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本格無臭カレー

作者: 栗谷

 私が四十歳の頃、コロナウイルスのパンデミックが発生した。妻や会社の同僚が次々と病床に伏す中、例に漏れず私も同じ苦しみを味わうこととなった。

 コロナウイルスに感染して一番辛かったことは、嗅覚障害である。最初は鼻が詰まっているだけだと考えていたのだが、熱が治まった後も症状が改善することはなく、嗅覚障害であると確信した。

 嗅覚障害になると、外部からの匂いを感じなくなるだけでなく、食べ物の風味を感じることもできなくなる。症状の程度は人によって異なるが、私はかなり重症で、完全に匂いを感じられない程であった。

 そのせいで、隣の家まで匂いが届くでお馴染みのカレーの香りすら感じられなかったことが特に悲しかった。妻はカレーに対するこだわりが強く、月に一度はスパイスから本格的なカレーを作ってくれていた。しかし、折角こだわってくれたスパイスも、私には無意味な粉と化す。

 嗅覚障害になってから初めて妻のカレーを食べた時、事の重大さを痛感し、思わず泣いてしまった。味は鮮明に感じられるのに、カレーに最も必要な、沢山のスパイスが織り成す複雑な香りだけは感じられなかった。無味ではないが、無臭なのだ。

 それからというもの、妻はカレーを作らなくなった。



 嗅覚障害を治すため、私はネットで見た治療法を試してみたり、耳鼻科で薬をもらったりしたが、回復量は元の一割にも満たなかった。

 私は次第に食事が苦痛になった。夕食中の妻との会話も減り、そそくさと食事を終えて、すぐにリビングに戻るようになった。

 そんな日々が半年程続いた頃、朝食中に妻が「ねえ、あなた。今晩の夕食、久しぶりにカレーにしようと思うんだけど、一緒に作らない?」と提案してきた。食への関心が大分薄れていることもあり、あまり気が乗らなかったが、妻の心遣いを無下にはしたくなかったので、作り笑顔で了承した。

 その日の夜、仕事から帰った私がキッチンに行くと、エプロンをつけた妻と共に、カウンターに並べられた六種類のスパイスが私を出迎えた。ここがインドかと錯覚するほどの凄まじい匂いを漂わせているのだろうが、今の私がそれを感じることはない。


「食材はもう切っておいたから、あなたはスパイスの調合だけお願い」


 そう言って妻は、ただのスプーンを渡してきた。私は言われるがままにそれを受け取り、妻の指示通りにスパイスを調合しようと試みた。


「ううん、カイエンペッパーちょっと少ないなあ。ああ、いやいや、それだと多すぎ」

「えっと、グラムで言ってくれない?」


 分量を完全に記憶している妻は、キッチンスケールなど使わせずに、目分量で指示してくるので、分かりにくいことこの上ない。その後妻は私を押し退けて、自分で最終調整を行っていた。


「ねえ、テンパリング、やる?」


 妻は少し気まずそうに尋ねてきた。テンパリングは油に香りを移す作業。確かに今の私には必要ないかもしれない。


「いや、やろう」


 今作っているカレーは二人のためのカレーなのだから。折角なので、テンパリングも私がやってみることにした。

 私は用意していたフライパンに、油をしき、妻から渡されたホールスパイスを入れた。クミンシード、クローブ、カルダモンだ。カルダモンに少し割れ目を入れるのがポイントらしい。これらを弱火で熱して香りを移していく。

 少しすると、クミンシードの周りに気泡ができ始めるので、そうしたら妻が用意してくれている微塵切りの玉ねぎを入れて炒めていく。ただ、これが中々難しい。少し炒めては放置を繰り返し、たまに水を入れて玉ねぎが焦げないようにするのだ。かなり長い時間火元にいたため、じんわりと汗ばんできている。妻はいつもこんなに手間のかかる作業をしていたのかと驚かされた。

