真実の山を消せ 1
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沖月廉太郎は懐から一枚の写真を取り出すと、目の前に広がっている風景と比べる。
かつて、この場所で描いた一枚。多少の差異はあれども、同じ光景が広がっているはずなのだ。
だが、遠くに見える巨大な山が――描かれていないはずの山が、厳然とそびえたち、現実を主張していた。
沖月廉太郎は風景画を専門にしている画家だ。
彼には日本中を旅して、先々で絵を描いていた時期がある。
自分では傑作だと思っている作品はその時期に出来た。
年を取り、体の機能が低下したことを否応なしに自覚してくると、郷愁の念に近いモノが湧き上がってきた。それは故郷に対してのものではなく、かつて自分が全身全霊を注いで筆を執った各所であった。
ゆえに今さら一念発起し、彼はキャンバスの中に封じ込めた各所を見て回っていた。
その最後、自分でも傑作だと思っている雪景色の一枚。
白の中に揺れる人の明かり。孤独に佇む山荘。
再訪したとき、多少色あせていてもそのまま残っていたことに喜んだ。
イーゼルを置き、以前と同じようには無理だろうが、もう一度。
気づいたのは、その時だ。
絵の中に存在しない山が、存在していた。
「え? 山? ええ、ずっとありますよ? 何をおっしゃっているのか、よくわかりませんが」
「そう、か……いや、そうだろうな。馬鹿なことを聞いてしまって申し訳ない。この年になると記憶も定かではなくなるようだ」
山荘の主人は代替わりして、若い男になっていた。
だが、祖父から受け継いだらしく、なんども遊びに来ていたのだという。
妙な記憶違いをしている可能性は、自分よりも低い。
だが、絵はしっかりと実物を見ながら描くことにしている。
画家の中には、記憶にとどめた映像をそのまま描く人間もいるそうだが、沖月は実際に見たほうが、時間とともに変化していく様子を観察できるので好んだ。
ゆえに、記憶違いによって抜け落ちたということはない。
だというのに、
「なぜ、お前はそこにいる」
雪化粧をした山へと問いかける。
当然、返事はない。
三日ほど山荘に泊まり、その間周辺を歩き回ってみても、なんら事態は解決の兆しを示さなかった。
当然だろう。いきなり山が消えてなくなることなどあってたまるか。いや、自分はそれを多少なりとも期待しているのだ。それを見誤ってはならない。
「おかえりなさい。どうですか? 思い出の場所は見つかりましたか?」
「いや……もしかしたらここではなかったのかもしれない。年を取ると、昔のことを美化してばかりいるから……」
「そうですか……でも、ここもいいところでしょう? もっと雪が深まってくると、それはそれはきれいになってきますよ! 雪化粧したあの山なんかは特に!」
「それは、見てみたいものだ」
嘘だ。
自分はすでに、あの山に憎しみに近い感情さえも抱いている。
あれさえなければ、感傷に浸りながら余生を送る決心が出来たことだろう。
すでに何年も筆を取っていない自分が、画家としての人生にやっと見切りをつけることができるようになるかもしれない。そんなことを考えていた。
なのに、それはもはや叶わぬ夢だ。
あと何年生きられるのかわからない人生の中で、持ち続けなければならないなどど、拷問にも近いだろう。いっそのこと、完全に忘れ去りたかった。
「それは……できない」
自分の返答は当然だ。
画家としての矜持がある。
一番気に入っている作品を忘れるなどということは、半身を捥がれることに等しい。そんなことになってしまうのならば、いっそのこと……。
視線はナイフに注がれる。
ナイフとは言っても、油絵用のナイフだ。殺傷能力は低い。
とはいっても形状は鋭いのだから、急所に刺されば致命傷になりえるかもしれない。
頭を振って馬鹿な考えを追いだす。
死んでどうする? それで何が得られるというのだろうか? そんなものはない。
気分を換えよう。美味いコーヒーでも飲んだら、少しは前向きな考えも浮かんでくるかもしれない。
半ばそれは手持無沙汰になってしまった暇つぶしに近いものだったが、小腹が空いていたのも事実だ。
軽食でも取ろうと、食堂に向かう。
まだシーズンではない山荘に泊まっているのは、廉太郎と他には若い男が一人。
そのはずだった。
「一回でいいからノウコちゃんもスキーやってみねぇ? すっげー楽しいからっ! めちゃくちゃに! 直下降とかスカイダイビングよりもこえーって! マジマジ! マジパンよりも必要だって!」
「だったら先に用意するものがあるでしょう? 持ってきてから言いなさい、愚図」
「用意するもの? 俺の愛とか? ぎゃはははははっ! 照れちゃうなァ! いきなり愛の告白とかっ! 受け入れちゃうぜ、プロポーズ!」
「役に立たない耳は引き千切ったほうがいいわ。このフォークでやってあげる」
「ピアス穴開けちまうかぁっ! 新しく!」
やけに騒々しい男女が一席を有していた。
男のほうは見かけた人物に違いない。
派手な金髪に、室内だというのにサングラス。そして、趣味の悪い原色のシャツ。
おそらくは、まっとうな職業には就いていまい。
落ち着いた山荘の雰囲気からは異常に浮いていた。
そして女のほう――いや、少女のほうは男とは違う意味で目立つ。
病的なほどに白い肌に、長く伸ばして背中に流した黒髪。
その目つきはまるで氷で作った刃物の様に鋭い。
そして、身にまとっているのは漆黒のドレス。
近世ヨーロッパの宮殿にでもいるのならばともかく、宿泊施設にはふさわしくない。
控えめに言って、関わり合いになりたくない二人だ。
多少の喧騒は仕方ないと思い、廉太郎は席に着き、主人を呼ぼうとして違和感を覚えた。
そうだ、いつもこの時間は夕食の準備をしている主人がいない。
まさか! この二人が!?
とっさに席を立とうとするが、足に力が入らない。
「待ってたぜジイサン! アンタを待ってた! 今日の主役! いよっ! 日本一! 大将! 偉い人! 偉人サマ!」
大声を上げながら男が近づいていく。
わきに抱えているのは少女――その体には足がない。
「よっこいしょうっ! 俺は羽積科練場! さすらいのナイスガイで色男さっ! こっちはノウコちゃん! キュートな毒舌謎解き人形! 見た目はいいだろ? 中身は最悪だからギャップで風邪ひいたらダメだぜ?」
「よく回る舌ね。火力発電にでも組み込んだら都合がよさそうね」
「バーベキューになっちまう!」
「なりなさい。全身が」
廉太郎の対面には少女、いや、男の言葉を信じるのならば人形が。
たしかに、有している美しさは人外の領域。しかし、人形が動いてシャベルなどということは――。
「うだうだ煩悶してないで、とっとと謎を提出しなさい。そのためにわざわざこんなド田舎にまでやってきたの。その労力に見合った謎を」
極寒の吹雪のような冷たさで人形――ノウコは呟く。
その眼は廉太郎を見ておらず、練場が運んできたコーヒーにだけ注がれている。
闇を封じ込めたかのような、黒瞳が廉太郎の視線とかち合った。
「老い先短いのだからさっさとしなさい。解いてやるわ、お前の抱える謎。そのためにわたしは存在しているの。だから、早くしなさい」
とても人にモノを頼む態度ではないが、廉太郎にはどうでもよかった。
あの山を消してくれるのならば。




