5-1 ミルダン到着に向けて
……揺れる。気持ち悪い。死ぬ。
朝の空気は冷たく澄んでいた。明け方早々にオルベンの門を出た俺は、馬車の荷台に揺られながら「旅っていいな」なんて思っていたのは、最初の二十分だけだった。
「ノアス、大丈夫?」
フィオが心配そうに覗き込む。返事もできず、ただ首を振るだけで精一杯だ。
たまらん、この揺れは。あっという間に酔った。
振動もさることながら、板と革張りで密閉された馬車の客室が拍車をかける。
閉塞感と圧迫感、木や革の匂い、そしてもちろん馬の匂い。
慣れないそれらが混ざり合って、容赦なく俺を殴ってくる。
この世界の道路は土なのに妙に硬い。道路の轍も浅い。だから揺れは少なめ……のはずなのに。
サスペンションなんて当然ない。揺れに規則性もない。
微妙にあちこちへ揺れるその不規則さが、俺の身体に容赦なく襲いかかり、たちまちグロッキーになった。
最初はカッコつけてたよ。でも、ダメだった。
途中から恥も外聞もなく、馬車の後ろからエロエロとかましていた。
いやらしいことをしてたわけじゃないぞ。わかってるな。
旅なんてしたこともないというフィオだが、意外にも平然としている。
ロスティアの住人は三半規管が強いのか?
あちこちの町を渡り歩くカイラムは、もちろん慣れたものだ。
ひどい有様なのは俺だけ。
そもそも商人は自分の馬車を使うらしいし、乗合馬車に乗る人間自体が少ない。
今回の乗客は俺たち三人だけ。
みっともない姿をさらしているが、まあ他に客がいないだけマシだろう。
費用を払うオルベンのギルドは割高になって涙目かもしれないが……知らん。
文句があるなら、一刻も早くミルダンに着けてくれ。
空を飛んでも地を潜っても、転移してもいいぞ。
頼む、速く……いや、休憩してもらったほうがいいかもしれない。
うぉっぷ……エロエロエロ。
「渡り人ってのはずいぶんヤワだな。おい、なんなら膝枕してやろうか?」
カイラムが前の席から声をかけてきた。からかいやがって。
「いらん……っ!」
そんな冗談を言うくらいなら、頼む、馬車を止めてくれ。
今の最大関心ごとは、でんぐり返る胃が口からはみ出ないように押さえることと、ガンガン揺れる頭を抱えることだけだ。
何も考えたくない。眠りたい。しかし気持ち悪さで眠ることもできない。
これがあと十時間も続くのか? 地獄だ。
ああ、フィオ。膝枕をお願い……言えるか、くそ。
とにかく馬車の揺れから意識をそらそう。そうだ、聞いてくれ。
この世界の度量衡は、おおむね人間の身体や経験則をもとに作られている。
唐突だって? 俺の「気持ち悪い」を聞き続けるよりマシだろ。
たとえば距離は「大人が歩いて何刻かかるか」で測る。
重さは「片手で持てる」「両手でやっと」みたいな曖昧な基準。
ロスティアは単一国家で、内戦もなく平和らしい。
大陸の大きさをフィオに聞いたが、よくわからん。オーストラリアくらいか?
さらにこの世界には海を越えた貿易がない。
つまりこの星が丸いのか三角なのかもわからない。
子午線とか、そもそも基準になる概念がないから、メートルやキログラムもない。そういうことだ。
なお時計も町ごとに微妙にズレていて、正確な時間なんて誰も気にしていない。
一日は二十四時間、一年は三百六十五日。地球と同じ暦なのは謎だが……まあいい。
それぞれにロスティアなりの名称はあるが、解説が面倒だ。
だから俺や皆が言う距離や時間は、俺が地球基準に換算して解釈していると思ってくれ。
ミルダンまで十時間ってのは、そういうことだ。
ちなみに出発はだいたい七時くらい。そして……うう、もう駄目だ。
エロエロエロ。胃液しか出やしない。
結局、俺のせいで休憩を何度も挟む羽目になり、予定より大幅に遅れた。
太陽はすっかり傾き、空が赤から群青へ変わり始めている。
「本来なら日があるうちに着くんだがなあ……」
カイラムがぼやく。
「お前が酔って、休憩を長くしたせいだぞ」
言い返したいが、反論の余地がない。
俺はただ、馬車の揺れに怯えながら、ミルダンの入り口が見えるのを祈った。
この町には城壁のようなものはない。木の柵がある程度だ。
オルベンが特殊なのだろう。旅してみるもんだな。
とはいえもう、馬車はこりごりだ。
しかし帰りも乗らないといけない。魔石で動く自動車とかないのか?
ようやく辿り着いた頃には、すっかり夜だった。
ミルダンの町はオルベンより少し大きく、建物から漏れる明かりも多い。
けれど俺の視界はまだ揺れていて、感動する余裕はなかった。
「ノアス、歩ける?」
「……たぶん」
フィオが肩を貸してくれようとしたが、見栄で断った。
その直後、足がふらついて壁にぶつかった。
「やっぱり貸す」
「……お願いします」
情けない。俺はフィオにしがみつくように歩いた。
ああ、もったいない。気力さえ正常ならば。
「……歩行機能、著しく低下。情けなさは平常運転ですね」
「黙れ。音声機能は停止だ」
「了解しました。……しかし“停止”指示を出す余裕があるなら、歩行も自力で可能では?」
お前は俺の最後の希望すら奪うのか。何というやつだ。
フィオ、お願い、離れないで……。
ミルダンでもギルドが門のそばに宿を経営している。今夜の宿はそこだ。
もちろんフィオとは別の部屋。
カイラムは別の宿へ向かうと言った。
「俺の宿は少し豪華だぞ。フィオ、よかったら――」
「行きません」
即答だった。カイラムは肩をすくめて去っていく。
その背中が角を曲がると同時に、フィオが小さく息をついた。
「……ノアス、ほんとに大丈夫?」
「もう限界……寝る……」
部屋に入った瞬間、俺は倒れ込んだ。靴を脱いだのだけは覚えている。
上着を脱いだかどうかすら覚えていない。
ただ、フィオが何か言いかけていた気がする。
でも、もう無理だった。
――気づけば、意識は闇に沈んでいた。