 不器用な私を見た妻は、先程のように私からへらを奪い取り、慣れた手つきで玉ねぎを炒めていく。次第に飴色になっていく玉ねぎを見ると、みるみるうちに食欲が湧き上がってきた。その後妻は「後は私に任せて。あなたはリビングでテレビでも見てて」と言い、私をキッチンから追い出した。久しぶりのスパイスカレー作りということもあり、妻にもかなり熱が入っていると見える。私はリビングには行かず、妻が料理をしている様子をダイニングテーブルから眺めていた。

 二十分程経つと煮込む行程に移ったようで、妻がキッチンからて出てきた。


「どう?」

「いや、まあ、こりゃあ大変だなあ。毎回こんな面倒なことしてたのか」

「そうだよ。私の努力、伝わった?」

「もちろん。そりゃ美味しいわけだ」


 私が妻を労うと、ドヤ顔を決めてきたので、軽く頭を叩いておいた。

 その後カレーの様子を見てみると、しっかりとろみがついており、よく見るカレーになっていた。

 これで完成かと思われた時、妻が思い出したように冷蔵庫からイチゴジャムを取りだした。


「え?これ、どうするの?」

「スプーン一杯くらい入れて」

「へえ、ジャムか。ジャムってカレーに合うんだ」

「そうだよ。これ入れて作った時、あなたの反応が良かったから、それからずっと入れてるの」


 私ははっと息を呑んだ。妻がいつも私が料理を食べている時の反応を見ていたことにも、その反応を元に味を調整していることにも気づいていなかった。妻はいつも私のことを考えて料理をしてくれていたのか。私は動揺を隠すように、そそくさとキッチンを出た。

 その後、妻特製スパイスカレーがテーブルを彩った。何だか今まで以上に綺麗に見える。


「さあ、食べてみようっと」


 妻は食べ始めるとすぐに目を細めて、久しぶりのカレーを堪能していた。妻につられて私も一口食べてみる。美味しい。香りを感じられないが、五感で感じることのできない何かがこのカレーには入っているように感じられた。 これが所謂、愛のスパイスとでも言うのだろうか。

 結婚して早十五年。私は、妻が愛情を込めて料理を作ってくれていることを忘れていたのかもしれない。妻が料理を作ることを当たり前のことだと思っていたのかもしれない。

 私は愚かだった。私は味や香りにばかり気を取られ、最も大切なものを忘れていたのだ。


「これ、めっちゃくちゃうまいな」

「でしょ」


 妻は再びドヤ顔を披露する。対する私はいつの間にか涙を流していた。これは悲しみからくるものではなく、心からの幸せからくる涙だった。

 妻は、涙でぐちゃぐちゃになった私の顔を見て、柔らかな微笑みを浮かべていた。



 コロナに感染してから五年が経過した。残念ながら私の嗅覚障害は未だに殆ど回復していない。正直、今でも食事を苦痛と感じる時がある。これからも妻の作る料理の全てを感じることができないと考えると悲しくなる。ただ、それを克服する方法は一つではないと気づいた。

 あの日以来、暇さえあれば妻と一緒に料理をするようになった。その時の食事は楽しく、そして料理は格別に美味しく感じるのだ。

 きっと、匂いよりも大切なものを感じることができるからだと思う。

この一品を作るにあたり、お兄CURRYさんという方の動画を参考にしました。

カレーが食べたくて仕方ありません。

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― 新着の感想 ―
一皿いただました。 コロナの影響で、いろんな後遺症がある方のお話を見聞きします。 やっぱり大変なパンデミックだったんだなと・・・おっと、まだ続いてるんですよね、忘れがちだけど。 凄く優しい奥さんで…
一度だけ味覚障害になったことありますが、辛かったですね。何を食べても酸っぱいとしか感じられませんでした。 香りも味のうちですので、ご主人もほんとうの味はわかってないことでしょうね。 それでも奥様の…
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