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それからルイスは事前に従者を使い、予定を伝えてくれるようになった。その都度、ティアナも予定を伝えるようにしている。放課後は友人のジネットと買い物に行くこともあれば、学校の用事で帰りが遅くなることもあるからだ。
ティアナは、伯爵以上の爵位を持つ貴族の子息、令嬢が通う学校に通っている。自立心を養うことを教育方針の一つとして掲げているその学校では、自分の力で学校生活を送れるよう侍女や執事を学校内に連れて行くことを許可していない。
だからこそ、生徒のほとんどが送迎のために従者に時間を伝えておく必要があった。その配慮として、放課後の学校行事は事前に終了時間が決められていることが多い。
そんな学校の特徴もあり、ティアナがルイスに伝える予定は比較的確定している情報であった。その連絡を受け、ルイスが仕事の合間を縫い、ティアナに会いに来る。そして、もうそれが1か月続いていた。
「ルイス様、いつ頃来られますかね?」
どこか楽しそうなマヤに応えることなく、ティアナは目の前にある棚から一冊の本を取り、パラパラと捲る。
「でも、買い物に行くと言ったら、時間を合わせて来てくださるなんて、ティアナ様のことが本当にお好きなんですね」
ルイスの使いから今日の予定を聞かれたので、侍女と本屋に買い物に行くつもりであると伝えていた。
その連絡を受けたルイスから時間を合わせて会いに行くので、一緒にお茶をしようと誘われたのだ。待ち合わせ場所を本屋にし、時間まで買い物をしながら時間を潰すことになっている。
「初デートですね」
「マヤ…もうわかったから、…ちょっと黙ってくれる?」
楽しそうにはしゃぐマヤの口を止める。そうでなければ、耳まで赤くなってしまいそうだった。
何度もルイスと会っているが、外で会うのはこれが初めてだった。場所が違うだけなのに、ティアナは少しだけ緊張していた。
「うふふ。申し訳ありません」
「ちっとも思ってないわね」
「長年ティアナ様にお仕えしてきましたが、こんなにかわいいティアナ様を見られて幸せだなとは思っておりますよ」
「なによ、それ」
小さく笑いをこぼすとマヤもつられたように微笑んだ。
「約束の時間まであと少しですね。…ティアナ様、今日はどんな本を探しておられるのですか?」
「ジネットに勧められた恋愛小説よ」
「ジネット様は本当に恋愛小説がお好きなんですね。…このお店は作者別に並んでいるようですが」
マヤとたわいない話をしている時だった。
ティアナは妙な違和を感じ、視線を少しだけ左に移す。視線の先には2人の若い女性がこちらを見ていた。本棚があるためか、ティアナの視線には気づいていないようだ。
「…ねぇ、あそこにいるの、ティアナ様じゃない。ほら、あの、運だけでルイス・ドリアス様と婚約した」
「あ、本当だ。…マリア様からルイス様を奪ったというのに、よく笑っていられるわね」
かすかに聞こえる会話に思わずマヤを見る。聞こえていたら間違いなく怒りだしているマヤは真剣に本棚を見ていた。
「…ねぇ、マヤ、なかなか見つからないから店員さんに聞いて、探してきてくれないかしら。私は、このあたりでいろいろ見て待っているわ」
「承知いたしました」
軽く頭を下げたマヤが離れていく。離れていく背中に一つ安堵の息を吐いた。
耳を塞ぎたいが、そうすることもできない。一度気にしてしまえば、彼女たちの声は雑音などないかのようにクリアにティアナの耳に届いた。
「ルイス様はいろんな方と噂があったけど、マリア様には本気だったと思うわ。だって、あんなにお似合いなんですもの。なのに、家の都合で離されてしまって、本当にお可哀想」
「私がティアナ様の立場だったら、絶対に身を引くけどな」
好き勝手言う彼女たちに気づかぬふりをして、ティアナは目の前にある本をなんの意味もなく、手に取る。
ルイスの婚約者となってから、必要以上にルイスの噂が耳に入るようになった。今みたいに陰口で言われることもあれば、親切心を持って教えられることさえあった。
