そんなに私と顔を合わせたくないのであれば、今すぐあなたの元へ行って離婚して差し上げます
五年という時間は、私にとって長すぎる牢獄のようだった。
この伯爵家の屋敷へと嫁いで来てもう五年が経った。
あの結婚式の翌朝、夫であるエヴィン様が馬に乗って遠征へと向かっていく姿を見送ったあの日。私は、彼がこんなにも帰ってこないなどとは想像していなかった。
「エヴィン様からの手紙は?」
と何度も執事に尋ねた。しかし返って来るのはいつも首を横に振る姿だった。
最初の一年は返事が遅れることもあるだろうと自分に言い聞かせた。二年目もそうだ。それが三年、四年と続いた。
五年目には、流石にもう手紙が届くこともないと悟った。
執事や侍女たちも、気まずそうに視線を逸らすばかりだ。
この広い伯爵家の屋敷で、私はまるで幽霊のように暮らしていた。
私は彼にとってどんな存在なのだろう。きっと私は不要な飾り物なのだ。結婚式で父が持参金を用意した時点で役目は終わったのかもしれない。
思い返せば、エヴィン様が私に向けた視線には何の感情も宿っていなかったように思える。
隣に座る私を見ることすら稀で、挨拶も形式的だった。
その時から彼にとって私はどうでもいい存在だったのだろう。
それでも五年もの間、この屋敷を出る勇気がなかった。
家族や周囲の目、何より夫人という立場を失う不安。此処で家に帰れば、それは実家の家門の名にも傷をつけるようで二の足を踏んでばかり。
けれどもう耐えられない。
この家の中にいると、自分がただの人形以下の存在であることを痛感してしまうからだ。
まるで未亡人にでもなった気分。いや、夫の死の知らせが届いた方がマシかもしれない。
実際の本人はまだ生きているらしい。生きて私の事を無視してるのなら、本当に人形以下だろう。
「こんな状況を続けて何になるの?」
鏡に映る自分を見て私はつぶやいた。
薄暗い屋敷で日々を過ごしていたせいか、肌の色は青白く、目には生気がない。
それでも、このままここで朽ち果てることだけは許せない。
私は決意した。直接エヴィン様に会い、この結婚を終わらせようと。
「申し訳ありませんが、もう我慢が出来ません。直接本人に別れる事を告げようと思います」
「……………そうか、それも仕方あるまい。これまでよく耐えてくれたな、おかげで最低限の面目は保たれた。後は君の好きに生きるとよい」
お義父様は申し訳なく言葉を紡いだ。
夫は、自分の父にもこの数年の近況を詳しく報告していない。
◇◇◇
私は夫を追いかける旅の始まりを思い返していた。
これほど勇気を振り絞ったのは生まれて初めてかもしれない。
私と同じ馬車の中、共に揺られる人物がいる、剣を椅子に立てかけた男性だ。彼は傭兵稼業を営んでいて、私の護衛をお願いしている。
護衛を雇おうと考えたのは、道中が危険だとわかっていたからだ。
食事を摂るべく立ち寄ったある町の酒場で偶然出会った男、ライルは傭兵を名乗りながらもどこか洗練された雰囲気を持っていた。
「へへ、姉ちゃんよお。連れも居ないって事は一人って事だよなぁ? 寂しそうじゃねぇか、だったら俺がそんなん忘れさせてやるくらい……ぐえ!?」
「消えてろ。……お嬢ちゃん、そこの男の言葉に同意するようで癪だが……確かにこのような所に一人で来るのは感心しないな。どうだろう? これでも傭兵だ、威勢だけがいい暴漢程度なら何人でも片づける腕はあると自負している。雇ってみて損はないと思うが?」
大の男を一回殴りつけただけで気絶させた。その腕っぷしの確かさと冷静な判断力を見込んで護衛を頼んだが、彼の無骨ながらも親切な態度には次第に信頼を寄せていた。
ライルと過ごす二ヶ月の旅路で、私は初めて自由と呼べるものを味わった。
屋敷では侍女たちが身の回りの事をすべてをやってくれたが、この旅では自分で考え、選び、そして行動しなければならなかった。
それにやりがいを感じ、そしてその過程で心に少しずつ光が差し込むような気がしていた。
◇◇◇
エヴィン様がいるという村にたどり着いた時、私は何とも言えない感情に包まれていた。
期待と不安が入り混じり、胸が締め付けられるようだった。
「ここで間違いないか?」
