闇におちて-Fall in world-
――キャンディは、この年に十歳になったばかりの少女だった。
しかし、その瞬間までの自分の生に喜びを覚えた事は数えるほどもないし、そもそも彼女は自分の年齢すらよく知らない。
物心ついた時にはその傍らに親はなく、ただ一人で当て所なく彷徨っていた。それからは、誰かに拾われたり、結局その誰かの手を離れたり、あるいは誰の手の下にもなかったりで、子供ながらにはっきりとした生き場所もない。目まぐるしい中で突き付けられる現実は、本人にとってもただただ不幸に見舞われたとしか言いようがない代物だった。
人生が案外なんとかなると言える人間に比べてみて、彼女の人生の実体験はなんとかならない事の連続でしかない。幸いな生き方の出来る無数の人間の裏で、あまりにも運悪くそういうすれ違い行き違いの生き方に終わる者もいる。それが、今日までのキャンディの、人生というものへの実感だ。
親に放られた後、その次に誰かが差し伸べるべき幸運の与えられなかった少女である。
……彼女がいつ捨てられたのかは、彼女を捨てた実母・アクィナだけが知っていた。
それはキャンディが三歳の時だった。アクィナは、それまでも自分が産んだ子を、三年だけは隠れ家のような洞窟の中で、そっと育てていた。本質的に、彼女が三人の子を産んだのは、姉への「あるコンプレックス」による物が大きく、“姉に対抗する”という自分の夢の為だけだったと言っても差し支えない。彼女にとって、命を生み出すという行為は、自分の目的に向けた「手段」だったのである。
しかし、アクィナという魔女にも母性本能は確かにあったようで、ある時までは、当人も思いがけぬほど可愛がってはいた。乳もやったし、頭を撫でてもいたし、立ち上がり喋るのをその目で見て内心喜ぶ事もあった。社会から隠れるようにして産み育てるという形ではあったが、その三人の子はそれぞれ――特に可憐な容姿のキャンディという長女は特別に――、目的とは別の部分での愛着はあったのだろう。
ただし、いずれも「三歳」という決められた線を越えた時点で、アクィナは子から記憶を消し、“強さを求めて生き続けろ”と暗示をかけて、名前と指輪を託して野に放った。子供をひたすら強くする事だけが、彼女の目的であり、放り出すように社会に出すのはその手段だったのだ。
彼女にとって、子への愛情は、目的を超えなかった。
……ふと気づくと、キャンディは、顔も存在も知らぬ兄たちと同様に、三歳という身で、一人だった。ある町に、棄てられた実感もなく、棄てられていた。更に、不幸にも、その当日、その場所では土砂降りの雨が降りだしていた。
その雨の影響で誰もが家にこもった最中で、外から聞こえる呼び声に誰かが耳を貸す事はない。
全身がびしょびしょに濡れたままで、キャンディは、涙ながらに町をふらふら歩いた。そんな彼女の中には、心の中で助けを求める対象がただ一人、いた。
「おかあさああああんっ!!」
――そう、三兄弟で、唯一、キャンディだけは、母の記憶を完全には失っていなかったのだった。それは、母アクィナが半端な愛情を注いだがゆえの不幸な手心だった。
実際のところ、長兄ガムの場合は、「母」というものの意味を七歳まで知らないまま生きて、なんとなしにその言葉を知っても意に介する事なく、結局は騎士のもとに弟子入りした。
次兄コオラは、たまたま偏差値信奉の国に棄てられてから、エリート志向な孤児院の人間を両親に、その愛情など気にする暇もなく学力で駆け上がった。
しかしながら、ただキャンディだけは、自分に母という存在がいた事をおぼろげに記憶していて、それを呼んだのである。その顔までは記憶になくとも、昨日まで誰かと過ごしたのだけは、確かに感じていたのだった。
母を呼べばいつか見つかるだろうと信じて泣き続け、暴雨を頭から被りながら、彼女がようやく出会った他人は……
「……誰? どうしたの?」
夜の街で働いている、化粧の濃い二十歳の女、リンネであった。
