一、草原にて邂逅す
真っ青な空を見上げて、彼は枯れかけた草原に寝転んでいた。
「あー、腹へったな」
呟きは、かさかさという風と草の音にかきけされてどこにも届かない。
年の頃は十代後半。
黒髪は短く切られ、髭はまだ生えていない。
意思の強そうな黒い瞳は青い空と流れる雲を反射している。
やがて、寝飽きたのか、思ったより涼しくなったのか。
彼は上半身を起こした。
見渡す限りの草原に、遠くには雪をかぶった山々。
そして、自分。
ふっ、と風が吹いた。
彼にはその風が何かを囁いたように感じられた。
それは聴覚、ではなく嗅覚だ。
獣の臭い。
反射的に腰に手をやり、思っていた感触の無さに気付く。
そういえば、持っていた剣は失っていたのだった、と。
対処法が無いのを理解すると同時に膝をたてて、後方へ跳ねる。
その瞬間、さっきまで彼がいた場所に狼が襲いかかってきた。
獣臭さの正体は、こいつだったのだ。
狼の目は、苛立ちと共にこちらを捉えている。
前脚に力を蓄え、次の瞬間には跳ねてくるだろう。
そして、彼の足か腕を捕らえ、地面に引き倒し、首を食いちぎる。
面白くないな、と彼は思った。
こんな死にかたはまったく面白くない。
故郷を出て、草原をさすらったのは狼に襲われて死ぬためではない。
そりゃあ確かに突然の雷雨に巻き込まれて、濁流に足を取られ、剣も弓矢も流される途中で失くしたのはただの過失に過ぎない。
もしも、天意があるのなら、と彼は信じてもいない何かに心中で叫ぶ。
そして、口からも。
「俺を生かしてみせろ!」
とあふれでる。
ひゅん、と風を切る音がして、今にも跳躍しようとしていた狼の頭を貫いた。
ギャンッ!とだけ鳴いて、狼はどうっと倒れた。
あまりにも呆気ない襲撃者の最期に、彼はしばらく動けない。
「無手で草原をうろつくなんて信じられないな」
草原にふさわしくない若い女性の声が響いた。
彼は声の方を向く。
そこには青い胡服に、花柄の上着を着けた女性がいた。
手に持っているのは短弓だ。
おそらく、彼女が狼を射殺したのだ。
彼がここにいるのを察して、矢の軌道から外れるように射った。
かなりの腕前の射手、だということがわかる。
狼に気取られないように、風下を常に取ってきたのだろう。
かなり草原では目立つ服なのに、その技術は凄まじい。
「こんな草原で、可憐な花を見つけるとは思わなかった」
「射殺されたいのか?」
「しかも鋭利な刺を持っている」
彼の言葉に呆れたように彼女は首を振り、狼の亡骸に近づいた。
「漢人は口がうまいのだな」
彼女のその言い方には“卑怯な”という意味も含まれているようだ、と彼は気付いた。
「君は、その」
「私はティナ。零晶族のティナだ」
「羌族なのか?」
その名乗りと服装から、彼は記憶の中にある“異民族”の一つではないか、と思い聞いた。
その言い方に、ティナは少し気分を害したようだった。
「私たちはチャン族だ。羌、とは漢人の呼び方だ」
羌、という字はそのまま異民族という意味がある。
長城の外に住まう漢人ではない人々は、勝手に名付けられた自身への呼び名を忌み嫌っている、ということを漢人はよく知らないのだ。
彼自身は、漢の国の辺境で生まれ育ったが、やはりそういう漢人の常識にとらわれていることは間違いない。
「すまない。どうも俺は凝り固まったところがあるみたいだ」
「凝り固まった、という者が手ぶらで草原をうろつくのか?」
「いや、武器と荷物を落としてしまったものでな。ほら、何日か前に大雨があっただろう?」
「運の悪い男だ……いや、逆に運がいいのかもな」
「運がいい?」
「ああ、秋の雨が終わった草原で生き延びたんだ。きっと天がお前を見ていたんだ」
「天?」
「馴染みのない言葉か?そうだな、私たちチャン族はありとあらゆるモノに神を感じる。空に、風に、草に、そして太陽に。その加護があったからお前が生き延びた、と私は思った」
彼は最近流行りの道教のようなものか、と思ったがおそらく違うのだろうと感じた。
