異世界から召喚されたあの子は王子に笑って欲しい
「ああ、神父様。私達の罪をお聞きください」
懺悔室で喋るのは黒いドレスを着た女性。黒のベールで顔を隠しているが、薄っすら見えるシルエットはとても美しいと思われる。
女性は悲痛な思いで絞り出した声で罪を告白する。
「私達が召喚した悪魔が娘を殺して息子の心を食べてしまいました」
そう言った瞬間、女性は懺悔室、教会内に響かせながら泣き出した。
*
突然、深い森を突っ切るように、綺麗な道があった。ただ壮大な森の中でこの道を見つけるのは至難の業だった。ヤギの聖獣、カルマの嗅覚ですぐ見つけたが、私一人だったら時間がかかっていた。
「と言うか、道の目印なんて一切無いのに森の中に道があるからそこをまっすぐ行けってどういう事? 迷わせる気満々でしょう」
「だからじゃない、カルマ? 元々この国の王族の人がお忍びで来るお屋敷だったんだよ。避暑地的な」
「それで今は異世界から召喚させた人達が隠れ住む場所」
「そもそも、なんで王族が異世界の人を召喚させたのか……」
カルマは「さあね」とスルッと人間の姿に変わった。蠱惑的な笑みが特徴の白髪と赤い目の青年。綺麗で魅力的な青年に見えるだろうが、額にヤギの角が生えていて、人ではないというのが分かる。
カルマは「もうすぐ着くよ」と呟くと、深い森の中から綺麗な屋敷が見えた。すっぽりと森の中に覆われて、上から見ても分からないだろう。民衆、そして王族よりも力がある者達に見られたくない気持ちがすごく分かる。
館の周りの庭には何にもなかった。別荘と言ってもお抱えの庭師がいてお花を植えたり植木を整えて綺麗にしていると思うのだが芝生の草、一つも生えていない。
「草が一つも生えていない」
「立地的に無理でしょう。この森は深くて一日中、太陽の光が差し込まない。そうなると木よりもはるかに背か低い草花は太陽の光が当たらないから枯れるしかないね」
「本当になんでこんな所に館を建てたんだが」
ちょっと落ち込んだ顔になるカルマ。恐らくいい草が生えていたら、つまみ食いをするつもりだったのだろう。カルマ曰く、お金持ちの屋敷の庭に生えている草は美味しいらしい。
お庭の観察はすぐに切り上げて、早速館の玄関へと向かった。すると我々が来るのを予測していたようで、ガチャッと玄関が開いた。
「ごきげんよう、異端審問さん」
玄関を開けたのは茶髪の少女だった。愛らしいフリルが付いた真っ白いワンピースを着ていて美しい子だった。十六歳くらいの年か。
そして我々が異端審問と分かっていて、しかもカルマは額に角を生やしていて異形の姿なのに、普通に接している。
この周辺諸国に厚い信仰がある【聖十二神】教会の組織、異端審問は悪魔召喚に関わった人間を取り締まり、この世界から悪魔を追い出している。
異端審問に睨まれた人間の一族は国中から疎外されたりもするため、我々は恐れられている。
だが目の前の少女がほほ笑み、「ちょうどお茶を入れたんですよ。ぜひ」と言い、我々を館に招き入れた。
「私はエレンと名付けられました」
先ほど我々を出迎えてくれた少女は奇妙な自己紹介をした。泣く子も黙ると言われる異端審問に部屋を案内をして、お茶を入れて優雅なティータイムを楽しもうとしている。
私は少女の隣に座っている少年に目を向け、口を開いた。
「そして彼がこの国の王子 ファニスですね」
「……」
「ええ、そうです」
ファニスは答えず、代わりにエレンが答えた。
今の王は彼しか息子がいない。だから彼は次の王様になる人物だ。普通だったら、こんな屋敷にこもっている時間なんて無いくらい忙しい。
彼、ファニスを観察すると金に近い茶色の髪を持った美少年で笑えば女子はときめくだろうと思えるくらい華やかな顔立ちだったであろう。年齢は十六歳と言っていたはず。
