MUO・ん・・・色っぽい
一日に二度も戦いのあった、初日が終わっていった。
俺は、またも心の目を瞑っている。
――何故目を瞑っているのかと言われれば、無論、目の前に、彼女らの裸身がある故だ。
難民キャンプでは、このレジャーランド内にある大き目の天然温泉にて、男女分かれ、同じ家(家族のない独り身の場合はそういう人間だけで集まる)ごとに風呂に入る習わしがあるらしい。
すなわち、いま、ここにはアリエスのほか、妹であるセラフやエリサまでもがいた。
「……姉上! 今日は、あてえの為に、本当にありがとうごぜえました!」
聞こえるのは、はしゃぐようなエリサの高い声であった。
エリサ……なんで王家なのにこんな口調なのかはわからない。が、別に口調なんてものは人それぞれ。己に最も合う言葉を使うのが良い。勿論、人には最低限果たすべき礼儀はあるが、この子の口調は別段、その意味で引っかかるものじゃない。
横からセラフが言った。
「というか、姉様、一体、どうしたの? やっぱり変だわ。なんで突然、あんな強くなったのよ……」
「それは、まあ……色々と事情があってね……」
「うーん、まあいいわ。姉様が強いなら強いで、困らないし、別に理由なんてなくてもいいわけだし。――それより、問題はその誘拐犯の男ねっ! もし会ったら絶対ただじゃ置かないっ! こんなに可愛いエリサを誘拐して、挙句、姉様に手を出そうだなんて……!」
「て、手を出そうなんて事には、別に……」
「いや、絶対、そういうの考えてたねっ! 倒した後は絶対! 男なんて、すべてゲニャポレヘチャラピョォゥェだから!」
セラフの言う“ゲニャポレヘチャラピョォゥェ”とは何か一瞬わからなかったが、文脈で、俺の世界における「男はみんな狼」という言葉と似た物を感じたので、きっとそうした獰猛なイメージのある生物なのだろう。……しかし、もう名前がわからん。
セラフはそのままの調子で、アリエスに接近して続けた。
「しかも、姉様の胸は、脱いだら、こんなに大きいうえ、××が××で、××が××の××だし……!!」
「こ、こら、セラフ……触ってもいいけど、具体的に色や形を口に出して言わないで……!! 聞かれるから……!!」
「? あたしたち以外誰もいないのに……ほら、こっちは××の××が××で……」
「や、やめてってば!」
な、なんか音声が聞こえてしまったが……。更に加えて、この接近具合によって、おそらく、セラフがアリエスの胸を鷲掴みのようにしてからかう性格で、今まさしくそれを実行しているところまで想像が及んだ。
だ、だが、しかし……こうして聞いてしまった事を即座に忘れてやるのもまた、一つの漢道。聞いてしまった事は仕方がないが、幸いにも馬鹿にも出来ているこの頭だ。歴史の年号のように頭から抜いてしまえばいい。
(あ、あの、伊神番長。今聞いた事は……)
(俺は何も聞いちゃいねえ。去年、とし子が入っていると気付かずに風呂に入った時だって、ちゃんと見た物すべての記憶を消去しているからな……)
(はぁ……人間の頭はそう都合よく出来てはいないと思いますが。――あっ、なんだかんだとセラフが出ます。いま、エリサと二人だけになるので、別に目を開けてもいいですよ。この露天風呂から見える景色は、凄く綺麗ですから……)
ん。アリエスはそう言った。
しかし、俺はそうだとしても、別に心の瞳を開けはしなかった。
(――いや。良い景色が見てえのは山々だが、エリサちゃんがいるなら、俺は目を開けはしねえ)
(たかだか八歳の子供じゃないですか……)
(子供なら良いなんていう感覚が通じ続ける世の中じゃねえんだ……。いや、時に、子供の無垢を狙う大人はいる。たとえ、俺がそうでないとしても、その存在は、子供にとって恐怖とトラウマを与えちまう。そういうわけさ……)
(――はぁ)
何故か、アリエスに引かれているようにさえ思った。……まあ、仕方ない。考えすぎる男は、いつの世も女に引かれるもの。それでも芯を持って考える者だけが、本当の意味で男を名乗れるもの。
……というか、第一、エリサ抜きに考えたとして、アリエスは裸のまま景色を見るつもりなのだろうか。それはそれで、いかに自分の裸が視界に入らないように見せたとしても、凄く居心地の悪い気分になりそうだが。
考えていたら、アリエスが突然、意識の中の声を小さくしてもじもじし始めた。
(あ、あの……一つだけ良いですか? 伊神番長)
(何だい、姫さん)
(今から訊くのは、とても重要な事なんですが……あの、目は閉じられても、音は聞こえるんですよね?)
