第2話
室内に溜息の音だけが聴こえ続ける。
それは数時間前から変わらない。
「…………はぁぁ」
またしても、深い溜息が空間に放たれては消えていく。
借りているホテルの部屋でベッドに腰掛けながら、カイトは溜息を吐き続けていた。
理由はたった一つ。
「…………はぁぁぁぁ」
所属していたパーティーから追放された。
それが彼を、溜息だけを吐き続けさせる機械にしていたのだ。
「…………はぁぁぁぁぁぁ」
またしても溜息を一つ。
パーティーリーダーであるアレックスから追放を宣言され、四人揃って街へと帰還。
だがその道中での会話はほぼ無かった。
時折アレックスやリーンが大丈夫かとルインに訊ね、彼女がそれに頷きで返すだけ。
結局、ルインの手がアレックスから離れる事は無かった。
アーマースネークのクエストはギルドに失敗と報告。
本来クエストを失敗するとそのパーティーや冒険者に対して、ランクを上げる為に必要な評価値が減算される。
評価値とは現在のランクでクエストをクリアしていくと徐々に貯まっていき、上限に達すると次のランクに上がる為の昇格試験を受けられる様になる。
クエスト内容やクエストをクリアした場合の質等々、冒険者達には開示されていないが総合的判断で数値化され、クエストを受けた冒険者やパーティーのランクによって更に細かく付与される。
そして当然、受注したクエストを失敗した場合、それまで貯めていた評価値から減算される仕組みとなっていた。
だが今回のカイト達に関しては、クエスト受注時で得た情報と実情が余りにも相違していたという理由で、パーティー側に過失は無くギルド側や依頼主への過失が認められ、評価値が下がる事は無かった。
しかし、カイトの追放に関して覆る事は無く、彼のパーティー脱退はギルドに正式に受理されたのだった。
溜息のみで時間が過ぎ去っていく。
けれどもカイトには動く気力が無かった。
溜息と同時に、これまでの思い出が脳裏に浮かんでは消えていく。
カイトは、この世界に転生した日本人だった。
日本では特筆すべき事柄は無い、まごう事無き一般人。
漫画やアニメ、小説等のサブカルチャーも好きではあったが、のめり込む程のオタクでは無い。
暇な時にインターネットで小説を読んだりもしていたが、書こうと思う程でも無い。
前世での名前は伊勢海人。
平均的な大学を出て、平均的な会社に就職し、徐々に会社や社会というものにも慣れ始めた二四歳のある日。
彼は死んだ。
原因は、交通事故。
仕事帰りにいつも通り横断歩道の信号が変わるのを待っていた海人。
その横には小学校低学年程度の男の子がおり、海人と同じく信号が変わるのを待っていた。
自動車用の信号が赤に変わり、やや間を空けずに歩行者用の信号が青へと変わる。
海人と少年は横断歩道を歩き始めた。
その時、海人の視界の隅に一台のトラックが映る。
横断歩道を渡る海人の方へと向かってくるトラックだが、彼がそれを気にする事は無かった。
何故ならその様な光景は日常茶飯事であり、日常茶飯事ならば自動車用の信号が赤である今、そのトラックが横断歩道前の停止線で止まらずに海人と衝突する等といった事案はまずもって起こり得ないのだから。
故に海人はトラックから完全に意識を外し、前方へと集中した。
しかしその数秒後、妙な違和感を感じた海人が顔を横へと向ける。
彼が感じた違和感。それは、意識せずとも視界の端に映るトラックが減速を開始するであろう位置を超えても一向に減速する気配を見せず、無意識化で意識しているいつも通りの光景と現実の映像に大きな差異が生まれ、それが違和感として海人の思考に現れたのだった。
彼がトラックの方へと顔を向けた時、既に海人の運命は決定していた。
海人の身体能力では回避行動が間に合わない距離まで、トラックは迫っていたのだから。
だが全身は動かずとも彼の腕は無意識的に動いており、ずっと視界の下方に存在し続けていた少年の背中を強く押したのが、前世での最後の記憶となった。
再び彼が意識を取り戻した際に映り込んできた光景は、正に不可思議といった空間だった。
