第6話
翌朝、早朝に荷物を纏めたカイトは他のメンバーが起きてくるであろう朝食前にホテルを出た。
他のホテルの部屋を取る為、予算と相談しながらホテルを選ぶ。
そして今、カイトは広場にある噴水の縁に腰掛けていた。
「はぁぁぁぁ……」
その口から出たのは、気の抜けた溜息だった。
縮こまる様に肩を窄め、周りから顔が伺えない程に俯きながら呆然と地面を見下ろす。
通行人はどこか辛気臭そうな雰囲気を醸し出すカイトの姿を一瞥し、すぐに忘れた様に歩き去っていく。
彼が何故こうして噴水の前に座り、溜息を吐いているのか。
それは彼が別のホテルを探す場面に戻る。
閑散としていたホテル内で、前払い分が後数日残っていた部屋を主人からは特段引き止めの言葉も無くスムーズに退去手続きを済ませたカイトは、今や慣れ親しんだこの街の地図を頭の中に思い浮かべ、その中なら良さそうなホテルをピックアップしていく。
外観、料金、内装、食事等々様々な条件で絞っていった結果、最初に目指すべきホテルが決定した。
「……とりあえず、切り替えていかないとな」
自分に言い聞かせる様にそう呟き、荷物を背負い直したカイトが歩き出す。
最初に目指したのは、ギルドから距離の離れた一件のホテル。
カイトがそこを選んだ理由はいくつかあるが、一番の理由はギルドからの距離。
まず第一に彼が思い至ったのは、どうすればなるべく三人と会わない様に出来るか、であった。
ギルドの近くにホテルを借りてしまえば、ギルド内は別としてもギルドの外でも鉢合わせしてしまう可能性が高まる。
三人の心境を考えれば、なるべく離れた場所で生活した方が良いだろう。
そう考え、ギルドから距離が離れており相場も安めである地区に建っているホテルに向かっていた。
意外と遠いな、といった心境を漏らしつつ漸く辿り着いたホテルに足を踏み入れる。
誰も居ない受付に向かい、カウンターの上に置いてあった呼び鈴を振れば、少しして恰幅の良い女性が慌ただしそうに二階から降りて来た。このホテルの女将であった。
「はいはい、お待ちどうさん。宿泊かい?」
カウンター越しに立った女将に、カイトは頷く。
「はい。部屋って空いてます?」
「まぁ、アンタも分かるだろうけどうちはギルドから遠いからね、満室になった事なんてないよ」
洒落を混ぜた言葉にカイトは苦笑しか返せなかったが、言葉を返せば現状で部屋は空いているという事。
故にカイトにとっては喜ばしい情報であった。
「じゃあ、宿泊でお願いしても良いですか」
カイトの言葉に女将は笑顔で頷きを返す。
「何拍するんだい?」
問い掛けに対し、カイトは僅かに逡巡。
「一泊幾らですかね?」
そう訊ねれば、女将は即座に返す。
「一泊朝食付きなら六千ゼル、飯無しなら五千ゼルだよ。連泊なら日数に応じて、ちょいと相談に乗ったりはするけどね」
宿泊代を告げられ、カイトの頭の中で計算を始める。
昨晩確認した所持金、今日から極端に変化するであろう収入。それらを天秤に乗せつつ、今後の生活を踏まえ現時点で最適な日数を割り出した。
それを女将に伝える。
「三泊でお願いします」
今後を考えると、今の時点ではそれが限界だった。
もしかしたら殆ど収入が無くなるかもしれない。
それを確かめる為の日数として、三日程度あれば分かるだろうと判断した。
カイトの言葉に女将は「あいよ」とだけ返し、カウンターの中から皮紙を取り出す。
動物や木の皮で作られた茶色みがかった厚手の紙には、大量の文字が書かれていた。
それは全てこのホテルに滞在した、または現在している者の情報で、ホテル側はこれを管理簿として使用している所が殆どなのである。
カウンターに置かれた皮紙を見てカイトは、やっぱプライバシーとか殆ど無いよなぁこの世界、と何度目か分からない感想を抱きつつ、差し出された筆を受け取り、埋められている文字の下に名前と職業、そして宿泊開始の日付、宿泊日数を記入して女将へと返す。
受け取った筆を持ちながら自分の方へと向けた紙を女将が確認し、やがて目を見開いた。
「あ、あんたカイトって言うのかい!?」