ライルが低い声で私に問いかける。
「ええ、この村だって話だけど……」
最初は夫が数年前に出した手紙だった。あの屋敷の執事から預かったそれから始まり、それを頼りに夫が立ち寄った場所を巡っては情報を集め、ようやくこの村に居る事を掴んだ。
馬車を降り、村の小さな家の前に立った私は、覚悟を決めて扉をノックした。
だが、扉を開けたのはエヴィン様ではなかった。
「……………え?」
若い女性だった。金髪に碧眼の美しい女性が、赤ん坊を抱いて微笑んでいる。
「どなたかしら?」
その瞬間、背中を冷たい汗が流れた。
「エヴィン様はいらっしゃいますか?」
「エヴィンなら、今裏庭にいますわ」
あっさりとした返事だった。
まるで夫婦の日常そのもののように自然で、私の心に不安が広がる。
彼女の案内で裏庭に回ると、そこにはエヴィン様がいた。
彼は庭仕事をしながら、案内してくれた女性に微笑みながら何かを話していた。赤ん坊の泣き声が聞こえると、彼は赤ん坊を抱き上げてあやすように軽く笑っていた。
それは、私が一度も見たことのない表情だった。
「エヴィン様!」
思わず声を張り上げると、彼は振り返った。その瞬間の彼の顔には明らかな狼狽が浮かぶ。
「……な、なぜここに?!」
「それは私の台詞です! ここで一体何をやっていらっしゃるのですか!!」
私は胸の中に渦巻く感情を到底抑えきれず、一気に彼に詰め寄った。
「こちら女性とはどんな関係ですか? その子は――その子は、もしやあなたの子供ですか?」
彼は黙り込んだ。その沈黙こそが、まさしく彼の答えだった。
しかしついに耐えられなくなったのだろう、観念したように呟く。
「……に、二年前からだ。遠征中に出会った。お前との……息苦しいと分かってる生活よりも彼女との方が心地よかったのだ」
信じられなかった。
いや、信じたくなかった。
私の事を知りもしないで、知った風に決めつける……!
「そうですか。あなたは私を――いえ、伯爵家を裏切ったのですね」
怒りと悲しみで拳を握り締めた。最早許してはおけない。私の為にも、離婚を仕方ないと言ってくれたお義父様の為にも。何より、彼を信じて送り出した伯爵家そのものの為にも見逃す訳にはいかない……!
その時、私がその頬を叩こうとするよりも早くライルが私の横をすり抜けてエヴィン様に近づいき、そして――何の前触れもなく彼を殴り飛ばした。
「エヴィンとやら……! 貴様、貴族と騎士の誇りはどこに捨てた?」
冷たい声に、エヴィン様は地面に倒れ込みながらも怯えるように見上げた。
「な!? お前、何者だ……!」
「ライル――ライルロード・ショーグリック」
「なに!? ま、まさか侯爵家!?」
「察しの通りだ。俺はそこの次男でな、騎士としての武者修行の傍ら傭兵なんてものをやっている。今は彼女がクライアントだ」
「嘘……っ」
これには私の方が驚かされた。ただ者ではないと思ってはいたが、まさか貴族。
それも侯爵家の人間だったなんて。
それだけ言うと、彼は私に振り返っては穏やかに微笑んだ。
「こんなクズ、わざわざその手を汚す価値も無いだろう」
私はライルの言葉に力を得た。彼は私の為に代わりに殴ったのだ。
決意を新たにして、持ってきた離婚届をエヴィン様の前に突きつけた。
「今すぐサインしてください。そして、この結婚を終わらせます。私との縁が切れるならば、そちらも文句などないでしょう?」
抵抗しようとする彼だったが、ライルの睨みに言葉を呑み込むしかなかった。
◇◇◇
離婚届を握りしめ、屋敷に戻る馬車の中、私は初めて解放感というものを味わっていた。
「これで終わったんですね……」
「いや、始まりだ。その人生は今新しい局面を迎えたんだ」
そう言って笑ってくれた。
しかし、彼は侯爵家の人間。本来は軽く言葉を交わせる身分ではない、そう思って態度や言葉遣いなどを改めようとしたのだが……。
「いや、いい。今更気を遣って敬語などを使われると、却って可笑しな気分になる。仮の身分とはいえ、傭兵なんて仕事をしているとな? その辺りなど対して気にならなくなる。問題があるとすれば……実家に戻った時のテーブルマナーに自信を持てないところか」