流石に自分の仕事が始まる時間まで、子供が外で泣き叫んでいるのはおかしいと気付いてキャンディを発見したリンネは、すぐに自分たちの住む店に保護したのだった。彼女は、その日、自分の仕事を一日休業して、夜食の面倒を見てやったり、一緒に風呂に入ってやったりするほどには優しい女性であった。
まだ誰も入っていない、お店の小さな浴槽で二人、リンネはキャンディに訊いた。
「ねえ、あんた、お母さんいないの?」
「いるんだけど、思い出せない……気づいたら、一人だった……」
「そっか……」
キャンディも、彼女に拾われた日にそうして思わし気な「そっか」を聞かされ、風呂場で抱きしめられ、縋るように泣かれた事は、よく覚えていた。
「お姉さん、泣いてるの?」
「ごめんね……情けないよね……泣き虫の弱虫だよね……あんたはもう泣かなくて偉いよね、強いよね……」
と、それからなんとかリンネが笑おうとした事も、その言葉も、キャンディの脳裏に深く焼き付いていた。
それから二週間ほどは、キャンディはそのリンネに面倒を見てもらっていた。一緒にその店に住んでいる商売仲間たちは、キャンディを鼻つまみ者のように扱ったが、リンネだけは毎日、身体を洗ってくれたり、お菓子を食べさせてくれたりもした。年の離れた妹のように可愛がっているようだったし、きっと同情や共感もあったのだろう。
(このままでも、いいかなぁ……)
キャンディの方も、その人を、現れない母の次に、信頼しつつあった。この人が自分の新しい家族になるのかもしれないなと。もしかすると、「お母さん」というのはこの人の事だったのかもしれないとさえ、漠然と思っていた。
だが、
「――悪いけど、キャンディ……出て行って!」
というリンネの言葉と、あまりに力強い扉の音とで、キャンディはその店から出て行かざるを得なくなった。
キャンディのような子供の面倒を見てくれる場所は教えられたが、住所の探し方を彼女は知らない。
また、ある程度のお金は渡されていたが、まだ幼い彼女はその使い方もまるで知らなかった。
リンネにとって、それが手切れの意味が籠っているのか、同情の意味が籠っているのかと言われれば後者だったが、それにしてはあまりにやる事が中途半端だった。
それはすぐにリンネにもわかって、仕事の後でキャンディの姿を少しでも捜した事だろう。――勿論、そこにキャンディの姿はなく、ただリンネはまた、後ろめたい気持ちと共に自分の仕事場に戻るだけだった。
実は、そうしてキャンディという少女への態度を一変させたのは、リンネにとってもやむをえぬ事なのであった。
このしばらくの日だけで、「リンネが子持ちである」という噂が広まったのは、彼女の生き方の目標を大きく挫く物になっていたのである。元々、リンネが身体を売る仕事をやっているのは本意ではなく、貧しい親に売られての事だった。
彼女の仕事は、身請け――つまりこの風俗街で生きる彼女が誰か自分に好意を持ってくれた男に拾われる事――されるか、あるいは、病気になって死ぬかまで終わらない。キャンディという見知らぬ子供の為に、男というささやかな希望を捨てられなかった。
また、わりに温厚なスポンサーから、「幼いキャンディをこのままこちらで面倒を見て、もう少し大人になったら仕事の手伝いをさせようか」と、冗談のようにそっと切り出されたのも、リンネにとっては大きかったのだろう。キャンディを棄てるという行為には、キャンディの為という意味も含まれてしまった。
――しかし、キャンディにはそんな事情や意図が理解できる筈もなく、ただ、心の傷だけが残して、その町を去っていったのだった。
それから、キャンディは人と触れ合おうという意思を失くし始めた。
漠然とあった母の記憶も、確かにあったリンネとの記憶も、じわじわとキャンディを苦しめた。それに縋ろうとするほど、町を往く、普通の子供たちと自分の姿とを比べるようになった。あの子供たちには母がいる、という事が妬ましいとさえ思えた。
リンネと食べたお菓子の甘い味を思い出しながらも、彼女はその日の食べ物にさえ困る事になった。
