けんかをやめた
……鬼のような特訓を始めようと思い立っていた。
俺は、とりあえず、朝四時に意識で呼びかけてアリエスを叩き起こし、無理矢理にでも走らせようと誘った。目がバッテンになったまま、寝ぼけているアリエスが、一応着替えて、俺はそれについていく事にした。なんだかんだと、朝早く起きたところで、家事の当番やら準備支度やらで時間がかかってしまった。
アリエスは、一応、「じゃあまあやりましょうか……」と乗り気ではないにせよ、拒絶もせずについてきれくれてはいた。
……しかし、ようやくランニングコースを自力で行こうとしていたアリエスの前に、見覚えのある奴が立ち構えていた。
「――あっ! アリエス姫様!」
「げっ!」
この時、俺ではなく、あの物腰丁寧なアリエスが「げっ!」と言ったのを、俺は確かに聞いてしまった。ああ、聞いてしまった。
しかし、もう、アリエスの身体に憑依して一ヶ月近く。とっくに、俺はこのアリエスが、お腹を鳴らす音も何度も聞いてしまっているし、いびきだって聞いている。最近は、もう気を抜いて部屋で平然とあぐらを組み始めたし、(何をしたいのかわからないが)俺がいるというだけでイライラしている時もある。
同じ身体での共同生活だ。たまに出てくるそういう側面を、知ってしまうのも仕方ない。だからこそ、俺は女の身体に入っていいのかわからなかったが、続いていくうちに慣れてもくるだろうと思うしかなかった。
まあ、そんな夫婦のような話をしても仕方ないので、ここで話に戻る。
(――姫さん、どうするよ)
どうするよ、としか言いようがないのは、これはもう仕方のない事だろう。
何しろ、目の前にいるのは――あのエリサを誘拐した、あの小太りの鎖鎌男だったからだ。ここで会ったが百年目だ。何せ、あまりにも危険な相手すぎる。
俺は、こいつがもし復讐に来たのなら、アリエスから肉体の主導権を借りて、すぐに殴り返すしかないと思っていた。――しかし、どうやら、今回はそんな罪深い事はせずに済むらしい。
見ていたら、目の前で、この男は、土下座を始めたのだ。
「アリエス姫、すみませんでした!!」
土下座。
それは、謝罪や懇願の時に使う、日本の民の限定技だ。しかし、この世界は、大和心――あるいは千葉心を知っているのか、言葉も文字も日本語で、「パンザマスト」とかいう地方の方言すらも存在している。下手すると菜の花体操を踊れるかもしれない。そこに、土下座があったとしてもおかしくはない。
とにかく、鎖鎌男は、少々だけ頭を上げ、上目遣いにこちらを見つめた。その瞳には、かつてと違い、曇りが消えて、うるうるとした潤いがあった。少なくとも俺には本気のように見えるが、アリエスは当惑していた。
「ど、どうしたんですか……一体」
「思い返せば、オイラは、あの時、自分の事ばかり考えていた……! あの後、あんたのパンチを受けて、イライラしながら町を歩いていたんだ……“なんでオイラは悪くねえのに殴られなきゃなんねえんだよ”と思った、“そもそも理論の上では俺負けてないし間違ってもないだろう”とも考えた……が、頭の中で色々思考を掘り下げ続けるうちに、真理にたどり着いたんだ! ……“いや、あれはどう見たって明らかにオイラが悪い”と!!」
「よ、よかったですね……それに気づく事ができて……さあ、それでは、もう一度、楽しい旅に出てください」
「――いや、わかったんだ! 今のオイラに旅をする資格はねえ! オイラはその後、近くの交番に自首したが、そもそも被害届も何も出てないせいで、捕まらなかった! ならばと、あんたを捜してみたら、あんたがスウィート・ピィの姫様だと知る事になった! だから、あの時の非礼は詫びる! 本当に間違っていたのはオイラなんだ! あの時の罪滅ぼしの為に、姫様の下で償いをしてえんだ! この通り……この通りだ!!」
ぺこぺこと頭を下げていた。やはり、誠意を込めた言葉に聞こえた。
なるほど、純粋ゆえ、一度悪に染まりながら、そこが改まると誠意も持つ……か。
しかし、一体、こいつはこんな年齢になるまで、それに気づかないような教育を受けてきたのだろうか。……まあ、何であれ、自分を改められる事は、立派な事この上ない。人はいつでもやり直す機会がある。俺だって、潔白とは言えない。これから何か改めていく事があるかもしれない。彼の想いが本心であるのなら、許すのもまた人情だろう。
(姫さん、この頭の下げっぷりは、なかなかできる事じゃねえ。そもそも、俺はあん時鉄拳の恐怖で押さえつけた。それを、また殴られたっておかしくねえのに、こんなところまであんたを捜しに来て、ここまでやってのけるなんて……)
(だけど……)
(――勿論、それはそれとして、全てを決定するのはエリサだ。誘拐騒動の被害者はエリサ、こいつに誰より恐怖しているのも、そりゃあ勿論あの子だ。……何より、あのエリサが許したとして、こいつは信用を失っている。気になりゃ、その分だけ監視をつけりゃあいい)