だが彼は車椅子に座り、遠い目をしていて心ここにあらず、だ。体は痩せて手足も細い。俯いていて、異端審問が来ても興味を示さない。
この国一番の大きい教会の懺悔室で嘆いた女性、女王が「心を食われた」と表現したのも無理はない。
「そう言えば、いつも食料を届けてくるお仲間さんは?」
「……今日は来ませんね」
「あら、そうですか」
残念そうに言うエレンを見て、思い出した。
昨日、我々の仲間が使用人に扮して食料を持ってきたのだが、すぐにバレてしまったらしい。その上でエレンは「早めに私を元の世界に戻してくださいね」と言って王子に刃物を突きつけて言ったようだ。
緊急性が高いという事で私とカルマがやってきたのだけど……。
「あー、美味しいお茶。お二人は飲まないの?」
「仮面を被っているので」
「僕は苦手なので」
任務中に飲食はしない決まりだし、飲む気にはなれない。
と言うかこのエレンと言う人も優雅にお茶を飲んでいるのも相当、肝が据わっている。普通だったら敵愾心を持っていたり、不安になったり、と平常心ではいられない。
ただこういう人もいて一番厄介と言われる。このまま捨て身の行動を取って我々を亡き者にしようと考えているかもしれない。一応、そう言う事も考えて詰襟の服の中には様々な魔法具を用意している。
ただ、昨日来た仲間は屋敷や庭には魔法を仕掛けている様子はなかったと報告を受けている。私も屋敷やエレン、王子を観察しているが罠の魔法をかけてない。
「はーい、ファニス様。お茶を飲みましょうね」
エレンはそう言ってファニスにお茶を与えようとするが、プイッとそっぽを向く。一応、嫌がる素振りはするようだ。
「あ、いらないんですか? お菓子は? え、食べないのですか? もう、ご飯をあまり食べないんだから、こういう時に食べないと……」
「……」
母親のような言い方でファニスを咎めるが、彼は黙ったままだった。
仕方がないとばかりにエレンはファニスに飲食を勧めるのをやめて、お茶を再び飲み始めた。
そして私達を見て「そう言えば、どういったご用件ですか?」とすっとぼけた顔で言ったので、私は令状を出した。
「令状です。あなたを呼び出した契約書などを捜索します」
「ああ、契約書ね。持ってくるわ」
そう言ってエレンはパタパタと駆け出す。別の部屋にあるのか? と思いきや、部屋の隅の綺麗なタンスの引き出しを開けて、書類を持ってきた。
「お待たせしました、これですよね」
それは確かに召喚に使う契約書だった。
……え? こんなにすんなり渡すの? いやいや、これって罠じゃないか? でも見た感じ、契約書だ。
ちゃんと確認しないといけないと思い、手を伸ばそうとした瞬間、エレンは「ちょっと、待ってください」と言った。
「契約書をお渡しする前に、お話ししたいことがあるんですよ」
「……お話し?」
「はい。私が召喚された理由ですよ。それとこの屋敷で何をしていたのか、何が起こったのか」
エレンの言葉になぜかファニスがピクッと体が揺れた。
*
確かにこの国の王の一族はどうして異世界から人を召喚させたんだ。教会から禁止をされているのに。ここ周辺諸国では【十二神】の信仰は強く、王ですら教えを逆らえないと言われているのに。
チラッと車椅子に乗るファニスを見る。ほんの少し表情が歪ませている気がした。
私達が意味ありげな沈黙をしているとエレンは「気になるでしょ」といたずらっぽく言った。認めなくないがエレンのペースで進んでいる。
「ではお話ししましょう。ところで異端審問さん、この国はどうやって権力を得てきたと思いますか?」
カルマが「戦争して領地を増やした」と答えるが、エレンは「もっと平和的に」と言われた。その会話を聞いて、私は答えた。
「政略結婚をして権力を増やしていった」
「正解です!」
「でもそれは昔の話しですよね」