風邪を引いても、下痢になっても、それはひとり、自力で耐え続けて終わるのを待つという療法しかない。それは幼子にとっては数度に渡る生命の危機に違いなかったが、彼女はそれを全て、苦難の末に生き抜いていた。
結局、着ていられる服もなく、そのうち町を裸で彷徨っていると、通りすがる立派な人に「服を着なさい」と言われた。だが、それだけで誰かが服をくれる事はなかった。
(どうすればそれが貰えるんだろう……)
そもそも、キャンディには服を手に入れる方法がよくわからなかったし、その面倒を見てくれる人間もいなかった。
たまたま露店に並んでいた服を掴んでその場で着て、少し頭を下げて去っていこうとした事があったが、その商人に蹴飛ばされ、怒鳴られ、その服を奪われた。「やめて」と言うばかりで謝らない態度が勘に障ったらしく、加えて髪を引っ張られて、通りで裸のまま座らされ、一時間も説教を受けた。キャンディには、それをやり過ごす方法が一切わからなかった。
それからは、人のいない場所――ゴミと一緒に棄てられていた服――を着るようになった。とりあえず、それで誰かに何も言われなくなって安心するようになった。
「あんた汚いね、洗ってあげようか?」
と、洗わない髪に気持ち悪さを感じ始めた頃には、町の気の良いおばちゃんがホースで彼女の身体を野外で洗ってやる事があった。しかし、それはただただ陽気で何も考えてないだけの肝っ玉の主婦であった。別にキャンディを保護する意思もない人間だが、「頑張ってりゃそのうち良い事あるって」と馬鹿笑いで励ましながら、ほどほどに心地の良い水を浴びせてくれた。
そういう時、優しい言葉をかける人間は、多分他にも大勢いたと、キャンディは記憶している。「なんか大変そうだけど頑張りなよ」だとか、「空を向いて歩いていると前向きになれるよ」だとか言われながらキャンディは、その言葉を素直に受け取ったが、彼女が空を向いて歩くと、人や物にぶつかるだけだった。
身体を洗ってくれるおばちゃんは、キャンディから見ても普通の家族を持っているようだった。綺麗な服の子供がその家に入っていくのも見たし、そんな時にキャンディは酷く胸が痛くて嫉妬心を覚えるようになった。
ただ、髪を洗ったり、身体を洗ったりの場所として、キャンディはおばちゃんのいる場所を重宝して、何度か通うようになったが、水をかけて、たまに何となく優し気な言葉をかける以上の面倒は一切見はしなかった。おばちゃんも、キャンディの事を井戸端会議の話題にしても、しかるべきところにキャンディの話をする事は一切しなかった。
しばらくして、その一家がどこかの町へいなくなると、キャンディもその町から消えた。
……やがて、ある町にいた時、その町にあった“ジュリー・アナトー教”の教会が、どこかからキャンディの噂を聞きつけたのか、キャンディを見つけ、引き取ろうかと申し出た。
「このままでは良くないと思うんだ、僕らの家族にならないかい?」
「家族……? 外で寝なくていいの?」
「そりゃあ、勿論。子供が外で寝るなんてとんでもない。子供は宝だよ」
それだけがキャンディの希望の光だった。
人と触れ合う意思のない――というより触れ合うリスクを大きいと感じる――キャンディも、凄く旨味のある話だと感じた。
そういう場所でならば、お腹が空く事も、寒い夜に砂利の上に寝そべる事もないと思えていたのだ。多くの人が家の内で寝ているが、いつもそれがあるというだけで羨ましかった。「入るか、入らないか」という選択を迫られながらも、実質それは一本の道を案内されているような物に違いない。
結果的に、キャンディは、言葉に導かれて従うようにしてそこに入り、衣食住において助かる事になった。
「――キャンディちゃんには、朝の六時に起きてもらって、六時三十分からはこういう作業をしてもらいます。お時間がまだわからないかもしれないけど、みんなで起こすから安心してね」