驚愕を前面に出しながら問い掛ける女将に、カイトは思わず気圧されてしまう。
多少慌てつつも頷きを返した。
「は、はい。そうですけど」
肯定の意を示したカイトに、女将は慌てた様に口を開く。
「も、もしかして昨日、どこかのパーティーをクビになったかい……?」
女将の言葉に、今度はカイトが驚愕する番だった。
「えっ、は、はい……そうですけど、何で知って」
何故女将がその事を知っているのか。
皆目見当も付かないカイトがそれについて訊ねようとすると、その言葉は途中で遮られた。
「あんたの宿泊はお断りだよ。さっさと出てってくんな」
突如敵対心を剥き出しにした女将から、拒絶の言葉を告げられたのだ。
変貌した女将の態度に、カイトは驚きのあまり目を見開く。
「えっ!? な、何でですか!?」
拒絶された理由が分からずに、慌てて訊ねるが女将は紙を覗き込みカイトの名前が書いてある箇所を指で消し始めた。
インクが乾く前だったのか、親指を一往復させただけでカイトの名前がかなり薄くなる。
その動作をしながら、女将は顔も上げず静かに話し出した。
「……泊まってる冒険者の客が昨日の夕食時に教えてくれたんだよ。新進気鋭のパーティーからカイトって奴がクビになったってね」
飽き足らないのか、女将は念入りに何度も何度も擦り続ける。
「他のメンバーに全て任せてる無能で、メンバーがそいつに何度も成長を促しても一向に成長する気を見せないクズ」
通常、宿泊客ではなくなった場合、対象の記入欄を筆で二重線を引き現在の宿泊者と見分けをつけやすくする。
「そして終いには仲間を殺しかけた疫病神ってね」
このホテルも例外ではなく、他の名前の上には筆で二重線を引かれているものばかりだった。
それだけなら別に気にしないさね、そう言って女将は続けた。
「冒険者が死んだり死にかけると、そいつの泊まっていたホテルも原因の一つなんじゃないかって事で、冒険者達はそのホテルを避ける様になるんだよ」
やがて初見では全く見えない程にカイトの名前は薄まってしまったのだった。
女将が漸く、顔を上げた。
「現にあんたが泊まってたホテルは、昨晩の内に他の冒険者が皆引き払ったって言うじゃないか! 無能のあんたが泊まってる内にドジって死なれたらこっちの商売上がったりなんだよ!」
女将は怒りの表情を更に強め、カイトへと怒鳴りつける。
そのあまりの剣幕に、内容にただ絶句するしかなかった。
紙をカウンターの中に仕舞いながら、女将が続ける。
「それに、そんだけ同業者から嫌われてるあんたを泊めてるってバレたら、それだけで客が遠退くかもしれないんだ。だからあんたを泊まらせる訳にはいかないよ」
出てっておくれ、そう告げて踵を返した女将が再び二階へと上がっていく。
それをただ、カイトは呆然と見送るしか出来なかった。
言われた内容を、脳がまだ理解しきれていなかったのだ。
全く以て埒外からの拒絶。
それを理解するには、あまりにも時間が足らなかった。
だがそれでも、カイトには一つだけ理解出来た事がある。
静かに、ゆっくりと、それでいて覚束ない足取りで踵を返した。
ここには泊まれない、このまま居ても迷惑だ。
それだけが唯一理解出来た事だった。
宿泊を拒絶されたホテルを出る。
人通りの少ない通りで、現在は一人だけ通行人が居る程度だった。
四〇代程度の女性。空の籠を持っている事から、これから買い物に向かう主婦だと思われる。
ホテルの前に佇み、それを遠目に呆然と視界に収めるカイト。
ホテルの前に人が立っている事に気付いた女性が、ふと視線をそちらに向けた。
互いの視線が合う瞬間。
気付けばカイトは、思い切り顔を伏せていた。
突然俯いた人物を不思議そうに眺めてから、その女性は視線を戻して通りを歩いて行った。
俯いたまま視線のみを上に向けて、誰も通りから居なくなった事を確認し、安堵した様に大きな溜息を吐く。
見知らぬ女性と目が合う瞬間、カイトの中を途轍もない程の恐怖が支配した。
冒険者では無いだろう、決して力がある様にも思えない。
けれどカイトは、その女性がどうしようもない程に怖かったのだ。
