5-5 ミルダンの夜へ
ミルダンへの帰り道は、誰も積極的に口を開かなかった。
フィオもカイラムも、さっきの湖のことを整理しきれていないのだろう。俺も同じだ。
一面の草むらの中を、ただ歩く。鳥の声もない。風が草を揺らす音すら聴こえない。ときおり、自分の息遣いだけが耳に届く。
気まずい、というほどではない。もとよりカイラムに対して、フィオも俺も心を許しているわけじゃない。カイラムも、仲良くしようという気配は皆無だ。
帰り道はカイラムが先頭、俺が最後尾。とはいえ、ほぼフィオと横並びで歩いていた。 距離を開けるわけにもいかないし、話したいことは山ほどあるが──今は喋るべきじゃない。
AIスマホも沈黙している。俺が喋らないから、当然か。
ふと、フィオの表情を思い出す。
湖のほとりで俺のために布を差し出したとき、落とした魔石を拾い上げたとき──
あのときの真剣な顔。
丘を上がりきったところで、フィオは一度だけ振り返り、湖を見つめていた。
黙ったまま、長く。
消化不良だよな。何も調べられなかったし。ごめん。また来よう。きっと。
「……さっきの湖、危なかったのか?」
「危ない、というより……わからないの。湖や山って、見た目じゃ判断できないから。魔素が濃い場所もあるし、魔獣が出る場所もあるし」
思い出したように、俺はフィオに声をかけてみた。
すぐに返事が返ってくる。その声には気安さは消えていた。何か考えていた最中だったのかもしれない。嫌われたんじゃないといいなあ。
「魔獣って、あのウサギ魔物みたいな?」
「そう。あれよりもっと危険なのもいる。魔素が濃いと、魔獣が出やすくなるの」
フィオは歩きながら、声を少し落とした。
「それに……魔素酔いっていうのもあるの。体質によっては、吐いたり、倒れたり、湿疹が出たり。ひどいときは失神する人もいる」
「俺は……?」
「ノアスは魔素を感じないから、たぶん平気。でも普通の人なら、あの湖は近づきすぎると危ないかも」
魔素ゼロ。それが俺の異常であり、安全でもあるらしい。
「馬車の中では、魔素酔いしまくっていたようだがな、お前は」
「すいませんねぇ」
カイラムが鼻で笑う。こういう時だけ口を挟んでくる。
フィオがクスリと笑った。
「補足します。ノアスさんが馬車で不調だった原因は“魔素”ではなく、単なる乗り物酔いです。分類を誤らないようご注意ください」
AIよ……それは俺をかばっているのか、ただ呆れているのか。
その後は、当たり障りのない会話が続いた。
今夜の宿はどこにするか、夕飯は何を食べるか、明日の出発時間はどうするか──そんな話ばかり。
カイラムも今夜は別行動をしないらしい。同じギルドの宿に泊まるそうだ。明日は行きより早く、夜明けすぐに出たいという。馬車の中で寝ればいいか。眠れられたらば。
ミルダンの町が見え始めたころ、夕日は山の端に沈みかけていた。
ただ淡々と歩いた、二時間弱の道のり。
カイラムはすたすたと進み、フィオを気遣うそぶりも、もちろん俺への配慮もない。
なんとかついていったが、ミルダンに着いたときには、またしても俺は汗びっしょりだった。ああ、風呂に入りたい。
***
ギルドへ寄り、ボウガンを返却。手早く報告書を書き、魔石を提出した。
今日も空気を読んで、ちゃんと手書きだ。焼き付けなんぞはしない。書類書きはカイラムもフィオもいるから、あっという間に終わった。
こういうとき、二人のサポートは本当に手厚い。
「AIよ、お前の出番はなかったな。悔しいか」
「悔しさは検出されません。ただし、ノアスさんが自力で書類を完成させた事例は“希少データ”として保存しておきます」
「そういうのを、悔し紛れと言うんだよ」
フィオが笑いをこらえていた。
***
風呂に入り、三人で夕飯をとることになった。
俺は昨夜も今日もまともに食べていない。昼の弁当だけじゃ足りない。
十八歳の身体は食物を欲しているが、馬鹿食いすると明日がしんどそうだ。
「明日は早い。食うのもいいが、今度はなるべく我慢しろ。何をとは言わんが」
カイラムは昼間の誘いなどなかったかのように、淡々としている。
「また馬車旅かぁ」
「ノアスには吐瀉物用に袋の準備を推奨します」
「お前は黙ってろ。しかも今は食事中だ」
フィオは苦笑していたが、どこか落ち着かない様子だった。
話したいことは山ほどあるのに、ここでは話せない──そんな空気が伝わってくる。
夕飯を終えると、カイラムは宿の階段を上らず、ギルドのほうへ歩いていった。
「あれ、カイラムさんは寝ないの……」
「ちょっと外の空気を吸ってくる。一杯、飲みたい」
短くそう言い残し、背中を向けた。
フィオはその背中を見送りながら、小さくつぶやいた。
「……やっぱり、何か隠してる」
***
特にすることもない。後は寝るだけだ。
誰が聞いているかわからない──確かに今日の内容をすり合わせるのに、宿の食堂は不向きだ。
フィオは話したいだろうが、俺の部屋に誘うのも違う。
カイラムと同類だと思われたくないし、俺相手に意識するだろう。
手首を握ったとき、びくっとしてたしな。セクハラをごめんね。
……フィオは今、何をしてるんだろう。
モヤモヤしてきた。いかん。俺は良識ある五十五歳だ。身体が十八歳であろうとも。まじめなことを考えよう。
「AI、さっきの湖のデータ……何か回答できるか?」
「解析継続中。……ノイズが多い。再解析を行います」
いつもの立て板に水の返答にしては、少し間があった。
声に雑味というか、ノイズが混じる。女の子の声にしたせいで、余計に気になる。
「やけに時間かかるな。大丈夫か?」
「問題ありません。……再解析中」
問題ないと言いながら、どこか不安定だ。解析って、何を解析してるんだ。
ベッドに横になりながら、今日の出来事を思い返す。
湖の揺らぎ。俺が近づくと反応する水面。
俺って魔素ゼロじゃなかったのか。何に反応してたんだ。
フィオの震える声。カイラムの険しい目。
そして──魔石。
フィオが落とした魔石は、そのままギルドに提出した。
ただのウサギ魔物の魔石のはずだ。だが、あれは一瞬だけ強く輝いた。
報告書を書いているとき、フィオは魔石をじっと見つめていた。提出のときには、ギルド員の反応を探っていたようだ。
気のせい……じゃないよな。
胸の奥がざわつく。
そのとき、胸元のAIスマホが、かすかに震えた。
「……再解析、進行中。ノアスさん、休息を推奨します」
その声は、どこか遠く、そして深かった。
俺は目を閉じた。眠れる気はしなかったが、考えても答えは出ない。
明日も早いしな。
ミルダンの夜は静かだった。
その静けさが、逆に不気味に思えるほどに。




