目を開けておいでよ
…………そう。
俺は、その日からこの異世界で戦う事になった。
最初の戦いを終え、とりあえず休憩だ。
この“スウィート・ピィ”難民が住んでいる集落は、元々廃業したレジャーランドだった。この世界にも、そういう施設があったらしい。変な生物が馬代わりのメリーゴーランドや、あまり俺の世界と変わらないライブステージ、本物の魔法で動いていたらしいホラーハウスが形だけ残っている。そこが彼女たちの逃げのびた場所だったのだ。そのため、先ほどの軍門は、実質ただの入場門である。
アリエス、セラフ、エリサの三名は、なんでもアトラクションのお城――“ウォダギリ城”で暮らしている。こうしてアトラクションの城まであるなんて、さながら、千葉県のようだと思う。
さっき、彼女の妹二名はそれぞれ出かけていったので、いま、ウォダギリ城にはアリエスだけがいた。
アリエスは言う。
「――我々の住むイセ界へようこそ来てくれました、伊神番長」
(イセ界……?)
「ええ。ここは“イセ界”という名前の世界なんですよ。つまり、“イセ”という世界でイセ界。異世界から来た人にはわかりづらいかもしれませんが。……まあ、何しろ、イセ界にはこれまで、異世界から来た人間がいなかったものですから、イセ界は異世界の人に説明しやすい名前にならなかったんでしょうね」
申し訳ないんだが、俺からするとせめて文字や音で差別化してくれないと何を言っているんだかさっぱりわからない。まあ、イセ界という名前の世界なのはわかったが。
彼女は続ける。
「――勿論、そのイセ界の中にも大陸や国が色々あって、そこにはまた“ア界”や“イ界”など、一文字+界といった形の様々な大陸が存在します。我々の住むイセ界の国は、“ア界=スウィート・ピィ”と云いました……」
なるほど。これは何となくだが、元の世界でも聞いた事のあるような名前で覚えやすい。
ここがどういう場所なのかについては、これ以上詳しく話されても、地理のテストが二度赤点だった俺の頭ではわからないだろうから、ひとまずは、それだけざっくりと聞いて満足した。
(ありがとう、あんたの説明でだいたいわかった)
「いえ、どういたしまして。これから訊きたい事や言いたい事があったなら、なんでも伝えてください」
……と、アリエスは言う。
言いたい事、か……。ならば、早速だが、一つある。
(……そうだな。じゃあ、その敬語、もうやめてくれねえかな。俺ら、タメだろう? タメから敬語を使われるのはどうも偉く思われてるみてえで、後ろめたいんだ)
「はぁ、“タメ”とは」
(俺たち千葉の民のことばで、“同年代”の事だ。アリエスは十七歳、そして、俺も同じく十七歳だった。なら、俺たちには、上と下はねえ。敬語を使われるのは、どうも俺の性に合わねえんだ。俺が上ならまだともかく、同じ年月の経験を積んで生きてきた同士じゃねえか)
「え、ええ……なるほど。しかし、私も流石に十三、四を超えたあたりから、たとえ同じ年頃であっても初対面に敬語を使うのは、当たり前の常識だと思っていましたし……」
なぬ。俺がタメ口で現れてしまったのを踏まえると、聞き捨てならない言い方だが、まあそれについてはこちらも悪い。というよりか、考え直すと、こちらが悪い。
そうだ。確かに、冷静に考えると、いきなりのタメ口ほどなれなれしい事はないかもしれない。心に戒めておこう。
「それに、それだけじゃありません。私の敬語は、心よりの尊敬の意。……あなたは、私の英雄です。……あの絶体絶命の状況下、あなたがいなければどうなっていたかわかりません。肉体がないあなたに贈り物を贈れないのが残念なほどです」
(贈り物? ……いやあ、そんなもん気持ちだけでいいさ。それに、俺は姫さんを勝手に借りちまってたんだ。そんな男に礼をやるほどの義理はねえだろう)
「そうでしょうか……」
(ああ、まあ……気持ちを込めて何かをくれるっていうなら、勿論受け取るがな)
「…………」
これ以上、何かを贈る贈らないの話題を掘り下げて、本当に何か贈る事になるのが嫌だったのが、何となくその時の空気でわかった。
アリエスは、その後、すぐに話題を逸らした。
「……はぁ。それにしても、お父様もあんまりだわ……いくら何でも酷い嘘をつくなんて」
(嘘?)