目が合わない様に咄嗟に俯いた後、カイトの脳内は一つの内容に支配される。
もしかしたらあの人も、さっきの女将みたいに俺について話を聞いたんじゃないか。
もし俺だってバレたら、またさっきみたいに拒絶の言葉を吐かれるんじゃないか。
そう考えれば考える程に心拍数は速まり、呼吸がひとりでに荒くなっていく。
考え過ぎだ、そんな思いは微塵も浮かんではこなかった。
この街の全員が既に、俺の事について知っているんじゃないか。
思えば思う程に、考えれば考える程に、心臓の痛みが強さを増す。
もしかしたら、故郷の人達にも伝わるんじゃないか。
カイトの中に両親の顔が浮かぶ。
また自分のせいで、両親が困る様な状況を作ってしまった。
後悔とはその通り。
カイトの胸中は、引き起こしてしまった出来事に対する悔恨の念で支配されていた。
今後をどうするのか、カイトの中でそれは、全く以て楽観視出来ない事項と成り果てる。
これ以上、両親には迷惑を掛けられない。
そして現在掛けている迷惑から解放する為に、とにかく金を貯めなければいけない。
どこを目指すでもなく、カイトの足が自然と動き出す。
何かしなければ、その気持ちに身体が勝手に反応したかの様に、目的も無く歩き出していた。
縮こまりながら俯き、歩き続けるカイトの中で考え続けているのは、やはり今後の事。
他の仕事に転向する――いや、こんな俺を受け入れてくれる人は居ない。
実家に戻り家業を手伝う――迷惑の当人が居たら、両親への風当たりがもっと強くなってしまう。
自分の事を知らない遠方の地でやり直す――遠くまで移動し生活出来るだけの金は無い、もし俺の情報が届いた時はどうする。
結果的に、冒険者を続けるという結論に至った。
だがそれすらも、今のカイトには言い訳だと理解出来ていた。
他を試さず、唯一経験のある冒険者という仕事に縋っているだけなのだと。
自分には冒険者しか無いと、思い込もうとしているのだと。
目的も無く歩みを進めていると、カイトの耳に不意に先程までとは違う音が聴こえてきた。
微かに顔を上げれば、少し離れた所に噴水が見え、それを中心とした見晴らしの良い広場があった。
地下の水路から引っ張ってきた水を、風属性の魔法を籠めた魔道具で風力によって地上へと押し上げ水を噴き出させる噴水。
その光景、その音に吸い寄せられるかの様に、カイトの足が噴水へと向かった。
眼前まで近寄り、足を止める。
カイトはただ、水が噴き上がりそして落ちてくる光景、噴き上がり、そして下の水溜まりへと落下した水の音を視聴し続ける。
その光景を見ながら、漠然の頭に浮かんだもの。
やる気になり村を出た自分、そして仲間に迷惑をかけ続けて街の嫌われ者になった自分。
何故か目の前の光景が、不思議とカイト自身だと言われている様に思えた。
だが、視線を下げて水面を眺めると、それは違うと判断出来た。
だって水は、落ちた後でもこんなにも透き通っているのだから。
今の自分は、余りにも濁りきってしまった。
それはつまり、自分と水とは違う。カイトにはそう認識出来たのだった。
水はどこでも流れのままに生き続ける。
けれどカイトは、流れのままに生きようとしたら、無理だった。
流れるまま、流されるまま。
幼馴染三人と冒険者を続けるまま、幼馴染三人に守って貰うまま。
つまりカイトは水の様にもなれない。
その事実に、自虐的な笑みが浮かんだ。
カイトは胸中で呟いた。
そりゃそうだ。だって俺はこの世界で唯一の異物なんだから。この世界にある何者にもなる事が出来る筈が無いんだよ。
カイトをこの世界に送った神はきっと、自分を見て天上で笑っているのかもしれない。
強く、拳を握り締めた。
空を睨み付ける事すら出来ない自分が、情けなくて仕方なかった。
噴水の前に座り込み、どの位の時間が経ったのだろう。
時間の感覚が分からなくなる程に、カイトは動く気力が湧かなかった。
しかし同時に、動かなければという思いは確かに彼の心の内に存在した。
それが強くなるのは彼の脳裏に両親が映り込んだ時。
そして、幼馴染の顔が浮かんだ時。