ちなみに、俺は、もう意識の中でもエリサを呼び捨てにするようになっていた。
アリエスとして彼女を連れ遊んでは花飾りを作ったり、絵を描いていくうちにエリサの漫画の才能に気づいたり、お芝居の真似を見せられたりで、やはり身近な存在になっていったのだ。
というか、正直、可愛くなってきた。まだまだ幼いエリサは、かつて、俺が会った頃のとし子に近い。俺はそう感じていた。
――で、俺はこの男を連れて、すぐにエリサに会いに行った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
エリサを城のエントランスに呼んで、事情を説明した。
「えー……嫌です」
「ダメだそうだ」
エリサの答えはあっさりだった。残念だが、ダメだ。
この場において、エリサの答えが絶対になる。可哀想だが、彼は旅に帰そう。第一志望のスウィート・ピィがダメでも、第二志望の旅の道に行けば良い。そこでわかるもんもある。人生とはそんなもんさ。
「そんな、この通りだ!」
が、また、男はその場で土下座した。
これだけ何度も下げられると、随分と安い土下座に感じてしまうが、当人に下心はないのはわかっている。……そもそも、こいつは良くも悪くも、一貫して悪気はない。が、残念ながら常識もない。
だから、怖いのだ。まだ悪意のある奴の方が、善悪の区別がつく。こいつの価値観で、俺たちには信じられないようなとんでもない事をやらかすかもしれないという警戒があるから、安易に仲間にできないのだ。まして、直接の被害者が許さないというなら……。
「まあ、許してくれないなら、仕方ないかもしれない……エリサちゃんに怖い思いをさせちまったのは確かだ……オイラも去るよ……悲しい一人旅に戻りながらなぁ……」
どうやら、折れたようだった。
しかし、しばらくの鎖鎌男のこんな様子を見ていると、エリサも思うところがあったのか、
「まあ、仕方ねえです。エリサも、この任侠の鑑のような姉君の血を分けた姉妹。人を許す度量は負けねえです」
と、両手を腰に当てて、言った。それは、姉というよりは、姉の中に勝手に住んでいる俺の影響なんじゃないかと思ってしまうが……まあいいか。
どうやら、正気で許しているらしい。アリエスが確認をとるが、ちゃんとエリサは頷いた。その瞳を見ると、確かに許容の意思があった。
この誘拐犯は、それを聞いて、顔を上げてしばらく固まっていた。
「――あ、あ、あ……」
「…………」
「……ありがてえっ! 自分を誘拐したオイラを許すなんてなかなかできねえよっ! あんたは女神だっ!」
女神はもっと、顔が白塗りで和風な感じだって知っている。……しかし、まあいい。俺にとっても、エリサは民を癒す小さな天使みたいなもんだ。
で、この元誘拐犯は、このエリサの許しによって、今日より正式に俺たちスウィート・ピィの難民の仲間になるわけだ。アリエスの口から、溜息が漏れたが、すぐに言った。
「わかりました……今日より、小太りの誘拐犯さんを、スウィート・ピィの仲間に引き入れます」
「あ、オイラの名前は、ゴンゾウだ! 覚えてくれっ!」
「ゴンゾウさん、ですね……。まあ、住むところは、色々ですけど、ホラーハウスなんか寝心地いいみたいですよ」
これは、アリエスの嘘だ。間違いない。
ホラーハウスのアトラクションで寝られる人間なんかいるだろうか。俺は寝られない。というか、入りたくない。いや、お化けが怖いわけではない。いや、やっぱり怖い。男として、己の弱さを隠す為に嘘をつくのは良くないので言っておこう。俺は、お化けが少し苦手だ。……しかし、考えてみれば、俺自身が、まさしくゴーストだ。
などと、自分の中で言い訳を作り出し、それを男の意思と真実で上書きしていたところ、今度は、洗濯物を干しに行っていたセラフが、ばたばたとやって来た。
「――姉様、大変大変っ! 敵襲よっ!! なんか、眼鏡の男をリーダーにした、変な団が来るわっ!!」
「えっ!? 敵襲!? そんな……またここに来るなんて!」
いや、場所が割れているのに来なかったのが奇跡だろう……と、少々思ってしまう。
とにかく、俺はアリエスとして、軍門の方に向かう事にした。
敵襲となれば、ほぼ間違いなく俺の出番だ。姫様のトレーニングこそ出来なかったが、それでも、同じ身体の中で俺が戦うのを見れば、アリエスにとっても色んな経験になるはずだろう。今日は予定変更して、実戦トレーニングだ。
さあ行くぞ、と思っていたところ、
「――えっと、その人はっ!?」
と、セラフが言う。だが、今はそんな場合じゃない。
「そんなの、後で説明するわ!」
「お、オイラも行くぜっ! きっと、ちょっとくらい戦力にはなれるはずだ!」
ゴンゾウが言う。……まあ、これは普通にありがたい。
鎖鎌が使えるこいつが、味方としてついて来てくれるなら、ただでさえ足りない戦力の足しにはなるだろう……。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