俺は、訊いた。
「ええ、敬語の話はともかくとして、実は、私が戦っている事情は、かくかくしかじかなんです」
アリエスは、一連の父の難点による被害について言う。
アリエスは、戦の場ではサーベルや防具など一通りの装備をしてはいたが、戦士というわけではないらしいのだ。それどころか、戦闘訓練もまるで受けていない。
なるほど、面子の為にアリエスが剣の修行をしている事にして話してしまって、その皺寄せが彼女に来てしまっているらしいと、俺はこの時ようやく知った。
……しかし、それは随分と酷い話だ。いざこうして戦いになった時、彼女はその信頼を背にしながらも、実際にはまるで戦いを知らないと来ていたのである。それは、相当、心細かっただろう。彼女の父の放任主義まではまだともかく、人に嘘をついてはいけないし、それを貫いて我が子を苦境に追いやっては尚いけない。
……まあ、その父親も今は氷漬けにされちまっているらしいので、そんな人間をあんまり批判するのも何だが。
「優しくも、酷い父です」
(まあ、優しさとは、難しいもの。時に何を指せばいいのか判じ難いものだからな……あんたの父も大変だったんだろうが、甘やかしてあんたがもっと大変な目に遭ったら世話がねえ)
「ところで、伊神番長にはお父様は?」
(健在だ。ここではない世界だがな)
「伊神番長のお父様は、どんな方でした?」
(ぱっと見は、普通の親父だな……)
どんな方、と言われると少々困った。俺の親父は、彼女の父と違い、王様ではない。
俺の親父・伊神勝利は、心の中に鉄の意志と熱血を灯していてハートがタフである以外は、どこにでもいるごく普通のサラリーマンである。眼鏡をかけて背広を着て、朝八時より前には家を出て、夜は九時ごろに帰ってくる営業職。体躯は中肉中背、趣味は釣りやアウトドア。素行不良の経験、生涯通して特になし。部活動経験は卓球のみ。資格は普通自動車免許だけ。俺とは正反対の生真面目な現代人の男だ。
……しかし、俺にも、そんな親父に関しては少々思い出がある。
(だけど、アリエス。かつて、俺の親父は、一度、とても大事な事を教えてくれた話がある)
ここに来て、俺は親父との、かつての日常の一ページを思い出した。強いて、親父の話を告げるとすれば、その時の事くらいしかないのだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
……あれは、俺が十一歳の時の事だ。
ある日、親父に連れられ釣りに出かけようとしたところ、動物園の虎が脱走して俺たちの住んでいる鉄野井市に紛れ込み、新鮮な血肉を求め彷徨ってしまい、民衆がパニックに陥っているといった事態に遭遇した事があった。
あわや、その人界に解き放たれた虎が、小学校低学年ほどの女児を餌食としてしまおうかという緊迫した瞬間――その周囲で構えられた警官隊や漁師たちの無数の銃。
その衝撃的な光景に、俺は、悩んだ。
虎と、少女と、どちらも可哀想である。人によって檻に閉じ込められてきた見世物の虎が、いま野生に帰ろうかと悩んでいるだけなのだ。助けてやりたい。しかし、あれを放っておけば少女は死んでしまう。
「くそぉっ! どうすりゃいい! 俺は、この拳で、どっちを助ければいいんだ!!」
「――悩んでいるのか、敏也。なら、よく見ておけ」
普段は普通のサラリーマンに過ぎない親父は、そう言うと、銃口を向けられた虎の前に敢然と歩いて行ったのである。
退きなさいという警官たちの制止もきかず、親父はゆっくりと虎の前に出て行った。それによって、彼らはすぐに発砲する事は出来なかった。
虎は、突如として参戦したこの男に視線を集中させ、にじり出るように、一歩出た。親父を自分より弱い生き物と判じたのは、虎の目を見れば明らかだ。
親父はそれに気づきながらも、まるで怯えていなかった。そして、その時、俺は、初めて親父の背中に圧倒される事になった。――親父は、無数のギャラリーを無視して、俺だけに叫んだのだ。
「――いいか、敏也……。本当に強い者はな、戦わないんだ! もし、その拳を使うとなった時、そして他者に戦いを挑む時、心の中で弱い自分を詫びるのだ! すべての男にはきっと等しく、戦わねばならぬ時、誰かを否定しなければならぬ時、人を殴らなければならない時が来るものだが――己が真に強ければ、その時など来ないで済むものと心に刻め!! 戦う限り、自分は常に未熟、それを意識しろ!!」
「親父!! バカな真似はよすんだ!!」
親父に向かって、虎がとびかかってくるまで、二秒とかからなかった。
それは、肉親が虎に食われる瞬間を目の当たりにする恐るべき瞬間と思い、流石の俺も目を覆ってしまった。
――だが。