空の様で空ではなく、雲の様で雲ではない景色が上下左右で果てなく続いている景色。
突然の事態に理解が及ばない彼の前に、一人の老人が現れる。
純白の袈裟の様な装いの老人は、海人に向けて好々爺然といった笑みを浮かべ、声を届けた。
――すまん、間違ってお主殺してしもうたわい。
その瞬間、手が出そうになった海人を押し留めたのは正に理性であり、これ程早くに事態を呑み込めたのは、間違い無く彼がこれまで触れてきたサブカルチャーによる知識の賜物だろう。この老人が神だと早々に見切ったのだ。
そして同時に思う。
ならあの運転手もし逮捕されてたら可哀想過ぎんだろ、と。
海人は「人違いだったのなら、生き返らせて貰えますか?」と、至極当然の問いを行う。
理不尽な出来事に巻き込まれている側だが、彼が敬語なのは当然相手の方が圧倒的な力を持っており格上の相手だから。
下手に出なければ、どんな沙汰を下されるのか想像も付かないだろう。神は気紛れなのだろうから。
彼の問いに対して、神は一言。
――ムリじゃ。
死神かよ。
そんな感想を抱いた海人に、果たして反対の意見等あるのだろうか。
だが、海人は決して口には出さない。
口に出してしまったら最後、どんな沙汰を下されるか分かったものではないのだから。
心まで読まれる可能性があるかもしれないが、反射的に抱いた感想を制御するのは到底不可能な話である為、恐らくは諦めるしかないに違いない。
就職で上京し一人暮らしをしていた海人だが、家族と仲が悪い訳では無い。
家族や友達と未来永劫会う事が出来ないと自覚し、望郷の念と深い絶望が押し寄せる。
先程までの、何ら幸せとも感じないいつもの日常が、途轍もない程に恋しくなる。
だがそれも叶わない現実に、一筋の涙が頬を伝った。
けれど、それでも彼が無様に泣き喚き懇願する事は無かった。
それは残っていた彼の理性と、サブカルチャーによって得られた知識から。
生殺与奪の権は神が握っていると理解しているからだろう。
この後の事態が少しでも悪くならない様に。
それを願い、叶える為に動くしか出来ないのだから。
神が、海人に話しかける。
――お主、異世界転生って興味あるかの?
その言葉に、海人は頷く。
彼にとってその理由は単純だった。
これを否定すれば、より条件が悪くなる可能性もあるから。
分の悪い賭けには出られない、どちらかと言えば保身的な海人は、そう考えざるを得なかったのだ。
海人の返事に神は満足げに頷きを返す。
――ふむふむ、ならばお主には特別なスキルを二つ程与えようかの。
神の言葉を受けて、海人の脳裏に反射的に浮かんだ言葉は一つ。
俺ツエー。それだけである。
海人は丁寧に礼を述べて、是非とも頂戴したいと申し出れば、神は喜色の表情をそのままに再び深く頷いた。
彼の思いは一つだけ。
貰えるものは貰っておくに限る。これ以上は貰い過ぎ等と断る馬鹿が居る筈無い。
海人がそう考えるには理由があった。
チートなスキルが貰えるのは、純粋に異世界でチートと思える力で俺ツエーが出来る世界か、力に関してのインフレが過剰であり、可能な限りチートなスキルを貰ったとて俺ツエーが不可能な世界か。
故に後者の可能性も懸念するのであれば、貰える能力を遠慮する馬鹿は居ないだろうと。
そして仮に異世界が世紀末の様な世界であった場合、便利なスキルの一つや二つでも無いとすぐに死ぬ可能性があるからこそ、転生する世界が確定しその情報が詳しく分かっているという特殊条件下以外で神からスキルを貰わないという選択肢を、海人が選ぶ訳が無かったのである。
金の斧と銀の斧を断って全て貰えるという幻想は現実には存在しないという事を、海人は社会人経験から学んでいた。
――では、後でスキルを付与しておくからの。
その言葉に海人は改めて礼を述べ、一つ思い出し様に神へと問い掛ける。
それは、転生する世界に自分以外の転生者が居たり、今後来る可能性はあるのか、という内容。
海人の質問に、神は首を横に振った。
――おらぬよ。以前同じ世界に転生者を複数送った際、そ奴らの痴情の縺れによって文明が滅びてしまったからの。
ならそんな過剰な力渡さなきゃ良いんじゃね?