次に動こうと思った時に立ち上がろう、そう決めるが結果的に立ち上がらず。
それを何度も、彼の中で繰り返していたのだった。
だがこうなっている本心は、カイト自身分かっている。
これは只の、逃げなのだ。
こうして考えているだけなら楽だから。
動かないでいる方が、楽だから。
行動に移すと、心も体も疲れるから。
動くのは、怖いから。
動き出すという事は何が起きるか分からない。もしかしたら面倒臭い、そして今よりももっと嫌な出来事に巻き込まれるかもしれない。
だったら何もしない、現状維持の方が安心出来る。苦しくない。
つまりカイトには、幾ら動かなければならないという理由や意味を理解していても、行動に移す勇気が無かったのだ。
頭では分かっていても、心では分からない。
今のカイトは、その言葉が相応しかった。
カイトはただ待っているだけなのだ。
自分を動かしてくれる人が現れるのを。
それを認識し、カイトの中で自分に対する苛立ちが増す。
自分で仕出かしておいてこんな状況になったにも関わらず、こんな時まで他力本願を選ぶ自分を。
他人に背中を押して貰わなければ、引っ張って貰わなければ動けない自分が、惨めで仕方なかった。
だが、そう思うだけで結局は動けない。
その時、カイトの耳に声が届いた。
「ママ! きょうはなんのケーキかってくれるのー?」
決してカイトに向けられた言葉では無い。
決してカイトに関係する内容では無い。
だがカイトは、気付けば目線を向けていた。
そこに居たのは、一組の母娘。
どうやら広場を通過する為に、歩いている様だった。
「あなたの誕生日だからね、好きなの選んで良いわよー」
背中辺りまでの長い金髪を携えた幼い女の子の手を引いた、前世のカイト程度の年齢と見受けられる同じ髪色の女性。
笑顔で子供へと告げれば、手を引かれた女の子の表情がこれ以上無い程に輝く。
「やったー! じゃあ、じゃあっ、なににしよっかなぁ」
喜色満面と表わすに相応しい表情に、母親の笑みに優しさが増す。
あれやこれとケーキの名前を挙げていく娘を微笑ましそうに見つめてから、口を開く。
「前食べたのも美味しいって言ってたし、同じのにする?」
優しい口調でそう訊ねれば、何のケーキを選ぶか考えていた娘がはっとした顔になり、母親へ向け勢い良く首を左右に振った。
「ううん! ケーキやさんになるから、あたらしいのたべる!」
力強く否定の言葉を告げた娘に「あらあら」と母親は相槌を打つ。
だが、娘の答えが分かっていたのか、表情が変わる事は無かった。
「大きくなったらケーキ屋さんになるんだものね。色んなケーキを食べてお勉強してるから、きっとなれるわよ」
その言葉に、少女の顔が再び喜色満面へと輝いた。
表情をそのままに、今まで食べてきたケーキの種類を、まるで母親に教える様に挙げていく。
そんな娘に対して母親もまた、笑顔で一つ一つに相槌を返していくのであった。
母娘の会話が、段々と小さくなっていく。
やがて、カイトの耳には届かなくなった。
そして広場を抜けた母娘の姿が建物の陰に隠れたのを見やり、カイトは再び視線を地面に戻したのだった。
何気無い、親子の会話。
何て事無い、日常の会話。
だがそんな他人へと影響する事も無い会話が、何故かカイトの中で強く残り続けた。
具体的に言えば、特に子供の言葉がカイトに強く印象付けられたのだった。
ケーキやさんになる。
それは、あの子供の将来の夢。
自慢げに、そして誇らしそうにあの子供は母親へと告げた。
思うだけじゃない、言葉として口にしたのだ。
気付けばカイトの口が僅かに開く。
「…………ぃは………………………ぇる」
余りにもか細く吐き出した声は、カイト自身の耳にも届かなかった。
「……ぅらいは………………っこさせる」
只々、カイトは繰り返す。
「……ょうらいはりょうし…………ひっこさせる」
頭で考える事無く、只繰り返す。
「……しょうらいは、りょうしんが…………ようにひっこさせる」
やがて、徐々にその声が明瞭さを増してくる。
「……将来は、両親がきらくにくらせるように引っ越させる」