「そう。政略結婚と言うのは相手に権力の流出もあり得ますからね。多くの権力を有すると独占したくなるのは世の常です。そうすると血筋が近い人と結婚をしてしまいます」
確かにこの国の王族は血族結婚、つまり近親婚が多い。とは言え叔父叔母、もしくは従妹同士の結婚は教会では控えろと忠告はするが禁止にはしていない。
「実を言うと、私の世界でもありました。大昔で違う国の話しなんですが、近親婚を繰り返して権力を守っていったそうです。だけど生まれてくる子孫がどんどん虚弱体質、もしくは障害を持ってしまい滅亡してしまいました」
「ここの世界でも、そうなるからやめておけって教会の教えがあります」
「でも自分より身分の低い家系と結婚なんてしたくないですよね。そんな結婚するくらいなら、異世界の人間を連れてきて、高い身分の人間って見せかけた方がいいって思いますよね」
エレンの会話に、え? まさか……と思った。
「そう。私はファニス様と結婚するため召喚されたのです」
エレンがそう言うとガタッと音が聞こえてきた。ファニスを見るとエレンを睨んでいた。まるで飢えた魔物のような殺意があった。
だがそんな殺気なんて気にしないでエレンは「お茶のお代わりしようと」と言って、ポットのお茶を入れていた。
「あ、私は最初の婚約者じゃ無いんですよ」
そう言いながらお茶にミルクを入れて、ティースプーンでかき混ぜる。そしてエレンはミルクティーを飲み、「んー、美味しい」と言った。
私が彼女の話しを催促するため、「他にも召喚された子がいたんですか?」と聞いた。
「ええ、そうです。この隠された屋敷では五人の女の子が召喚され、四人は婚約破棄で殺されました」
「……嘘でしょ」
「本当ですよ。ヤギの角のあるイケメンさん」
聞き慣れない言葉に「イケメンって?」と私が聞くと、エレンは「かっこいい人って事」と解説してくれた。仕事がら異世界から来た人間とよく関わっているが、知らない単語は結構多い。
「私の前の婚約者たちは死ぬと、契約上この世界から消え失せるらしいです。元の世界へ帰っていると思いますが、生死は分からないですけど」
「どういった理由で婚約破棄をしていたんですか? 浮気とか?」
「こんな森の中に王子よりもイケメンの男なんていませんよ。もちろん食料を持ってくる使用人も女性です。浮気も何も出来ないですよ」
確かにエレンの言う通りだ。婚約相手のどちらかが浮気などして婚約破棄が多いから、私もその流れと思い込んでしまった。
じゃあ、どういう理由なんだ? と考えているとエレンは「難しく考えなくてもいいわ」と言って答えを教えてくれた。
「婚約破棄の理由はとっても簡単。彼の好みに合わないから」
「え? 好み?」
「ファニス様が教えてくれたの。今まで召喚してきた女の子達の嫌いな所。一人目はオドオドしていて、不安そうにしていた所。二人目はここでの生活に全く慣れないし、失敗が多い所。三人目はずっと泣いていて、こんなはずじゃないとか言ってくる所。四人目はすべてが気に食わなかったらしいです。なんでも澄ました顔とか最愛の妹のクミル様よりも完璧に勉強もマナーも出来る事も」
エレンがつらつらと歴代の婚約者の破棄である理由を話していると「あ、そうだ」と言って、席を立った。
「クミル様の事を教えてあげますね。小さな絵があるんですよ。持ってきますわ」
そう言って彼女は部屋を出た。
部屋に残ったのは私とカルマ、そしてファニス。
私は最低じゃないか、この王子! と思いながらファニスを睨んだ。全部、当てつけのような理由で婚約破棄して殺して。しかもこいつの家族は結婚相手を連れてくるために異世界から女の子を召喚するなんて! 神をも畏れぬ行為だ!
睨んでいるとファニスは涙を浮かべる。胸糞悪い! お前は被害者じゃないだろ! お前も悪魔そのものだ!