……代わりに厳しいルールの教会にはめこまれて、朝の六時から夜の八時までほとんど働かされる四歳児になった。「うちのやり方」、「社会支援」という名前のついた、あまりに厳しい指導だった。
しかし、キャンディはそれに従って、野菜を育てたり、料理をしたり、掃除をしたり、わけのわからない――“子供の想い”だけが念じられた――お守りアイテムを手作業で作らされたりした。あとは僅かな教育もされたが、その辺りはほとんど放置に近しく、与えられた紙に書物の内容をひたすら移し書きさせ、わからない事があったら質問させるだけという有様だった。
その環境の異常性を、キャンディが自覚する事は当然なかった。七歳以上の子供十二人、常駐する大人が男二人、女一人というその教会は、ブラックボックスも同然である。
辛い、苦しい、やりたくない、疲れた……という感情は全部、言葉にはなりきらず、自分の中で誤魔化した。前とは比べられない別種の辛さがずっと続いたが、「前よりは良い」と比べて納得させて生きた。寝る時間が減ってしまったのが少々嫌だが、眠りたくても眠れないという苦痛よりかは幾分マシだった。
とりあえず、彼女にとって、心の問題や長期的な肉体の負担はどうあれ、生活の面ではかろうじて生きられる場所だったという事だ。
同じ境遇の仲間もいる環境ではあった。
……ただし、人に捨てられたり親を亡くしたりした者同士が、必ずしも打ち解け合うかというと、そういうわけでもなかった。
厳しい労働環境に加えて、内心に孤独を抱える別の十二名ほどの子供たちは、既に心の中で序列みたいな物を作っていたのである。ほとんどが七歳以上の子供だった状況で、彼女は必然的に立場は弱かった。
「トカゲ食べた事あるって本当? やってみて?」
ある日、キャンディの語った経緯を囃すようにして、ゲテモノを食うように促すような事があった。
キャンディは、仲間たちに馬鹿にされている事には全く気づかず、他の誰にも出来ない自分だけ特技やアイデンティティか何かだと思いながら、「こうやるんだよ」と嬉しそうに野生のトカゲを捕らえて口に入れて咀嚼した。「興味津々の悲鳴」という、非常に矛盾した反応の周囲に、とりあえずキャンディは何かおかしくて笑った。
「えへへ……」
彼女は、そのままそれを躊躇いもなく呑み込める生活を送っていたのだった。そこまで過酷な生き方を背負わされたのは、実際、この中には一人もいなかった。立派なアイデンティティだったのだろう。
それから、キャンディの名前は、心の内に記憶していて名乗って来た「キャンディ」という名前ではなく、「トカゲ」という風に呼ばれるようになっていた。それが優しく撫でたり包み込んだりするような言葉で向かって来る事はなく、その呼ばれ方はいつも、言葉で人を殴るような語調を伴っていた。それは何となくはっきりと気づいて、キャンディは、陰で酷く落ち込むようになっていった。
好かれたい意思が確かに芽生えてきていながら、それは叶わなかった。その心のギャップが、次第にキャンディから笑顔を奪った。
また、この頃から、キャンディには、誰かに髪を引っ張られたり、椅子に座っている時に突然後ろから殴られて笑われたり、食事によく異物を混ぜられたりという事が続いた。
その辛さでキャンディが泣くのは、いつも、誰も見ていないところだった。既に人前で涙を見せない事が――“強く生きろ”という暗示の、彼女の解釈になっていたのだろう。泣いているというだけでも、自身の首を絞められているような罪悪感が続いていた。
「“トカゲ”は気持ち悪い」
「あの子は頭がおかしい」
「……怖い」
あらゆる言葉が子供たちの間で交わされた。
この教会に引き取られた“愛されなかった子供たち”や、悲しみを抱えてしまった子供たちは、自分を納得させる手近な方法として、自分より下を見つけるというやり方を選んでしまっていた。勿論、そういうだけではなく、キャンディの発する「トカゲを食べて笑う」という行為への恐怖や不快感から自分たちの身を防衛する手段だった者も中にはいたようだったが、結局キャンディには、彼らの理由など関係がなかった。