親父の悲鳴は、聞こえなかった。俺は、恐れながらも、ゆっくりと目を開けた。
そこには、確かに虎に左手を噛まれていながら、にこやかに笑っている親父の姿があった。
「親父!?」
「見ろ、この虎を!! 俺が左手を差し出し、虎はそれを噛んだ。しかし、俺は怯まない……!! そして、右手でいま、こうしてこの虎を撫でる!! この時、この虎は安心しているのだ!! 俺が敵ではないと知ったのだ!! この虎も本当の強さを知ったのだ!! ……怖かっただろう、寂しかっただろう……動物園に帰ろうな……よしよし……」
「はっ! そういう事か――!!」
俺は親父の言っている言葉の意味を、その時に理解した。
戦いは最後の手段。まずは、相手を理解し、相手に愛を持ち、相手を尊敬する事――そして、最も理想の形は和解である。
そこに至らない出来ない理由は様々あるが、真の漢は己の言い訳を相手に押し付けない。そう、「自分がその理想を達せないほど力不足なのだ」と己を戒めるのである。
親父は、この時、ここにいる誰よりも強かったがゆえ、虎の気持ちを察し、信じ、勇気を持って、虎の心とぶつかった。
俺は思い知った。真っ当なサラリーマンとして生きた父は、まさしく真の強さを内に秘めた一人の男に違いなかったのだと……。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
(――その時、俺は気づかされたよ。俺は、弱いからこそ拳を振るうのだと。許しがてえ者、道理に合わねえ者、悪徳を貪る者……ああ、この世には、確かに倒さねばならねえ、殴らねえとならねえ奴が山ほどいる。しかし、その時であっても、やっぱり暴力は、結局は己が弱い証拠だ。今はそれしかないとしても、己の無力を痛感しながら、戦うのが男の義務だ。……ちなみに、そんな親父がこれまで俺を殴ったのは、十四歳の時に出来心でマンションのベランダからバンジージャンプをしてみた一回だけだった……俺は納得している……)
「凄まじいお父上を持っているのですね……凄まじいとしか言いようがないわ……」
(ああ。そして、その時、親父も泣いていたよ。己を戒めながら……。もっと良い解決策がどこかにあるにも関わらず、それが出来ねえ、探し出せねえ、そんな無知で脆弱な男だからこそ、暴力なんかに頼っている。そいつはすべて、自分の弱さだと……その時もそう言っていた。――なら、俺が戦うのも、それ以外の道が見当たらねえ俺の弱さなんだ。わかっていながら、俺は、ここでもそれを使い続ける事になるのだろう……ただ、よりによって、他人の拳でな……)
故に思った。俺の拳ならまだ良い。――が、俺はこれから少女の拳で戦うのだろう。
すまない、親父。すまない、敵。すまない、姫。すまない、俺の未熟ゆえに使われる姫なる拳よ。しかし、俺が弱いばかりにお前の出番は終わらない。他人の身体を使わなければならない。
そんな戦いへの強い戒めとともに……親父の事を思い返すと、今頃心配をかけてしまっているかもしれないという事実も頭を占めてきた。――死んではいるが俺は元気だ、とでも伝えてやりたいが、それも出来ない。今や、俺ほどの親不孝もいまい。
……では、やはり、結局、帰るには、やはりこの手段でアクィナ軍と戦うほかないのか。これがジレンマというやつだ。
アリエスは、それを聞いて、なんだかすごく落ち込んだように口を開いた。
「――だけれど、色々な事はさて置いて、あなたのやり方も、間違いなく素敵な方法の一つだと思います。“暴力”、それは確かに弱い決断かもしれません……だけど、私は、アクィナ軍を倒してくれるあなたに、本当に、心より感謝しています」
(あ? 何故だ……色々踏まえると、俺には、やっぱり感謝なんてされる覚えは……)
「――だって、“拳を振るう”という解決策に至れるなら、まだ強い方だといえますから……。いいえ、きっと神でさえ、それ以上に強い人間など望まない。たかが人間に、そこまで多くの事なんて望めないものです」
言われて振り返ると、俺は、神に会っている。それどころか、その神自身に暴力を受けた気がするが、考えてみるとアリエスの言う通りかもしれない。一理ある。
などと思っていたら、今度はアリエスの方が更に自嘲気味なムードを醸し始めた。
「……というか、これは個人的な考えなのですけど、そこまでの境地に至って拳を振るう人間は、強いといえるんじゃないでしょうか? 私の中で階層があるとすれば、“暴力なしですべてを解決できる者”は確かに一番強く、その下で“暴力以外を探りながら戦う者”や“暴力の無意味を戒めながら戦う者”が強く、その下で“暴力を使って何も考えずただ解決する者”が強い。……しかし、きっと……それより弱いのが、私なんです……。力で解決できるなら御の字。私は、今の今まで解決策を一つも持ってはいません……。出来る事といえば……見ているだけ、あるいは、祈るだけ」