ムカムカしてきたので、カルマを見る。すると悲しげな表情で「エレンは美人だけどな」と呟いた。
カルマは面食いだ。可愛い、綺麗な女性には目がない。ヤギの姿だとあざとい行動を青年の姿では紳士的な行動を取って好かれようとする。だがエレンに関しては必要以上にエレンと話をしない。聖獣の勘が働いているのかも。私もエレンは今まであってきた悪魔の中で一番、怖い。
ここは悪魔の館だな。と思っているとパタパタと走ってエレンは小さな額を持ってやってきた。
「はい、これがクミル様。可愛いですよね。ファニス様の妹です」
そう言って彼女は額の絵を見せてくれた。確かにファニスに似て美人だけど、ちょっと気が強そうに見えた。そして絵の中のクミルの着ている服が、今エレンが着ている真っ白いワンピースによく似ている。
ファニスにもクミルの絵を見せて、エレンは「クミル様ですよ」とか言う。するとファニスは目を見開いて悲しみと怒りでエレンと絵の妹を見ていた。
エレンはファニスに「ああ、ごめんなさい」と言い、クミルの絵を置いた。
「クミル様は亡くなられてしまいました」
そう言えば女王、ファニスの母親は確か「娘は殺された」と言っていたな。
「ああ、酷い。あまりにも悲しい事故でした」
「ふざけるな」
演技じみたエレンの言葉に、小さな声でファニスは言った。エレンを睨み、歯ぎしりしている。それを慈しむようにエレンは見ていた。
「そろそろ、お散歩に行きましょうか。ファニス様」
そう言ってファニスが乗っている車椅子を動かす。その瞬間、乗せられているファニスは絶望的な表情になったが、エレンの行動を止める事は出来ない。
「異端審問さんも一緒にいかがですか?」
彼女のお誘いに私とカルマは同意した。
*
お散歩と言っても深い森で花一つ生えていない庭。高い木々に囲まれて、昼間だというのに暗い。
エレンはゆっくりと屋敷の周りをファニスが乗る車椅子を押して散歩し、私とカルマは後からついて行く。森の奥では我々の仲間たちが監視している。私はエレンに気が付かれないようにサインを送る。
エレンは散歩しながら話し出した。
「さて、どこまで話しましたか」
「クミル様はちょっと気が強そうだけど、可愛らしいってところまで」
カルマはエレンの言っていない言葉も言って教えてあげた。だがエレンは否定しないで、更にこう言う。
「そう! クミル様は気が強くて意地悪でわがままで残酷で、そして究極に可愛いんですよ」
「可愛いのは分かったけど、性格は酷かったの?」
「ええ。花嫁修業として屋敷の掃除や料理もしないといけないんですけど、やる事なす事、いちいち文句を言いまくる。雑巾ですべての部屋と廊下などを掃除しろって言われて、やった時のことです。クミル様は掃除したところをわざと汚して『ここが汚い!』とか言ったり、バケツを蹴っ飛ばして廊下を水浸しにして大笑いする。それで注意したり、やめてほしいと言うとファニス様に怒られてお仕置きされる。それと花嫁修業で勉強もしないといけない。そう言うのも積極的にクミル様が教えるんですけど、間違ったことを教えてみんなの前で恥をかかせたり、わざとケガさせたりしていたんですよ」
「それはヤバいね」
「召喚された子達って、みんな私と同じ年代の子達なんです。だから結構、精神面が弱いんです。だからすぐにダメになっちゃったみたいですね」
そんなことされたら誰でも精神的に辛くてオドオドしたり、不安になったりするでしょう。
クミルと言う妹のやってきたことが思った以上に意地悪だなって思っていると、「そんな訳ない!」と呟いた。ファニスの声だ。
「クミルは天使のような子だったんだ」
「当たり前だけど、クミル様は家族やファニス様にいい子でした。だから婚約者はいつも悪者扱い。しかも一人でこの世界に来させられて、不安でいっぱいなのに。何一つ私の気持ちを考えてくれなかったわ。特にクミル様は」
「ふざけるな! クミルを貶めるな!」
「そうですね。確かにファニス様もその家族も残酷でしたね。こんな右も左も分からない召喚された女の子を婚約相手にさせて、出来なければ殺す。ファニス様も勉強を教えてもらったんですけど、五時間もずっと座りっぱなしにした上に、ちょっとでも動くと鞭で叩くんですもの。でも残酷さ加減はクミル様が上を言ってますね。あの子は私達が食べれるご飯にガラスとか入れて殺しに来るんですもの。そしてお前は殺されたって誰も悲しまないって言うんですもの」
「もうやめろ! クミルの事を言うのは!」
「そうね、死んだ人をそんな風に言ったらいけなかった」
更にしつこくエレンは「申し訳ないわ、死者に失礼よね」と言い、クミルが死んでいる事を強調させる。ファニスは悲痛と怒りがごちゃ混ぜのような顔になった。