とにかく、十二人の子供全員が、キャンディの処遇を一致させた。
ひたすらに攻撃する、と。
一番下を作る事でどこか、当人たちにとって爽やかな団結を持ち始めてさえいた。
教会の人間は、キャンディが他の子供たちにこっそり何かされたり避けられたりしている事にぼんやりと気づいてはいたが、助けを求めない姿勢を「本人が言わない程度ならば平気な事なのだろう」と割り切って、別段干渉はしなかった。
また、大人から見ても一貫して容姿や雰囲気が暗く、たまに見せる笑顔も後ろ向きで、どこか拒絶的で“可愛くない”態度を取るようになったキャンディを、大人たちは他の明るい子供たちに比べて可愛がらなかった。
結局、キャンディの受けているそれは、“幼い子供たち特有のもの”でしかなく、結局は「うちの子供たちに悪い子はいない」という結論に至った。暗くなじまないキャンディは、「個性的」という言葉を向けられながら、しかし、どこか全員が輪の中に認めない存在となり――大人になれば普通に馴染むだろうと楽観的に捉えられた。
やがて、キャンディは、八歳になる頃、はっきりと認識した。
――“辛い”、と。
もっと自由な何かになりたいと思い始めていた。
それでも、彼女は、有刺鉄線が張られているわけでもない教会の内側から飛び出せなかった。感情を発する言葉を知っていても、自分の心の限界をわかってきても、そのまま身体が大きくなっても、見えない壁が教会の外に張られている気がしていた。逃げよう逃げようと思いながら逃げられない。終わるまでの時間が不等なくらいに長い一日が、休みなく、何か月も積み重なった。
幼いながらに死のうかと思ったとしても、「強く生きなければならない」という暗示は、もはや暗示を超えて彼女自身の強迫観念となり、その“弱い”考えを打ち消していった。
その環境と重圧で生き抜いていく事は、完全な暗闇の中に閉じ込められて、何かにぶつかりながら、見えない何かの攻撃に怯えながら、出口を探して歩き回るかのような物でさえあった。そして、その孤独は楽観的な周囲には気づかれなかった。
(どうして……なんで、こんなつらいんだろう……)
……そんな日々から抜け出せない理由は、キャンディが考えている以上に無数である。
第一に、教会の“衣食住の面倒を見てくれる”という恩は大きかった。実際には彼女の労働量と比較してあまりにささやかだったが、そのレートを見極める能力のない少女には、立派な恩であり、恵みだった。
彼女にとって、教会の人間は優しく見えたので、結果的にあらゆる不都合は全部自分が悪いと思えてしまったのである。実際、それをはっきりと口にする者も周囲にいた。自分の周囲の多数がそんな風に大局を見たように感じたので、彼女は全部、自分が悪いと飲み込んだ。
下手に恩や施しがある事で、恨み切れず、結果としてぶつけようとした恨みは全て自分に跳ね返るようになったのである。
それから、第二に、“抜け出したらまた地獄”という思い込みだった。この教会を去れば、今度はまた泥を啜り、眠いのに眠れない夜が続き、羞恥が芽生えた今の状態でも衣服に困るのかと考えると、抜け出そうと考える事は愚かにさえ思えた。
自由という事の代償は、あまりに巨大にさえ感じた。今ならもう少しうまく出来るのではないかという自信が時に浮かび上がる事があったが、その後に来る激しい憂鬱と心の虚無に打ち消され、また何度か自信が湧き出ても行動へと思い立つ前に潰れていった。
外の世界で無力である事の恐ろしさに、彼女は怯えていた。
第三に、“いじめへの依存”が始まっていた事があった。本来、誰にも相手にされないはずの自分が、それによって他人と繋がっているという安心のようなモノが芽生えていたのだった。多くの居場所で他者の無関心に首を絞められてきた彼女の場合、それがないと、次にどこに行けば良いのかわからなくなるのである。