(――いや、それは違うさ)
反射的に、言った。
それは、本心だからだった。俺は、アリエスと付き合いは長くないどころか、出会って数時間だが、それでもわかった事はいくつかある。
たとえ、アリエスが今まで、戦わなけりゃならないと知りながら鍛えなかったとしても――それだけがアリエスの強さを計る物差しじゃない。健康体に恵まれたから俺は拳を武器に出来るが、そうでない奴もいる。そいつは別の強さを持ってりゃいい。だからわかる。アリエスは強い。
「何故、そんな事が言えるんです、伊神番長」
(……だってよ、俺がここに来た時、あんたは軍門の先頭にいたじゃねえか。俺は、その姿を忘れちゃいねえ。あんたがそこにいてくれたから、俺は真っ先に状況を判断して、戦う事ができたんだ。あんたは力では弱いくせに、それでも誰より前に出て、剣を構えていたんだろ。そこが誰でも出来る役目じゃねえのは、番長である俺が誰よりよく知っている)
……俺だって、これまで、いつ負けるかもしれないぎりぎりの戦いを何度だって挑んだ。いや、全部ぎりぎりなんだ。
どんなに強くたって上はいる。俺は強くなりたい以上に悪い奴や狡い奴が許せないから戦ってしまう。相手が誰だって戦ってしまう。でも、前に出ればいつだって怖い。いつだって勝てるとは限らない。しかし、背中に守りたい誰かがいて、目の前に許せない誰かがいるからこそ、俺はそこを退けない。
あの感情から逃げず、そこにいられる強さを、鍛えもしていないこの細い腕のお姫様が持っているというだけで、俺には凄みが感じられた。――わかるさ。
「でも……それは、私の役割だったからで……むしろ、逃げたくてもそれを言えない私の弱さです。あなたにはわからないかもしれませんが、自分の望む事を言えずに……成り行きに任せる弱さというのもあるんです……」
(まあ、それもあるかもしれねえな。……だけど、そんな中でもあんたの国の民は、誰も逃げてなんかいなかったじゃねえか)
「それは私の父のビッグマウスが原因で、私を信じたからでしょう……」
(いや。嘘に踊らされたからってだけじゃあ、背中についていくなんて絶対無理だ。絶対、あれだけの数は来ねえで逃げちまうよ。あんたが逃げずに真っ先に前に出て、一番最初に国を守ろうとする女だったから、仲間が後ろについてきたんだ。それに、あんたは同じ立場である妹さんたちの事は、ずっと後ろにやっていた。そいつは成り行きなんかじゃねえ。姉としての配慮だろう。――それこそ、あんたが本当に強く、仲間を見捨てない存在である証じゃねえか。俺はそう思ったぜ)
「…………」
しかし、そんな俺の言葉は、何か機嫌を損ねてしまったのか、彼女はゆっくりとどこかへ黙って歩き出してしまった。
あまりにも、知らないくせに話しすぎてしまったのだろうか。何か間違っていたんだろうか。俺は所詮、万能じゃない。他人の気持ちに一番ぴったり合う台詞を言いたくたって、機嫌を損ねる事は何度だってある。彼女は、ただただ答えないで、どこかへ歩いて行ってしまう。
……彼女が辿り着いた部屋には、大きな鏡があった。
「――」
そこに、姫君アリエスは、映っていた。俺は、この時、その姿を初めて目に焼き付けた後、絶句するほどに見惚れていた。
(あんた……)
――妹たちに負けないほどの美人がいたからだった。
真っ赤な瞳と、短い金髪。今はドレスこそなく、粗末な服を着ても似合うほどの美貌とスタイル。隠し切れない、スターのようなオーラ。美男子のようにも見え、美少女のようにも見えるその顔立ちは、三姉妹の中でも戦士としての迫力においては申し分ない方かもしれない。
「こうして鏡で見ても、私の中にいるあなたのお顔がそこにないのは……とても、残念です」
そして、彼女の瞳は、どういうわけか一筋の涙を流し、複雑そうに笑っていた。
女泣き――それは、男泣きと比べると使用頻度が高いもの。嘘泣きが多発するイメージがあるが、どちらかというと、「泣いてもすぐに切り替えて笑ってしまう」という女性脳の厳かな性質(※あくまで傾向です)ゆえ、嘘に見えるものと、俺は考えている。
が、この瞬間の涙は、決してそんなに軽い涙ではない。紛れもなく、俺に向けた思慕の涙。
――どきり。
ああ、その感覚は、もはや身体がなくても変わらない。心臓がなくとも、脳がなくとも、頬がなくとも、物質的な物がなくても、魂は恋を知っている。俺は、この時、それを知った。
「これからも、もっと……戦う強さを分けてください、伊神番長」
(……ああ。俺は、その為にここに来たんだ)
◆ ◆ ◆ ◆ ◆