【カイラム断章:その夜の報告】
ミルダンの夜は冷える。湖が近いせいだろうか。
ギルドの灯りが背後で揺れ、俺の影を前に長く伸ばしていた。
ギルドには「異常なし」とだけ報告した。ギルマスにも同じだ。
フィオとノアスは無難に任務を終えた──そう伝えておいた。
シカ魔物は普通にいたし、山の魔素濃度も平常。
オルベンの“ウサギ魔物しか出ない”という異常も、今回も変化なし。
だが、問題はあの湖だ。
ノアスが近づくと、湖面が揺れた。
あれは魔素の濃い人間が近づいたときに見られる現象に似ている。
だが、あいつは魔素が皆無のはずだ。フィオもそう言っていた。
魔素ゼロの人間が、魔素を揺らす?
そんな馬鹿な話があるか。
現に魔素の薄い俺ですら、湖面に影響を与えられなかった。
ギルド横の古い石段を降り、教団の事務所へ向かう。
受付には誰もいない。奥の扉を抜け、二階へ。
厚くもない扉を軽く叩いた。
「カイラム、参りました」
すぐに返事があった。
「……報告を」
中には教団の男が一人。机に向かい、今夜もフードを深くかぶっている。
顔は見えない。昨夜と同じだ。
「山は異常なし。魔獣の動きも通常。……ただし」
「ただし?」
「湖で妙な現象がありました。ノアスが近づくと、湖面が揺れた」
男の手が止まった。だが顔は上げない。
「ノアス本人に不審な点は?」
「ない。同行のギルド職員によれば、やつの魔素は皆無だと」
「……“声”は、聞こえなかったか?」
その言葉に、俺は眉をひそめた。
「声? 何の話だ」
「聞こえなかったのなら、それでいい」
話を逸らされた。いつもそうだ。
肝心なところは決して明かさない。
この一線を引かれる感じが、どうにも気に食わない。
「教団が警戒しているのは渡り人のはず。なぜノアスを調べろと言わない。なぜ“声”などという曖昧なものを気にする」
語気が少し強くなったかもしれない。
だが、反発心を悟られぬよう努めた。
「……観察すべきはノアスではない」
男はゆっくり顔を上げた。
フードの奥の禿頭と、底光りする目が俺を見た──いや、俺ではなく、もっと遠くを見ているようだった。
「“声”を発するものは、別にある」
「別……?」
「ノアスの持つ“異物”だ。あれは、この世界の魔素に反応するかもしれん。
だとすれば、お前が見た揺らぎはノアスではなく──あれの影響だ」
あの板のことを言っているのだろう。ノアスは“AIスマホ”と呼んでいた。
そんなわけがあるか。板が魔素を出す?馬鹿げている。
魔素は生きた人間が発するものだ。
……俺も、生きている。なのにあんな板切れが魔素を揺らすなど、受け入れられるはずがない。
「あの板が、魔素を揺らすだと?」
「断定はしない。ただ、観察は続けろ。渡り人よりも、あれのほうが危険だ」
渡り人よりも。ノアスよりも。俺は拳を握った。
「……納得できませぬ。なぜノアスではない。なぜ渡り人を放置する」
「理由は話せない。お告げはすべてを明かせない。お前はオルベンに戻って任務を続けよ」
まただ。また、何も教えない。
俺は一礼して、踵を返した。もういい。
俺は俺の判断で動く。俺は、生きているのだから。
扉を閉めると、夜風が頬を刺した。
遠くで、ミルダンの鐘が鈍く鳴っている。
ノアスは魔素を持たない。
だが湖は揺れた。
そして──“声”。
教団は何を恐れている。何を隠している。
空を見上げる。雲の切れ間から細い月が覗いていた。
「……あれが危険、ね」
ノアスの持つ、あの黒い板。あれが世界を揺らすというのなら──
教団が恐れるほどの存在だというのなら。
俺は、あののんきなガキをどう扱うべきか。監視すべきか。距離を置くべきか。それとも──。
酒を飲む気も失せた。
答えの出ないまま、夜は深まっていった。