そしてその声は、言葉はついに意味を持つ。
「……将来は、両親が気楽に暮らせる様に引っ越させる」
カイトの脳内に、両親の顔が浮かび上がる。
それは父親が、母親が笑っている顔。
そして父親の、母親の疲れた顔。
生まれた時からずっと見てきた両親の表情。
カイトが幼いから気付かないだろうという事でたまに見せ、そして徐々に増えてきた悲し気な表情。
「将来は、両親が気楽に暮らせる様に、引っ越させる……!」
例え引っ越しを両親が拒んでも良い。
今の所に住み続けたいのなら、カイトはそれを尊重する。
だが、金を理由に引っ越しを遠慮するのならば、カイトはその理由を取り払いたいのだ。
だからこそ一人、宣言する。
「将来は、両親が気楽に暮らせる様に引っ越させる!」
カイト以外誰も居ない広場で、叫ぶ様に宣誓をした。
聞いている者等誰も居ない。
だがカイト自身が聞いていれば良かった。
カイトの脳内にある言葉が浮かぶ。
有言実行。
前世で聞いたその言葉がまさにこれだと、カイトは思った。
言ったならば、口に出したならば実行しなければいけない。
口にしたのだから、あの子供の様に自分の夢を誇らなければならない。
だからこそ、誇れる夢を叶えられる自分にならなければ意味が無い。
だからここで、動かなければいけない。
「……あんなロリッ子に、負けてらんねーよな」
一人、笑みを浮かべながら呟く。
あんな小さな子供に負ける訳にはいかない。
あんな小さな子供に、こんな大人がいる事を見せる訳にはいかない。
自分が変われなければ、あの子供が自分と同じ大人になる可能性もあると自ら示す事になってしまう。
「……弱い大人だよ、俺は」
呟く様に、口に出す。
言葉として吐き出し、自覚させる。
「……弱い大人だよ、俺は……でも、あんな子の夢をずっと持たせ続けられる大人でいる事は、出来る」
あの子供が、果たして夢を叶えられるのかは分からない。
だが、
「もしあの子が俺を見ても、夢を諦めたんだと思わせない人にはなれる」
カイトが直接あの子供の夢を叶えられる訳では無い。
けれど、カイトが夢を諦めずに行動し続ければ、カイトを見て子供が夢を諦めるという思いはさせなくなる。
何かを出来る訳じゃない。
何かをプラスに出来る訳じゃない。
「俺を見てもマイナスにならない、そんな大人になら……きっと俺でもなれるから」
そこまで口に出したカイトは、数時間振りに顔を上げた。
誰も居ない広場。
だが目の前に広がる只の石畳、そして遠くに見える建物。
たったそれだけの景色が、カイトには妙に新鮮に感じた。
変えるなら、きっと今だ。
カイトの心の中で、そんな言葉が自然と浮かんだ。
「……変えるなら、きっと今だ」
有言実行。
口に出し、それを勇気の糧にしていく。
口に出して、行動する。
だからこそ、カイトは呟く。
「……立て、俺」
その言葉に、久方振りにカイトの脚に力が入る。
「立て、俺」
その言葉に、上体が僅かに前のめりになる。
「立て、俺」
その言葉に、両手を膝に乗せて上方向への力をかける。
「立てッ、俺!」
その言葉で、カイトは二本の脚で上体を支え立ち上がった。
だが、視線が高くなった事で、気付けばカイトは俯いていた。
まだ人の顔を見るのが怖いのだ。
「……俯いたままだって良い」
けれど、カイトは敢えてそれを肯定した。
「……俯てたって、歩けはする。行動は出来る」
そう言って横に置いていた荷物を背負い、そうして一歩また一歩と歩き始める。
俯きはいつか、直せば良い。
カイトの中で優先順位が決まったのだ。
まずは立つ、そして歩く。
それが出来なければ何も始まらない。
俯いたままでも良い。
とにかく歩けば、動くのだ。
前に進めるのだ。
だからこそカイトは俯いている事も忘れ、とにかく歩く事に集中する。
夢を叶える為に歩くしかない。
夢を叶えるには、進むしかない。
俯きながら、通行人とすれ違う。
そしてまた別の人とすれ違う。
カイトは誰とすれ違ったのか等、憶えていない。
ただひたすらに、歩き続けた。
時刻は間もなく、昼過ぎになろうとしていた。