5-3 湖の揺らぎ
気のせいか、空気が変わった。瑞々しい水の香りが草の匂いを和らげる。涼しい風が微かに吹いてきた。
ミルダンの森を抜けて二時間ほど。そろそろ三時になるころ合いかな。太陽は少し傾き始めている。
かなり速いペースで歩いたせいで、俺は汗びっしょり。フィオは涼しい顔だが、うなじに一筋の汗が浮かんでいるのが見えた。ちょっと、どきっとする。
小さな丘を越えると、目の前に深い湖が広がった。丘のせいで視界が一気に開けて、気持ちがいい。向かいには山がそびえる。
湿気はそんな多くないはずなのに、山のふもとがうっすら煙って見えるのは気のせいか。
俺はその場にへたり込んだ。
「フィオ、ちょっと休もう」
「どうせなら、もっと岸辺に行かない? あと少しだし、そのほうが涼しいかもよ」
「そうか、そうしよう」
立ち上がったところで、AIが口を挟む。
「休憩地点の選択は妥当ですが、ノアスさんの体力残量はすでに“黄色域”です。無理な前進は推奨されません」
フィオはにやにや。俺は平気なふりをして歩き始める。中身は五十五歳でも、身体は十八歳のはず。まだまだ行ける。
そこから十分ほど歩き、ようやく湖の岸辺近くに着いた。地面はさほどぬかるんでおらず、草がみっしりと生えている。
「……静かだね」
フィオが足を止めた。
湖は広く、鏡のように滑らかだ。風が吹いているはずなのに、水面がほとんど揺れていない。向かいの山の景色が、水面にくっきり映っている。
「AI、どうだ? 何かわかるか」
「……魔素濃度、局所的に変動。通常値から外れています」
フィオが息を呑む。俺も胸の奥がざわつくのを感じた。さらに一歩、湖へ足を踏み出す。
そのとき──低い唸りのような音が、湖の奥から響いた。
風の音でも、水の音でもない。
耳ではなく、胸の奥に直接触れてくるような、そんな振動。
「フィオ、今の……聞こえた? なんだ、今の音」
「……うん」
「ノイズ。解析不能」
AIの声は、いつもよりわずかに乱れていた。
「フィオ!まず帰り道を確認しよう。まさかまた同じ道を戻るわけにはいかない。ここからミルダンへの道もあるんだろ」
「調査が先!……ってわけにもいかないか。そうよね」
すぐさま湖へ突っ走りそうなフィオを、俺は止める。踏み固めた道も見当たらない。このまま迷うのはまずい。フィオはしぶしぶ頷いた。
「ギルドでは道があるって言ってたわ。山を背負って……たぶん、あっちがミルダン。湖沿いに少し行ってみましょう」
「よっしゃ。湖は逃げないけど、帰り時間の制限もあるしな。夜道はごめんだ」
「同意します。ノアスさんの方向感覚は信用度が低いため、帰路の確保は最優先事項です」
「おい」
フィオは笑いをこらえきれず、肩を震わせた。
しばらく歩くと、踏み固められた道が見えた。念のため丘に上がって確認すると、確かにフィオが指した方向に土の道が伸びている。何とかなるか。
しかし、ここも人気がない。狩人たちがいたとしても、もう帰途についたのだろう。
もちろんフィオは俺の横にいない。岸辺に残ったまま。好奇心が抑えられないらしい。
「ね、ノアス。ちょっと来て」
フィオは湖面を草でつついていた。戻ってきた俺に手招きする。
「いや、その前に帰り道……」
「ノアスが騒いでないってことは、道は間違ってなかったんでしょ。それはあと。早く来て」
もう夢中だ。声は押さえているが、興奮が隠れていない。
「もう一歩。私が下がるから、あなたが前に出てみて」
「いいけど、なんで?」
「魔素の揺れ……あなたが近づくと変わる気がする」
言われるままに一歩踏み出す。その瞬間、湖面がわずかに波立った。見間違いじゃない。
風は吹いていない。俺の足音で揺れる距離でもない。
「……揺れた」
フィオの声が震えている。
「なんだ、今の」
「ノアスの接近に同期して、魔素揺らぎが増幅。解析不能。異常値を検出」
俺は茫然と湖面を見つめた。しゃがみ込むと、ぬるりと水が揺れる。鼻をつく、つんとした匂い。
フィオと交互に動きながら、何度も実験を繰り返す。
はっきりした結果は出ない。気のせいに毛が生えた程度。
だが──フィオ一人より、俺と一緒に近づいたときのほうが、明らかに揺れが大きい。
「AI、何か分析はないか。必要な入力情報は? 湖にスマホをつけるわけにもいかないし……防水だったか? 生活防水はあった気がするけど……ああ、頭が回らん。いったい何が起こってるんだ」
「現状のデータでは結論不能。ただし一つだけ確実に言えます──“原因は外部ではなく、ノアス側に存在する可能性が最も高い”」
わかったような、わからんような。
「ためしにウサギ魔物を狩りたい。見晴らしがよすぎるけど……ちょっと気配を消しましょ」
フィオの発想は研究モードのまま。よほど夢中らしい。
「ここは俺がしっかりしないとな」
「その決意は評価しますが、ノアスさん単体の警戒能力には大きな期待値を設定できません。過信は危険です」
AIよ、もう突っ込まんぞ。
フィオと少し湖から離れた場所に座り、気配を消す。自分ではよくわからないが、フィオいわく俺は魔素の放出がゼロなので、静かにしていれば自動的に気配が消えるらしい。
とりあえず目を閉じてみる。
「おい、お前たち。ここにいたのか」