(ああ、聞こえる)
俺は、目は閉じる事が出来る。しかし、音は消せない。それは、手を使わずに耳を塞ぐ事ができないのと同じだ。
ゴーストとして彼女に憑依し続けている限り、彼女の聞いている音や声はすべて、俺の耳に入る。
(そうなると……私、トイレは一体どうしたら……)
(…………)
考えていなかった。
(……どうする)
(どうしましょう……)
(野暮だとしても確認の為に訊きたい……もしかして、今か?)
(……今です)
(今か……まずいな……)
(……ちなみにですが、お風呂でするつもりはありませんし――これ、今は違うんですけど、たとえば、お風呂で出来るものと出来ないものが……)
(言うな。言わなくて良い。いや、女の口から言わせてしまってすまねえ……。もし、まずいなら、今すぐ、行け。……俺は今から心頭滅却を編み出し、それを行使する――俺の意識の中ですべての音を消してみせる)
俺は、なるべく、音を消そうとしたが、簡単には消えなかった。
そう、ゴーストの意識というのは、目を瞑るか、アリエスの肉体を借りるかしかできない使い勝手の悪さだ。
もしかすると、眠ったような気持ちになれば、聞かずにいられるのかもしれないが、残念ながら、それもすぐにはできそうにない。――一体、どうすればいいのだろう、と思っていると、「じゃあ、ちょっと一回だけ出るわね」「わかりましたです」という声が聞こえた。お湯からあがるザパァッという音。それから、足音がゆっくり聞こえて……いま、扉を開ける音まで至った。
ああ、まずい。早く、俺の中から音を消してやらなければ……。でないと、この乙女が最も恥じらうべき音が……。
そうこうしているうちに、ふと、何かが消えた――――。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
……気づけば、俺は、女神の居るお座敷に来ていた。
「――――お兄いさん、お疲れ様で御座います」
ああ、これは、俺が死んだ時に来たあの場所だ。その部屋とセットになって、女神も相変わらずの花魁衣装で目の前にいる。女神は、こちらを見て、優しく微笑んでいた。
「め、女神さん……」
「お兄いさんがどうやら、アリエス姫を配慮しなさったようなので、私の力で少々、一時的にこちらへ意識を移させて頂きました」
「助かった」
女神ってのは、なんでもできるものなんだな……。
そう思いつつ、俺は、女神と対峙する。別に用があって来たわけではなく、逃げ場としてここに来た形になるが、女神は、また、にこにことこちらを見ていた。
「お兄さん。半日、見させて頂きました。確かにご活躍されているようで」
「……この役目が俺で良いかはわからねえがな。ぶち当たった問題はなんとか片付いてきたぜ……」
アクィナとの戦いと全く無関係な誘拐事件が起こるとは思わなかったが、まあいい。
本旨とは関係ない事件であっても、俺は目の前で起きた許しがたい出来事は解決する。だいたい、目の前で起きている事を見過ごせるような性格なら、元々死んでいないだろうし、そもそもこれはアリエスの人生に直接かかわるような事だ。
……っと、俺も、そういえば、女神に訊いておきたい事があった。
「それよか、女神さん。貴女は、とし子のお守りのお陰で俺に気づいたのか?」
そう。俺は、とし子から貰ったお守りを見ていた。あれは、まさしく、いま、目の前の女神の着ている衣装の柄と全く同一である。あの神社の神なのだろうか。
「ええ。埼玉県・娑婆之目市に位置しています、仁尽神社のお守りがきっかけです。あたしもあそこに祀られています。――そして、あの時、とし子さんがただの一人の兄へ向けた、肉親の情愛に勝る覇気の如し想い……それを感じた私は、お兄いさんを見つけ、以後、天界より定期的に観察させて頂きました」
「なるほど……あんた埼玉県民だったのか……」
真相は明かされた。
そうなれば、少々、これまでの色々についても、事情が違って来る。とし子のお守りが強い意味を成していた事、そして、この女神が俺を本気で殴り倒した事。
「――と、アリエス姫が花を摘む時間は終えたようですので、お帰り頂きますようお願い致します」
「ああ、わかった」
俺はそれだけ女神に訊ければもうよかった。
それを知った俺は、あとは再び、イセ界のあるべき意識のもとに戻る。
それから、俺は、アリエスに、露天風呂から見える景色を、ようやく見せてもらった。果てしなく続く森や、点々と見える灯りのついた町たち、そして――それに負けん勢いで光り輝く星空。
いつまでもいたいくらいに美しかったが、俺はいつか、この世界に別れを告げないとならないと思い、景色の尊さを胸にしまった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