真実の山を消せ 3
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「その絵を描いた頃、お前は白内障を患っていたの。
覚えていないのかもしれないけど。
だから見えなかった。白一色に雪化粧した山が。
当然ね。霞んだ視界で、視力そのものも衰えている。
その上に、雪が降ることもあったでしょうね。
描けるの? 実際に見ながら描くんでしょう?
雪まで降っているのなら視界は最悪。そして、当人は絶景に夢中。
もしかしたら、本当はわかっていたのかもしれないわ。
でも、無意識に拒否した。なぜか?
”山は邪魔だ”とでも思ったんじゃないかしら? 知らないわ。
その後、白内障に気づいて、手術を受けた。
だけど、傑作を描き上げた達成感のほうが大きくて、忘れてしまった。
そのぐらいに小さいことだったということね」
ノウコは言葉を切る。
『これで十分だろう』戸でも言いたげに。
ほとんど目は閉じ、さっきから妙な音が鳴り始めていた。
きしきしきしきし。
「……私は、私は見逃して、いたのか?」
「そうよ」
きしきし、きしきし。
「どうしたらいい? 私は……」
「知らないわ。知ったことじゃない」
きし、きし、きし、きし。
「もう一度、あの光景が見たい。山などない……この山荘が」
「わがまま、ね。…………練場に頼みなさい。どうにかするわ」
…………きし。
振り返った廉太郎が見たのは、黒の色素が抜けてしまったかのように白くなった、等身大の人形だった。
決して動くことのないはずの、人形だった。
呆然とする。
自分は白昼夢を見ていたのだろうか? あまりにも成果が得られなくて、妄想のようなことをしていたのだろうか?
そんなことを考える。
「ところがどっこい醤油ラーメン! ホントのことっ! ノウコちゃんは動かなくなっちまったけどっ! 俺はいる! 天才の名を欲しがらないままにする羽積科練場! 怪しい風体の男三年連続ナンバーワン! 当社比!」
「ああ……いたのか。そうか」
「なかなかひっどいお言葉っ!? まあいいけどっ!」
気分を害した様子もなく、練場は大笑いする。
まるで、廉太郎の反応などはどうでもいいとばかりに。
サングラスの奥の目が光る。
「ジイサン、もう一度その光景見せてやるよ。十五分後、外に集合な!」
「……なに? 待て、待ってくれ!」
「十五分でノウコちゃんをベッドに寝かせて準備してくるからよォ~! うっひゃっひゃひゃひゃひゃひゃ!」
奇妙な声とともに、ノウコを抱えた練場は走っていった。
十五分後――廉太郎は外に出ていた。
なぜいるのかは正直、自分でもよくわかっていない。
信じているのだろうか? あの怪しい男のことを。いや、喋る人形のことを?
人が聞いたら頭がおかしくなってしまったと思うかもしれない。
だが、藁にもすがる思いなのだ。
もう一度白内障を発症するまで生きて居られる保証はない。ならば、詐欺師の戯言であっても一縷の望みを託してみてもいいのではないだろうか。
半ばヤケなのだが、心境としては落ち着いたものだ。
「おーおーおーおー。ちゃんと待ってるじゃんよォ! 偉い! 待てるなんて! もっとも! 人間は生きてるだけで偉いんだけど! だから俺も偉いのっ! 一等賞!」
「…………」
「ノーリアクションっ!? 悲しいっ! でもやることはやっちまうっ! なぜならばっ! …………そーゆーのは俺の担当だからね」
空気が変わった。
練場が纏っていた軽薄そうな空気が、果たしあいに臨む武士のように。
肌が粟立つ。
目の前のサングラスの男が、いきなり得体のしれない怪物になってしまったかのように。
「緊張しなさんなよ。痛くはないさ。ちょいと視界を弄るだけだから」
「”弄る”? 何を、何をするつもりだっ!」
「あー……まあ、いいさ。寒いからとっととやろう」
「は、離せっ!」
頭を掴まれる。
とっさに抵抗するが、万力のような力で固定されており、老人の力ではとても脱出できそうにない。
「け、警察っ! 警察を呼んでくれっ!」
「来ない来ない。そんなものは来ない。だから大人しくしてなって。すぐ終わるから」
「やめろっ! やめてくれっ! お願いだ!」
「やめて、って言われてもねぇ……もう終わったし」
唐突に頭部が解放される。
あれほどの力で掴まれていたというのに、不思議と痛みは残っておらず、すぐに動けるようになった。
「なにをするんだ……! 今すぐに警察に突き出してやるッ!」
「え~? それはひどくね? せっかく願いを叶えてやったのによぉ~」
「あんなことを誰が頼んだ!?」
「ん~? あー、めんどくせ! ほら、見てみなって!」
練場が指示した方向に視線をやる。
そこには、雪化粧の山があった。
今はない。
うすぼんやりと白く霞む視界には、空白だけが映っている。
「何が……何が、起こった? やはり、山はなかったのか?」
「違う違う! 俺がジイサンの視界に細工したのっ! ちょいちょいっと! 魔術でっ! 滅多にやんないけどっ! 出血大サービス! もってけ雪景色!」
意味は分からなかった。
それでも、かつて自分が夢中になった光景が再び現れているのは事実だ。
自然と涙が出て、頬を伝う。
だが、泣くよりも先にやることはある。
この場所にやってきた目的を果たさなければ。
廉太郎は自室に向かう。
置いているのは絵の道具たち。今すぐに、この感動が少しでも色濃いうちに!
描かなければ! それが画家の人生なのだから!
「描きあがったら解除すっから~、そん時は声かけてねぇ☆ ……聞いてる? おーい? ジイサン? 耳まで遠いのぉ~~~~!?」
何か言っているが、そんなことは聞くまでもない。
廉太郎は、再び筆を執った。
その胸に燃える決意の炎に導かれるまま。