彼女の、チャン族の考え方はもっと地に根差したものだろうからだ。
もちろん、違和感は覚えた。
天、という言葉にだ。
たとえ辺境の生まれの彼でも、その言葉が皇帝と同義だ、ということを知っているためだ。
天を覆う徳が地に降りて人の形をとったのが皇帝であり、その徳により皇帝は中華の地を治める資格を得ている。
それが、漢人の考え方だ。
ならばチャン族の、ティナの考える天が間違っているのだろうか。
いや、それは同時に存在しうる。
中華の、長城の内では天とは皇帝のことであり。
その外では人を見守る天もあるのだ。
そんな風に彼は考えた。
「俺は天に生かされたか」
「ふふふ。ならばこの先のお前の運命は私が握っていることも理解しているかな?」
不敵に笑うティナに、彼は面食らう。
「俺をどうする気だ」
「働かざる者食うべからず、お前にも狩りを手伝ってもらう」
「聞いたことのない言葉だな」
「敦煌のさらに向こうにある大秦国の格言らしいぞ」
敦煌は漢帝国の最大版図における西の国境だ。
東西諸国の交易を繋いでいる。
その果てにある国の言葉などとは、彼には想像もつかない大きさを感じさせた。
「つまりは、俺はあんたの手伝いをして飯を食わせてもらうということか」
「そのとおり。もうすぐ私の姉の花夜があるからな。その宴に出す肉を揃えておきたい」
「ファイ……なんだって?」
「花夜。婚儀の夜のことだ。妻が初めて夫の天幕に入り、親族がそれを祝う宴が開かれる」
「なるほど、同じような儀式は俺の故郷にもある」
「ふうん。漢人の住む地か。どのようなところなんだ?」
彼は故郷のあるとおぼしき方を向いた。
「つまらぬ土地だ。四方を山に囲まれてな。息苦しいところだった」
「あまり良い心持ちではないのだな。四方を山に、か」
ティナも、それを思い描くように彼の向く方を見た。
「いや、故郷は故郷だ」
「なぜ、そこを出て、こんな“異民族”の土地にいる?ここは漢人の、長城の内の法など通じぬのだぞ」
「……さあな。俺にもわからぬ。ただ……」
「ただ?」
「俺の知らぬ天を見てみたかったのかもしれん」
「……変な奴」
ティナは狼の脳天に突きささった矢を引き抜いた。
そして、矢じりが欠けていないか、矢柄が歪んでいないか、確かめ先端を拭いて矢筒に戻した。
「狼も食べるのか?」
「あまり食べないな。どうしても食うものが無いときは食べるけれど」
「なんでだ?」
「狼は臭いからな。まあ、毛皮は使うが……これはダメだ」
「ダメ?なぜだ?」
「こいつは一匹狼だ。基本、狼は群れで行動する。そうしないのは、群れが全滅しても生き残った賢い老狼か」
「あるいは群れを全滅させた若い暴れ狼、か」
ティナは頷く。
「そういう若い一匹狼は、穢れている。悪い霊が憑いている、という者もいる。少なくとも私のいる一族ではその亡骸を何かに使うことはない」
「穢れ、か。俺の知らない言葉だな」
「ここらを歩くなら覚えておいた方がいいかもな」
彼はティナの顔をじっと見た。
「……」
「なんだ?」
「俺を君の部族のところに連れていってはくれないか」
「……なぜだ?」
「行く当てがない。それに、俺は君に命を救われた。恩返しをしたい」
「恩返しついでに飯を食わせてもらおうという算段か?」
「む」
たじろぐ彼を見て、ふふふ、とティナは笑った。
「いいさ。こんな今にも冬が来るところに放っておいたら寝覚めが悪い」
ついてこい、とティナは歩き出した。
「助かる」
「そう言えば、お前の名前を聞いてなかったな」
「俺の名か」
ほんのわずか、彼は口を閉じた。
何かをためらうように。
だが、それは一瞬だ。
「俺は……エイだ。隴西のエイ」
「隴西というのは涼州の郡の一つだな?それくらいは知っているぞ」
「そうだ。詳しいな」
「なら、シーエイとでも名乗ればいい」
「西のエイでシーエイか」
「本当の名前は名乗りたくないのだろ?」
名乗る時のためらいにティナは気付いていたようだった。
ともあれ、彼は漢人が羌と呼ぶ異民族の集落へ向かうことになったのだった。