何しろ、ここで自分を虐めてくる人間は、自分を放り捨てた母やリンネのように自分の興味から外してお払い箱にする事もなく、また、町の人たちのように「目についたから施しを与えた」というくらいの目的不明な干渉をするのとも違い、ちゃんと何年も継続して、“見てくれて”、“不快がってくれて”、“虐待の対象としてくれる”――疎外感は覚えても、共同生活をしている以上、いなかった事には出来ない。時折受ける攻撃は、彼女にとっては他者と心から接する貴重な機会となっていたのだった。
……その兆候として、キャンディは気づけば、彼女はわざと異常に見られるようにブツブツと壁に向かって何かを呟いたり、みんながいるところでわざと服を脱いで裸になったりという奇行を繰り返して、自分でも理由がわからないままに他人に構ってもらおうと、注目を浴びる「何か」を続けた。
いじめられようと必死になった。彼女は頑張り続けた。十四歳になったこの施設の男の子がこっそり呼び出して素肌に過剰に触れて来た事は、気持ち悪いと思いながらも、彼女の中では作戦成功と言える事かもしれなかった。彼女は泣きながらそう納得した。
しかし、その度に彼女は孤独になっていき、苦しくなっていき、自分の首を絞めていった。
――――が。
「あなたは、何……?」
そんな想像を絶する地獄の日々と、それへの苦しい納得の日々は、ふと、唐突に巡った“ある機会”とともに、終わった。
それは、彼女がずっとその指にはめていて、外れなくなっていた指輪に、突然に“龍”の文字が浮かんだ時の事である。ろくに字を習わないキャンディにとっては、難しい字で何の事かわからなかったが、その指輪に向けて何か強い力を念じてみると、目の前に、大きな礼拝堂の天井に達するほどの体躯を持つ赤いドラゴンが現れたのである――。
そう、ドラゴン。
このイセ界においても、架空の生物の一つに過ぎなかった幻のドラゴンが、彼女の前に現れたのだ。その神々しさに、キャンディは気づかなかった。
彼女はそれを驚いて見上げていた。
(――ワタシは、魔法だ。キミの力となる――)
「魔法……?」
――そう、この日、キャンディの中に、“龍”の魔法が芽生えたのである。
特定の血筋の人間に魔法が生じるのは、それぞれまばらなタイミングではあるが、概ね、素養のある者ほど早く目覚める傾向にあるとされている。たとえば、アリエス姫ならば十三歳の時にやっと“炎”の魔法が芽生えたし、セイコンの“癒し”の魔法は十歳、アクィナの“氷”の魔法が十二歳といった具合に、その発現のタイミングは個々人でだいぶ異なる物だった。十四歳で目覚めないセラフについても、別段遅い方でもない。
キャンディの魔法は、もし数えている者がいたのなら、丁度、九歳の誕生日に魔法が芽生えた事になるのだった。それは世界的に見ても何番目かにあたるほど早いのだった。
……そして、その魔法はまた、非常に珍しい事に、無数の情報や自立意思を持っていて、キャンディと会話する事が出来るのだった。
ドラゴンは、念を使って、キャンディだけに語り掛ける。
(――そう、魔法という力だよ。きっと、今日、羽ばたく為に、キミは辛い事に耐えてきたんだ。今からキミは、誰よりも強くなれるんだ。ワタシの魔法に選ばれたのだから――)
「強く……」
キャンディは、強くなれという言葉を思い出した。
全てを無視して誰かを屈服できる、わかりやすいエネルギーが力――それが今、こうして自分のもとに来たのだ。ただ、生きる為に生きて、押し寄せてくる不幸の波にのまれながら、耐えて耐えて耐えて、人に見えないところで吐きながら生きていた日々は終わる。
自分に足りなかったのは、様々な物を覆せる力だったのだと気付いた。
身体が、一気に軽くなった。
「わかった、行こう」
この日々から抜けられる方法が一つあるならばそれに縋れば良いと、キャンディはドラゴンに応じた。
……キャンディは、その後、悲しい思い出と決別する為だけに教会のすべてを龍の魔法で破壊し焼き尽くして、それからそれに乗って空へと飛んでいった。教会や宿舎――その中にいた仲間たち――を消し去ったのは、悪意や復讐心があったというよりは、そこにどうケジメをつけて良いのかわからなかったのだろう。