そんな会話をしていると、ちょうど屋敷の裏に着いた。そこには古びた井戸があった。
意味ありげに古井戸にファニスが乗っている車椅子を停めさせて、エレンは井戸に手を合わせる。
我々の両手を握る祈りとは違い、エレンの祈りはピンッと手を合わせていた。そして背筋を伸ばして黙とうをする。その姿は先ほどまでの人を食ったような態度とは違い、真剣に祈っていると思った。異世界から来た人間でも誰かを偲ぶと言う文化はあるんだな。
それを憎たらしい目で見るファニス。
「ここで亡くなったんですか? クミルは」
「ええ、死者の祈り方は私の世界のやり方でやっているのでクミル様は怒っているかもしれませんが……」
エレンは「それではクミル様が亡くなった時のお話をしましょう」と言い、ファニスが「やめてくれ!」と怒鳴った。
「すべて悪魔のせいなんだ!」
「そうですね。私がこの世界に来なければ、こうなっていなかったと思いますよ」
幽かにほほ笑むエレン。エレンの話し通りだったらファニスもクミルも悪魔のような所業だ。でも彼女自身もヤバい感じがある。
そしてエレンは語り出した。
「ファニス様とクミル様はとにかく私の前の、四番目の婚約者が嫌いだったようです。死ぬ際もむやみやたらに泣き叫ばず、自らこの井戸に飛び込んだとか。そこが一番気に入らないポイントだったようです。でも私には二人は彼女をもっと虐めて泣き叫ぶところが見たかったんだと思いました。だから私はクミル様に言いました」
目を閉じてエレンは「『もしかしたら井戸の中に、四番目の婚約者がいるかもしれません』って」と清々しい笑顔で言った。
その瞬間、ファニスは嗚咽をあげながら泣いていた。
「『もしかしたら落ちたけど、生き延びていて誰かの助けを待っているかもしれません。助けてあげてください』と言いました」
「それでクミルは助けてあげたんですか?」
私の質問に「そんなわけないですよ」とエレンは一蹴し、更に話す。
「四番目の婚約者の絶望的な顔が見たくて井戸の底を覗いていました」
「それで突き飛ばしたとか」
カルマの不謹慎な言葉にエレンは「その通りです」と嬉しそうに言った。
「ファニス様が」
私とカルマがキョトンとしていると、ファニスが大声で泣きだした。それをエレンは「ああ、お可哀そうに」とワザとらしく言いながら、背中を撫でる。
「クミル様が井戸に行った後、私はファニス様に言ったんですよ。『四番目の婚約者が井戸から上がってきています! 助けに行ってあげてください!』と」
カルマは面白がって「ファニスは井戸に行ったんだ」と言った。
「行きましたよ、突き落とすために、ね」
歪んだ笑みを浮かべてエレンは言い、ファニスは滝のような涙が溢れる。
「あの日は不幸にも霧の深い夜でした。そんな場所でファニス様はクミル様を四番目の婚約者と見間違えて突き飛ばしたのです」
「お前のせいだ! お前の!」
「そうですね。私がお洗濯を失敗して、クミル様が四番目の婚約者と同じ服を着たばっかりに……」
「違う! お前が、騙したんだろ!」
そう言ってファニスは絶望の鳴き声を上げる。そう言えば母親もこんな感じで泣いていたなと思った。自分は被害者だと訴えるために。
私は「クミルは今も井戸に居るんですか?」と聞くとアレンは首を振った。
「すでに遺体は引き上げています。でも私の世界では死んだ場所にも祈りを捧げているんです。それにファニス様は簡単にお墓参りも出来ませんからね。だから毎日、お参りしているんです」
*
お散歩が終わり、先ほどのお茶をしていた部屋に戻った。
「ファニス様、お顔を拭きますね」
そう言って涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったファニスの顔を丁寧に拭くエレン。ファニスは相変わらず問答無用で介護されている。
私とカルマはエレンからもらった契約書が本物だろうか、見ていた。うん、見る限り本物だ。
「あなた、本当の名前はサトウ ユウコなんですね」
「はい。ユウコは優しい子と言う意味でお婆ちゃんに付けてもらいました」
エレンの言葉に「あー、そうなんだ」とカルマは感情もなく言った。私も心の中で優しい子、ね……と呟いた。
チラッとファニスを見ると目と鼻が真っ赤になっている。そして手も足も添え物とばかりにダランとしている。ずっと動いていない。
「エレン、ファニスはクミルの事故で体が不自由になったのですか」
「そうですね。王族には危害を加えた加害者は、両腕両足が動かなくなる魔法がかけられているらしいです。それは王族同士でも効果はあるとか」
