第1話:Aについて
「だからさ、前提が違うわけ。」
さっきまで眼下の中庭をぼうっと眺めていた綺麗な黒い瞳が、まっすぐにこちらを見つめる。
「例えば———こう。」
佐々木は胸の辺りで、飲みかけの炭酸飲料を横に揺らしてみせた。シュワシュワと小気味のいい音がして、屋上の温度が少しだけ下がったような感じがした。
「えっと、今このコーラから、炭酸が幾分か抜けたわけだけど。」
「うん。」
佐々木は少し頭を掻いた。
「このコーラを、ずっと、ずうっと振り続けると、炭酸が全部無くなるわけじゃん。」
「まあ、そうだね。」
「そんで、『炭酸が抜けきったコーラ』を、例えば『飲料A』とか呼ぶとして。」
佐々木はコーラを一口仰いで、続ける。
「『飲料A』は、ただの『炭酸抜きコーラ』にすぎないわけだけど、例えばこれをさ、コンビニの冷蔵庫に、『飲料A』とか名前をつけて陳列すれば———これはもう、『炭酸の抜けたコーラ』というより『飲料A』なわけ。」
僕はなんだか少し納得がいかない気がしたから何か言おうと思ったけれど、佐々木が人差し指をピンと立てて話を続けようとしたので、黙ることにした。
「そんで、僕らには想像もつかないけれど、『飲料A』と『コーラ』が別々に売られているのが当たり前の世界があったとして。」
ぼんやり想像してみる。
「その世界だと、もしかしたら飲料Aが、コーラなんかよりずっと人気かもしれないし、まああるいは、飲料Aなんて見向きもされない世界かもしれないんだけど、」
佐々木は白いシャツをズボンから出してパタパタとやった。6月にしては暑かったから、屋上の影の方の鉄柵に、2人してもたれていた。
「それは今、どうでもよくて。ただ、今、一番重要なのは、その世界では、『飲料A』が『コーラ』ではなくて『飲料A』として認識されるということなんだよね。『炭酸の抜けたコーラ』という括りではなくってさ。」
なんとなく言いたいことがわかったような、わからなかったような気分になりながら、とりあえず耳を貸してみる。佐々木は例え話が回りくどいから、こういうことがよくある。
「その世界のちびっ子が、『飲料Aなんて、炭酸の抜けたコーラじゃないか!!』とかなんとか言うかもしれないけれど、」
「うん。」
「『飲料A』は『飲料A』としてラベリングされた世界なんだよ。『飲料A』が、ご丁寧に、成分から何から全ての状態が、『炭酸の抜けたコーラ』と何一つ変わらなかったとしても。それでも『飲料A』は『飲料A』にカテゴライズされていて、つまりその世界の大抵の人には、『飲料A』の集合が『コーラ』と呼ばれるものの集合とはまた別の集合として認識されていることになるんだよね。」
佐々木はアゴに手を当てて、指先で鼻をいじる。佐々木が「ええと、これじゃわかりにくいだろうから、言い換えると、」みたいなことを言いたいときに、よくやる仕草だ。
「僕が結局言いたいのは、『あるものが何物であるかは完全に観測者の主観で決まる』———ということなんだけど。」
なんだそれだけのことか。
「僕が仮定した世界の人間は、僕がコーラを振り続けるところを見せずに、僕が振り続けた炭酸の抜けきったコーラを一口飲ませてみれば、『これは飲料Aだ』と言って飲むはずなんだよ、だけど、僕がコーラを振り続けるところを見続けた君はこれをあくまで『コーラ』として認識し続けるだろ。」
本当にそうだろうか、と思ったけれどとりあえずは頷く。
「まあ、そうかもね。」
僕があまり納得していないのを察したのか、佐々木は指先で鼻の先をいじる。
「うーん、例えが悪いな。」
僕はもたれていた柵と腕の間に、じとっとした汗が浮かんでいたのに気がついて、少しだけ体勢を変える。
「あ!そう、そうだ!プリン。」
風が吹いて佐々木の髪が揺れる。
「プリンの例え話のほうがずっとわかりやすいや。プリンをさ、普通のプリンを想像してみてよ。」
「『普通のプリン』ってのもなんだか面白い言い方だ。」
「確かに。」