海人が内心でツッコんだ。
けれども、決して口にする事は無い。
何故なら口にしたならば最後、内定していたスキルが取り消しになる可能性があるのだから。
そして神は告げた。
――という訳で、そろそろ出立の時間だの。
神の言葉に、海人の中で激しい焦りが生まれる。
彼に付与されるスキルに関して、何も伝えられていなかったのだから。
だが、それを口にする事は出来なかった。
それもその筈、ここから更に神の時間を奪い万が一気分を害してしまったならば、どんな沙汰を下されるのか分かったものではない。
故に海人は流されるままに、徐々に意識が遠のき始める。
――ムホホ、今日はどの女神でも覗こうかのぉ。
チェンジで。
そう告げそうになった海人は、喉元でその言葉を無理やり呑み込んだ。
告げたら最後である。
そして彼は思考を切り替える事にした。
仮に女神が通説通りに絶世の美人だった場合、自分はその女神を振り払って異世界に転生出来ただろうか。
寧ろ何とかしてこの場に残る選択肢を探ったのではないか、未練を断ち切れないまま強制的に異世界へと転生させられたならば、それはそれで生き地獄になる可能性は無いのかと。
ならば、どちらにせよ転生させられるのであれば、女神に担当されなくて良かったのだと。
海人は脳内でその理論を完成させたのを最後に、完全に意識を失った。
異世界に転生した海人は、田舎の村に出生を果たした。
両親からはカイトという名前を授かり、差異が無くて助かるというのが、彼がこの世界に転生して最初に至った思考である。
そしてこの世界に生れ落ちて数日後、カイトは両親に抱えられて教会へと連れていかれた。
室内に入ると他に三組の親子が居るのが、生まれてすぐだが視界が良好である彼の目に映った。
暫く待っていると奥の扉が開き、そこから法衣を纏った老人が歩み寄ってくる。
彼はこの村の教会で神父を務める男性だった。
――ではこれから、出生鑑定の儀を始めます。
告げられた言葉に、カイトの両親を含め他の親が全員頭を下げた。
一組の親子が神父の前に立ち、その手に抱えている我が子を差し出せば、老人が片手を上げて赤子の額に乗せる。
一瞬の間を置き、神父の目が大きく開かれた。
――こ、これは……"ソルジャーマスター"ですと!?
彼の言葉に、教会内が微かにざわめく。
――かなり稀有なスキルですので、魔力も出生鑑定時では破格という点も合わせれば、冒険者になれば間違い無く大成するでしょう!
神父の話を聞き、鑑定された赤子を抱える両親は喜色満面といった様相で、神父へと何度も感謝を述べる。
それが落ち着いた頃、二組目の鑑定を行った。
――こ、これは……"ウィザードマスター"ですと!?
神父の声に、再び教会内がざわめく。
――……かなり稀有なスキルですので、魔力も出生鑑定時では破格という点も合わせれば、冒険者になれば間違い無く大成するでしょう!
そして三組目の鑑定。
――こ、これは……"ヒーラーマスター"ですと!?
――か、かなり稀有なスキルですので、魔力も出生鑑定時では破格という点も合わせれば、冒険者になれば間違い無く大成するでしょう……。
三組の鑑定が終わり、神父は額に浮かんだ大量の汗を拭う。
最後に、カイトの親が前に進み、神父へと子供を差し出す。
神父は一度深呼吸し、笑みを浮かべカイトの両親へと話しかける。
――もしかしたら、この村から国中に名を轟かせるパーティーが誕生するかもしれませんな。
その言葉に彼の両親は「この子が元気に育ってくれたら、それだけで良いんですけどね」と苦笑するが、既に鑑定を終えた三組の夫婦から、折角ならば幼馴染だけでパーティーを組もうという声が上がり、どこか照れくさそうに愛想笑いを返す。
――では、最後の鑑定を行います。
そして神父がカイトに向け手を上げる。
ここまでの話は、カイトには全て聴こえており、内容もまた理解していた。
鑑定の直前、彼は一つだけ思った事がある。
え、汗拭った手で触られんの?
神父の手が、カイトの額に触れた。
直後、神父の目が極限までに見開かれる。
――な、なんと! この子はスキルが複数ですと!?
今日一番のざわめきが教会内に広がる。
自身の鑑定が始まってからげんなりしていたカイトだが、神父の言葉で思考が切り替わった。
神が伝えてくれなかったスキルが知れるかもしれない。
汗の事は特別許すからさっさと教えろと内心で連呼し、カイト自身もまた神父の言葉を待った。
やがて神父が口を開く。
――……"無限"と"提供"……聞き覚えがありませんね。
神父の言葉に、周囲のどよめきが困惑へと変わる。
そして続く神父の言葉で、周囲の困惑が混沌へと変わった。
――……しかし何かしら有用なスキルかもしれません。そして魔力は……魔力も出生鑑定時では"無し"という点も合わせれば、冒険者になれば間違い無く大成するでしょう……ん? 魔力は……無し? 無し、ですか……無し? 無し!? 魔力無しいいいい!?
カイトは内心で呟いた。
俺、何かやっちゃいました? と。