キャンディはもう、それから先、どこへでも自在に移動する事が出来て、龍という他者と関わる事が出来、欲しい物はその力を使って金がなくても奪う事が出来た。生活に困らないというのは、かように素敵な事なのかと心が晴れていったのだ。
……とはいえ、寝床がないので、ある時からは金を多く奪って別の町に行き、大人しく宿に泊まる事を覚えた。病院に行くにも非常に都合が良い。この生活は一生続けられるだろうと、根拠のない確信が持たれ始めていた。
彼女は、ひたすら生きる為に龍の魔法を使うようになった。朝の六時に起きずに済み、誰かにいじめられる事もない日々は、楽勝だった。剣や魔法で立ち向かって来る者も力で屈服させ続け、しばらくは他者を踏みにじる快楽にも酔えたが、快楽などというくだらない目的はいつしか消えた。それは、彼女にとって優先順位が低かった。
たとえ勝ったとしても、敵意を向けられる事に漠然と怯む事も少なくなかったからだ。それが何となく、力強い意思によって下に見られているようで嫌だったので、それならば最初から暴れなければと思った。とりあえず、生活最低限で必要な物を奪う為に受ける敵意はともかくとして、それ以外の余計な憎しみは受けたくなかった。
「さて、今日はどーしよーかなー」
彼女は、誰より強い魔法を持ち、あらゆる事に達観していった彼女は、やがて暴れたり暴れなかったりという気まぐれな少女になった。
むかつけば動く。どうでもよければ動かない。
むかつかなくても、まあ、金が必要になったら動く。
それだけだった。
――そして、やがて、キャンディは指輪に導かれて魔女アクィナに再び招集された。
自分を集わせたのが、自分を捨てた母であるのを彼女だけは漠然と感じていた。
その魔女のスカウトに、キャンディはすぐに眉を顰めた。かれこれ七年ほど、自分はまるっきり放られて生きてきたが、その根本的な原因が自分を放り捨てた母にあるのを、彼女は既に知っていた。
「我が名は大魔女アクィナ。お前たち三人は、この世界より選りすぐった強き騎士たちだ。……今よりお前たちに使命を与える」
恨みと愛情とを複雑に胸の内に保ちながら、キャンディはじっと、その母親の挙動を見ていた。アクィナという母と再会したキャンディは、隣に二人の大人の男がいるのを怪訝そうに見つめる。自分はこの女の娘であるに違いないが、この二人は何だろうと思った。まあ、正直どうでも良いとさえ思った。
アクィナは結局、母だと名乗り出る事もなく、ただ使命だのとわけのわからない事を言ってきた。何故か、残り二人の男は惹かれるようにして応じていた。
キャンディは、別に内心ではまるで惹かれなかったが、一人の部下になったようなフリをした。
ある時、
「お母さん?」
と、ふと二人の時に、自分の母かと訊いてみた事もある。
「ああ。そうだが?」
と、アクィナは何の気もなく答えられた。
その瞬間、キャンディの中でぷつっと何かが吹っ切れた。
自分が恋焦がれた母にとっては、娘とはその程度の認識のものであると悟り、キャンディはそれからすぐに母の事を心で割り切った。
一応、誰かの下にいるのも便利で楽だからとそのアクィナの下に置かれながら、彼女は日々、特に戦いに参加する事も命令を聞く事もなく、城の周囲をドラゴンと巡るばかりだった。ただそれを母に釘を刺される事もないというのが、余計に冷え切った母娘関係を実感させた。
キャンディは、もう、自分の母は何かと問われれば、“龍”と答えるだろう。これまで出会った誰よりも、母らしいのは、魔法が生んだ相棒だった。
結局は、その果てに――キャンディは、アリエスと伊神敏也に出会った。
なんでも、アリエスは恵まれた姫であるらしいのが、キャンディにとって不快だった。
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