佐々木はクスクス笑う。佐々木が綺麗な目を閉じて笑うと、いつもの、端正な印象の顔が、なんだか少しだけ不細工に見えて、しかしそれがなんだかやっぱり少しだけ、かわいらしいと思えて仕方なかった。
「でさ。」
佐々木は人差し指をピンと立てる。
「君の脳内に今あるプリンは、紛れもなく『プリン』なんだけど。それをずっと、ずうっと、小さく細かく分割していったとして、いつか、それはものすごく小さな粒になるわけだよね。君は例えば1立方センチメートルのプリンぐらいなら、きっとそれを『プリン』として認識するだろ。でもそれをずっと、ずうっと続けていって、果てには炭素原子1個分まで小さくできるかもしれない。そのときに君はその炭素原子を『プリン』と呼ぶだろうか、そういう話なんだけど。」
この話はコーラよりずっとわかりやすい気がした。
「なるほどね。」
「でも、プリンをずっと分割する過程を見続けた人からすれば、その炭素原子を『プリン』と呼ぶのは間違っていない気がするんだ。なんにも知らない人に、炭素原子だけ取り出して見せてみたら、それはやっぱり『炭素原子』でしかなくて、それも間違っていないことだろ。やっぱり『あるものが何物であるかは完全に、観測者の主観で決まる』、ってことなんだよ。」
「まあ、そうかもね。」
屋上のタイルがいつもより強い日差しのせいでずっと鮮明に見えて、まるで白昼夢を見ているみたいだと、なんとなく思った。
「でもさ、それって気分の問題じゃない?プリンを分割していく過程を見ていた人が、炭素原子を『プリン』と呼びたい気分のときだってあるだろうし、『炭素原子』って呼びたい気分のときだってあるだろ。」
「いや、だから、さっきからまさに気分の話をしてるんだよ。僕らの認識する世界は、僕らの気分によってかなり左右されていてさ、実は世界って、かなり恣意的なんだよ。違うかな、僕はそう思うんだけど。」
納得したような気分になる。
「まあ、そうかもね。」
空を見上げてみると、雲がひとつもなくて、底抜けに青かった。空があまりに広く感じられる日は、屋上に寝転がってみると、自分が空に落っこちていくように感じられて、あるいは、空が自分に向かって落っこちてくるように感じられて、なんだか面白いねぇなんて言ったのも、佐々木だった気がする。
「ところで、なんでこんな話になったんだっけ。」
「ええと、」
僕も思い出せないな、と言いかけて、
「あ!そうだ、音楽のジャンル分けの話だよ、僕がマスロックとプログレの違いがわからないとか言ったら君が滔滔と喋りだしたんじゃないか。」
「そうだ!!そうそう、だから、音楽のジャンルだって、そりゃリズムとか、メロディとか、そんなもんに実物的な違いはあるけど、ただ結局は『気分の問題』で、音楽に都合のいい枠や稜線を与えてるだけ、ってことを僕は言いたかったんだよ、そうそう。」
また風が吹いて沈黙が降りる。やはり6月にしては日差しが強くて暑かったから、屋上には僕らの他に誰もいなかった。
佐々木は軽く伸びをする。佐々木の全ての所作が、なんとなく劇的で、なんとなく大袈裟なのが僕は好きだ。
「まあ、そんな感じ、かな。」
佐々木が話を終わらせるときの、口癖だった。
「授業だから、じゃあ、また。」
僕は少し熱を帯びた鉄の柵から体重を取り戻して、教室の方に歩き始める。
佐々木が、うん、と言ったような、あるいは言わなかったような感じがしたけれど、振り返らずに足を進める。
腕に当たった日差しがヒリッとして痛かった。
例えば。
『今の』佐々木は、日差しを浴びて、つまり6月にしてはやたらに強いこの日差しを浴びて。
例えば。
『今の』佐々木は、『今日は暑いね』と笑うだろうか。
そして例えば。
『今の』佐々木は。
シャツをズボンからだして『暑そうに』パタパタとやっていた佐々木は。
本当に、『佐々木』だろうか。
『今の』佐々木は。
『飲料A』に過ぎないのではないだろうか。
———佐々木は、去年の11月に死んだ。