上中下の下
まだこちらの部屋にいるので視界が180°未満なのだが、波打ち際が横に一直線、穏やかな波に足跡一つない砂浜、青空にお日さまが一つ、それも日差しが柔らかい、そして扉からまっすぐ進んだところにビーチパラソルと椅子が二つ、穏やかな紳士がこちらを見ている。
あの人があそこにいるのに何故足跡がないんだ?風で砂が足跡を覆ったのか?と扉の向こうに海があることの不思議よりそっちが気になってしまう。
「どうぞこちらに来てください」
柔らかいテナー、大声を出しているのにすぐそこで呼んでいるような耳心地、一流のオペラ歌手が私に何の用なのか、私がトイレに来た理由はすっかり消え、砂浜に歩き出した。
「いやぁ、間に合ってよかったです、今日が期限だったんですよ、あと少ししたら行かないといけません。あなたが間に合ってホッとしていますよ」
「はぁ」
「彼女は優秀ですが、やり過ぎてはいませんでしたか?慌てた彼女を見るなんて、滅多にないことでしたよ」
「やり過ぎではありませんけどね、身内がずいぶん魅了されてしまいましたよ。私の道楽に冷たい目をしていた連中が行け行けと積極的になりまして」
パラソルに到着し、座るよう勧められる。私用にもトロピカルドリンクが置かれていて、浮かんでいる氷もエッジが効いている。
「まさか黄泉戸喫じゃないでしょうね」
「ここはちょうど境目のこの世側です、大丈夫ですよ」
相対せず二人して海を眺める。
世界に名をはせる一流オペラスターと並んで海を眺めジュースを飲む。そして二人は友達でもなんでもない。
「なんなんですか?いったい」
切り札氏はジュースを一口飲み
「私もとにかく歌わなきゃと馬車馬のように働いてきましてね、若い頃は夢がありました。世界一の歌手になるぞ!という夢がね。それが機会に恵まれて大勢の人から歌を頼まれるようになり、無我夢中になって夢も希望も頭から消し飛んで歌いに歌いまくっていたんですけどね、二十年も三十年も経つと、たまにはエアポケットのような時が来るんですよ。その時に自分は一体何をやっているんだろう、どこに向かっているんだろうと考えます。それが何回もあった後にあなたのことを聞いたんです」
「彼女からですか?」
「いえ、彼女ではありません、音楽ジャーナリストの誰か女性だったかな?私のような者を探している人がいると聞きました。それでその人に会って話をしたら、私が何故歌っているのかを教えてもらえるんじゃないかと幼稚なことを考えましてね、彼女を雇ったのはそれからです」
「誰ですかね、そのジャーナリスト」
「あなた、何人に会いました?」
「あなたで五人目ですかね、切り札さん」
そこで四人がどんな人だったかを聞かれ、会って話をした範囲を伝える。
「なるほど、みなさん、じっとしてるんですねえ」
「そりゃそもそもあなたのように音楽家としての才能を持つ人は少ないわけですし、あなたの才能もこれとはそれほど関係ないと思うのですが」
「なるほど」
二人しばし黙り、波を見つめる。陽も落ちてきている。
「実はあなたにお願いがあるのですけどね」と切り札氏。
「はぁ、なんでしょう」
「甥が……私の甥が、やっぱりオペラ歌手を目指して勉強しているのですけどね、甥を見てやってくれませんか」
「きちんと音楽の勉強をしている人に私が何か出来るとは思いませんが」
「まぁ声はそうでしょう、しかしあなたは、あなたが聞いてきた音については一家言お持ちのはずだ、そっちのほうで甥を見守ってやってくれませんか、私が行くことで甥が背負うことになると思うのですよ」
「聞きますかね、甥御さん。私のような訳の解らない者の言葉なんて」
「聞くでしょう、私の甥なんです」
ここの時間の流れは速い、もうそろそろ夕焼けである。
「間に合って、よかった」
そして
「あとの七人、彼女に依頼すれば確実に見つけてくれますよ。お金はかかりますけどね、あなたに来てもらうのも、彼女以外にはできなかったでしょう」
七人探しにいくらかかるんだろう。
「ではありがとうございました。ここが闇になる前に、あのドアから戻ってください。これで私は全て終わりです」
右手を出してきた。
そうだ、この人は世界を股にかけて活躍していたのだった。
外国では握力が強い人が多く、楽器演奏者は握手で聞き手を壊されて訴訟沙汰になることもあるんだっけな、などということを思い出すのだが、切り札氏も私もそうではない、そっと触れて、軽く握って上下に動かす、その程度だ。
もう夜となった海を見つめる切り札氏を背に扉に向かって歩く。
フゥっと息を吸い込む音がしたのはあと一歩でトイレの手洗い場に出るときだった。
振り替えると月も星もない真っ暗な空間から、切り札氏を切り札氏とした黄金の一声が響き渡った。
切り札氏は最近のスタイリッシュなオペラ歌手ではない、一時代前の体を大きく太らせて、体全体で大きな思い声を作るタイプの歌手である、その最後の一声をなんと表現したらいいか解らないのだが、哀しい声でなかったことだけは確かだ。