話しを聞いていたファニスは再びポロポロと涙が出る。目ざとく見つけたエレンはすぐさま、「拭きますね」と言って拭いてあげる。
どうでもいいことかもしれないけど、もう一つ指摘する。
「……あと、なんでファニスは猿ぐつわをしているの?」
「ああ、猿ぐつわをしないと噛まれてしまうので。彼の身の回りの世話をするんですが、嫌がって噛むんですよ。でもお世話しないと可愛そうなので、こうして猿ぐつわをするんです」
これが王子の末路か……。ファニスとその一族がしたことは自業自得と言う人はいるだろうけど、結末はあまりにも胸糞過ぎる。でも彼らの罪を見ても同情できない。異端審問と言う身分だからじゃなくて、私個人としても。
だがエレン自身もヤバい。異端審問長官から契約書を見つけたら、さっさとカルマに食わせろと言われる。契約書もあるし、罠が仕組まれている様子もない。
早めにカルマに食べさせるか……。
「エレン、いや、サトウ ユウコ。これからあなたを元の世界に強制送還します」
「あ、分かりました」
エレンには、この世界に対して未練は無さそうだ。そうしてファニスの猿ぐつわを取ってあげて、何か耳打ちをした。ファニスは大きく目を見開いた。
スッと私は杖を出す。
「何を話したんですか?」
「お別れの言葉ですよ。最後に笑ってって言ったんです」
「嘘ですよね。口の動きは全く違っていましたよ」
エレンは歪んだ笑みを浮かべる。白々しい彼女に何言っても仕方がないと思い、「エレンの口車に乗らないでください」と忠告した。
「酷いですわ、異端審問さん。私、ファニス様ってタイプだから、そんな酷いことしませんって」
「え? タイプ? とは」
「好みって事です。あ、すべてじゃなくて顔だけですけど。だから最後に笑って欲しかったんです。これは純愛ですよ」
もういいや。ファニスにも忠告したし、エレンは元の世界にさっさと帰ってもらおう。
カルマが食べた契約書は契約破棄になり、エレンは元の世界に戻る。だが確実に彼女の生きていた場所、時間に戻ると言いきれないのだ。……でも、この人はどこでも生きていけそうな気がする。
杖を戻して、カルマに契約書を食べる指示をする。カルマが契約書を一口に食べると、ゆっくりと彼女は消えていく。
「色々ありましたが、ファニス様」
最後だと思ってエレンはファニスに向かって言葉を紡ぐ。ファニスも最後だからなのか、首をあげてエレンを見る。
「私を信じてください。そして、大好きです!」
エレンがすべて消える前に、ファニスは少しほほ笑んだ。
*
エレンは消えた瞬間、ファニスは更に歪んだ笑みを浮かべてこう言った。
「やった。悪魔は消えた」
……私的にはあなたも悪魔だけど、と思った。口に出さないけど。
ファニスは「へへへへ」と笑って、生き生きしてきた。死んだ目がどんどんと光を取り戻している。生きる喜びに満ち溢れていると言った感じだ。
そしてファニスは言った。
「これで、クミルは生き返る!」
「はあ? 何言ってんの?」
カルマはファニスの言葉にそう返した。だがファニスは嬉しそうな顔でこう言った。
「だって、エレンの契約破棄をしたんだろ。だったら、あいつがしたことも無かった事になるんじゃないか?」
「いや、ならないよ」
カルマの強烈な返しに、ファニスの表情は固まる。
「なんでそんな思考になるんだよ。エレンの契約破棄って言う事は……、うまく説明できない」
「カルマ、私が説明する。契約者が一方的に交わした、契約内容を破棄するって事です。だから契約書に書いてある内容、この世界に居続ける契約を破棄するって事だから、彼女は元の世界に戻るだけです」
「……でも、エレンは『無かった事になるかも』って」
「だから口車に乗るなって、私は言ったじゃないですか……」
「でも、あの子は俺の事が大好きっていつも言って……」
……この男、エレンの大好きって言葉を本気に信じていたのか? 大好きって言ったから、私ではなくエレンの言葉の方を信じていたのか? ある意味純粋だ。
力が抜けるような気持ちで見ていると、カルマが「そもそもさー」と呆れながら言った。
「エレンは噓言ったけど、妹を突き落としたのは王子じゃん。例えエレンの契約破棄になっても、自分がやった事だから、無かった事にならないじゃん」
カルマの言葉にファニスは「あ」と言い、瞳から光が消えて言った。そして俯いて、人形のように動かなくなった。
今度こそエレンはファニスの心を食べてしまったと思った。
もし面白かったら、ぜひ他の【異端審問とヤギの聖獣カルマ、そして悪魔たち】シリーズは他にもあるので読んでみてください。
毎週土曜日に更新していたこのシリーズですが、一旦これでお休みしたいと思います。
今まで読んでいただき、ありがとうございました。