噂のほとんどは恋愛関係のもので、その中で一番多く聞かされたのが、ルイスの恋人だったのがマリア・ベルネットという女性であるというものだった。
マリア・ベルネットは、平民出身であるが、最近、男爵家の養女となった女性である。ウェーブのかかったブロンド髪に小さな顔。10年に1人と言われるほど美しい彼女はティアナより1歳若い16歳であるが、大人びた雰囲気を醸し出す。優しく笑うその顔は多くの人を魅了しているという。
ティアナもまだ数えるほどしか見たことがないが、遠くから見ても美しいと思ったことは記憶にあった。
ルイスとマリア、2人並ぶと絵本から出てきたお姫様と王子様のようだともっぱらの噂だ。ガイラ家に鉱脈が見つかったことは周知の事実であり、急に決まったティアナとルイスの婚約は政略結婚であることは多くの人が知るところである。
だからこそ、ティアナは運でルイスを手に入れようとしていると、陰口をたたかれることも多い。
想い合う2人を引き離すのか。それは、学校での休み時間で、侍女たちと行く買い物先で、聞こえるように言われる言葉だった。
学校で言われるそれは、ティアナの友人であるジネットが聞きつけては、盛大に論破するので、ここ最近目立ったものはなくなってきている。
ハーフアップにした焦げ茶色の髪に、ティアナより低い身長のジネットは、かわいい見た目に反して、強気な性格なのだ、だからこそ、こうして陰口を言われるのは久しぶりだった。
ティアナ通っている学校は、伯爵家以上が通うものであるため、男爵令嬢であるマリアは通っていない。それ故に、ティアナは見たことがあるだけで、マリアと接触した機会はなかった。けれど、噂に聞くマリアは美しく、可憐で、心からルイスを愛しているらしい。
そんな恋人がいるのなら先に教えておいてくれればいいのに、とティアナは思う。それとも、自分より身分の低い彼女のことを知れば、ティアナが害をなすとでも思ったのだろうか。
「あの2人には身分差なんか乗り越えてほしかったのにね」
「本当だよね」
なるほど、多くの令嬢たちは、ルイスとマリアの2人を小説に出てくるヒーローとヒロインのように見ているのかもしれない、とティアナは思った。公爵家の長男が、平民から男爵家の令嬢となった美しい少女に恋をする。それは一つの物語として十分だろう。
けれど、そうしたら自分はよく小説に出てくる悪役令嬢なのだろうか。
好きな人と結ばれていい、はじめからからそう言っているのに、それでも悪になるのか。
「ティアナ様、買ってまいりました。…ティアナ様?」
「ありがとう、マヤ」
「どうかされました?」
「いいえ。なんでもないわ」
「ティアナ嬢!」
急に呼ばれた名前にティアナは振り返った。少しだけ低いその声は、最近聞き慣れたもの。
小走りで近づいてくるルイスの姿が見えた。視線を少し動かせば、陰口を叩いていた彼女たちもルイスに見とれている。
「待たせてごめん」
かすかに額に浮かぶ汗に、忙しい中、急いで来てくれたのだなと思った。ティアナは持っていたハンカチをルイスに渡す。
「本を選んでいましたから待っていませんわ。ルイス様、これで汗を拭いてください」
「え、汗?あ、本当だ。ありがとう。じゃあ、ありがたくお借りするよ」
ティアナから受け取ったハンカチで汗を拭きながら、ルイスは満面の笑みを浮かべた。そんな彼に周りから小さな黄色い悲鳴がこぼれ落ちる。
「あ、ティアナ嬢」
「え?」
ふいに伸ばされたルイスの手がティアナの頬に触れた。突然のことに心臓は大きく音を立てる。
「何を…」
「髪、食べちゃってたよ」
ルイスはそれだけ言って近づいた距離をすぐにもとの距離に戻した。
「……ありがとうございます」
「いえいえ。買い物は終わったかな?」
「ええ」
「じゃあさ、最近人気のカフェに行こうか。実は、知り合いがオーナーだから、席をとっておいてもらっているんだ」
かすかに触れたルイスの手の感覚がまだ残っている。けれどルイスは何事もなかったように話を進めた。
時々見せつけられる経験値の差にどんな感情を抱けばいいのか、ティアナにはわからなかった。