。頭越しに二人の会話が続いた。
「カイラムさんも、そう……思う? ノアスじゃないって」
「言葉通りだ。ノアスは魔素無しなのだろう。だが湖は揺れた。ならば原因は一つしか──」
「あんまり好きな言葉じゃないけど。前例がありません、よね?」
「ああ。教団のお告げで、板に魔素を帯びる秘跡はあるらしいが。詳しくは俺も知らん。ごく一部の幹部しかお告げを聞けないしな」
カイラムはそこで口を閉ざした。
「ばかばかしい……ノアスの板は、渡り人の持ちもの。それだけ、とすべきだ。いや、こんな話はつまらんな」
フィオが何か言っていたようだが、聞き取れない。
馬車の揺れが、妙に大きく感じられた。
俺はどうやらうめいたらしい。
AIスマホが、また震える。
「……再解析、継続中。ノアス、注意を推奨します」
その声は、昨日よりもさらに遠く、深く響いた。
胸元を押さえる。スマホが、ほんのり熱を持っていた。そんなに電池を食う処理をしているのか?
そういえば最近、充電を確認していない。
俺は横になったまま、考えるのを放棄した。
何かが、確実に変わっている。
オルベンの町が見えるまで、誰も口を開かなかった。