彼はいつものように軽い冗談を混じらせながら、私に対して振る舞いを矯正しようとはしなかった。
私も、実のところ今までのような付き合い方が出来なくなる事に寂しさを覚えていたので、冗談に笑いながら素直に了承する事にした。
屋敷へと戻る旅、その最後の夜の事。
ライルは私に正式に想いを告げた。
「お前さんと過ごした旅路で、俺はその逞しさと気高さも知った。その上で、もっと傍に居たいと思った」
その言葉に胸が熱くなった。
「この武者修行が終わったら迎えに行かせて欲しい。待っていては……くれないか?」
私は頷いた。
そして一年後、全てを清算した私は、彼との新しい人生を歩み始める事にした。
エヴィンの裏切りも、もう過去のことだ。
あの時ライルが私を支えてくれたように、これからは共に新しい道を歩んでいく――そう心に誓ったのだ。
私は自分の生家である男爵家の庭園に立っていた。
咲き誇る花々の中、父や母、使用人たちが準備を整えてくれている。
今日は私とライルの婚儀の日だ。
「あのような辛い目に遭った後、良い縁に恵まれたな」
父が目を細めながらそう言う。
「ええ。彼は、今まで出会った誰よりも私のことを大切にしてくれます」
母は私の手を取って微笑んだ。
「あなたが幸せなら、私達はもうそれでいいのよ。……以前の事は心から謝るわ。ごめんなさい」
「もう過ぎた事だから……。それに、あの結婚があったからこそ……今の人生があるのだから」
修行を終えたライルは、侯爵家の一員として日々精を出している。
父親である侯爵に私達の出会いの経緯を話したところ、元夫の行いに怒り、ライルが私を守るための行動を称賛したそうだ。
今日の婚儀には、彼の家族も参列してくれている。
「緊張してるか?」
その声に振り返ると、見違えるほど洗練された正装を身にまとったライルがいた。
私を見て、彼は少し照れたように笑う。
「ふふっ。あなたの方がしてるんじゃない?」
「……敵わないな。でもな、仕方ないじゃないか。その姿――きっと誰よりも美しいのだから」
その言葉に、胸が熱くなった。かつての結婚式とは違う。今度は心から愛する人との結婚だ。
式は穏やかに、そして心温まる雰囲気の中で進み――私たちは正式に夫婦となる事が出来た。
◇◇◇
一方、その頃の元夫のエヴィンは完全に破滅していた。
遠征と称した浮気の事実が実家の伯爵家に知られると、激怒した父親からは絶縁を言い渡された。
さらには騎士団にも父親から事の詳細が報告され、品行方正であるべき騎士の倫理に反する行いとして騎士団を追放された。
浮気相手の女性は、まさか自分が浮気の片棒を担がされているとは知らず、エヴィンを見限って子供と共に姿を消した。
今のエヴィンは浮気相手と過ごした部屋の中、実家からの仕送りも絶たれ、騎士としての職まで失って毎日のように嘆き苦しんでいる。そしてうわ言のように元妻の名前を呼んでいるそうだ。
「当然の報いだな」
傭兵時代に培った情報網を駆使して妻の元夫の動向を探っていたライルロードは、報告書が届くとそう呟く。
そして、それを妻に伝える事なく火で燃やす事にした。
◇◇◇
ライルとの新しい生活は、穏やかで幸福そのものだった。
彼は修行の中で培った剣技を生かし、侯爵家の騎士団の副団長として働き始めた。一方で、私は庭いじりを楽しみながら地元の貴族夫人たちと慈善活動を進め、実家の男爵家を支えている。
「しかしなんだ、君がここにいると俺は何があっても帰って来なきゃならない。そんな気になるな」
「何なのそれ?」
「まじないであり、決意だよ」
そう言って微笑むライルの隣で、私は今まで感じたことのない安心感に包まれる。
過去の辛い経験も、今では私を強くしてくれた大切な教訓だ。
あの日に勇気を出して家を飛び出した決断は、私に真の幸せを手に入れるチャンスを与えてくれたのだから。
新しい未来が広がる。私たち夫婦はきっと、手を取り合いながらこれからを共に進んでいくのだろう。
そしていつの日か子供が生まれたら、今度は彼らに私が得た大切な教訓を伝えたいと思う。
「強く、気高く。そして誇らしく生きよう」
それが、今の私――メルバ・ノーレン・ショーグリックが人生で学んだすべてだ。