スウィート・ヒルの上で
……俺たちは、一度、国に帰った。今は、ぼろぼろにされた廃遊園地だ。
倒された掲示板は元通りになり、兵士は減ってもまた攻められる事もなく、とりあえず一晩である程度、形にはなった。コオラ一人が出撃して、魔シンガンだけでズタボロにした形なので、被害は想定より軽微だったのだろう。――まあ、被害が大きいよりは良い事だし、全て民や、周辺住民の頑張りのお陰だ。
その働きに感謝し、ゴンゾウの墓に事態の終わりを報告した後、俺たちは、ウォダギリ城に帰る。
しばらく、ただ身体を静養する為に温泉へ行って休み、それからまたようやく少しだけ眠り――気づけば、翌日の昼になっていた。明確な出発時刻は定めていないが、とりあえず休んだらすぐと決めていた。
ここから旧スウィート・ピィまでは、概ね五十キロメートルほどだ。これまで馬もろくに持っていなかったこの国の民は、もう一度その距離を歩いて戻っていくのが苦痛であったり、あとは凍った故国を見たくないという想いであったり、そうした問題があって還る事はなかったらしいが、今一度俺たちはそこへ向かおうとしている。近隣の町が馬を一頭貸してくれたのだ。
おあつらえ向きだった。
――それで、俺たちは、旅立ちの前準備として、セラフとエリサを前にしていた。
「――姉様。あたしも行きます」
「エリサも、姉上の御心のままに……」
二人の妹は、アリエスにこう言っていた。
全ての事情を明かした今、アクィナの狙いは、アリエス、セラフ、エリサの三姉妹だと判明している。その都合、アリエス一人に全ての負担がかかったまま話が進んでいる現状に、この二人も痺れを切らしたのだろう。
……が、はっきり言って、二人に何が出来るかという話だった。
アリエスはまだ、炎の魔法がついているうえで、その身体の中には俺もいる。これは、コオラのメガネ型測定器を前提に考えると、パワーMAXの魔法と、パワーMAXの拳が同居しているという事であり、まだ安全な方であると言える。一方で、セラフもエリサも魔法は覚醒しておらず、彼女たちを迎えるのは難しいと言わざるを得なかった。
「私も力を貸そうか?」
と、ガムが横で言った。
こいつは一応、力でも魔法でも二人よりは使えるといえば使えるが……正直、いらない。
魔法は“色”の魔法だし、戦闘力といえば俺の一撃に負けるほどだし――それに、ガムは別に、三姉妹の一員ではない。直接狙われる立場にないのだ。全く無関係ではないにせよ、それをわざわざ、彼程度の技量で巻き込んでしまうのは如何な物かと思う。
そもそも、三人はこう言うが、トナリノ町の人間が貸してくれた馬は一頭限りで、乗せられるとしたら女性もう一人が限界である。
「――気持ちは受け取ります。……しかし、全員で行く事などありません。もし、これから私が倒れたなら……セラフ、エリサ、あなたたちの出番はその時です。ただ、別に戦わなくて良い……残っている民を守ってください」
「あの、それで私は……」
名前を呼ばれなかったガムが何も考えずにアリエスにこう確認するが、――
「……と、とりあえず、まあ、ガムさんは……この国にいるのなら、セラフとエリサについていて守っていてもらえれば……ありがたいかと思いますけど……」
――アリエスも同様に、ガムはいらないらしかった。微妙な返事だ。
実際、それが最も適切な配置だろうと俺も思う。ガムにもゴンゾウのようになってほしくはないが、何より二人の非戦闘員が成す術もない状況よりはずっと良い。
「あ、姉上! やっぱり、一人では危険ですよ!」
……エリサが、心配の一声を返した。セラフも怪訝そうな瞳でじっと見ていた。
「エリサも……エリサも一緒に行きたいです。姉上までゴンゾウのようにならないでほしいんです……!」
その時、エリサが、時に見せる涙が見えた。
彼女たちが知る元々のアリエスといえば、戦いごっこで、運動音痴のセラフや、八歳のエリサに敗北を喫するほどのひ弱な姉である。騎士としての修行はせず、真面目に見えて内心は怠け者で、ほとんど気迫らしいものもなかった。心配してしまうのも当然だ。一緒に身体を使っている俺だって心配しないといえばウソになる。
――ただし、彼女は常に、“優しかった”し、確実に“強い”女だった。
だから、そんな姉の力になりたいと、二人が本気で思っているのは間違いない。そのハートを、俺は感じた。――アリエスは、そのハートに返したように、優しい口調で言う。
「――ありがとう、エリサ。だけど、私は一人じゃない。ここに、もう一人……大事な仲間がいるわ。安心して……?」
エリサが言いたい事を堪えるように、ぐっとした表情を見せた。
自分の身体に住んでいる“伊神敏也”という男の魂を、彼女は信じていた。
そして、彼女は毅然とした瞳を三人に向けた。
「……それに、セラフ、エリサ。いま、はっきり言います。私は、これまで、ずっと伊神番長の力ばかり借りて戦ってきました。……しかし、私はこれまで使わなかっただけで、とても強い魔力があると……先日のコオラさんとの戦いで知りました。――そこで気づいたのは、私の最大の罪は、それを使わずに逃げ続ける事だという事です」
(アリエス姫……)
「許しがたい者、道理に反する者、悪徳を貪る者……それを前に、力のある私が立ち向かわなくてどうするんです……それに、これが私たちの家系の問題であるのなら、私には真っ先に赴く使命がある! 民の為に、故国の為に……そして、私自身の為に!!」
――俺は、かつてアリエスに告げた言葉を思い出す。
許しがたい者や道理に反する者、悪徳を貪る者など、この世には放ってはおけない相手がいる、と。
だが、俺が言った時よりも、アリエスの言葉には圧倒的な想いが込められているように感じた。
「……ただし、ほんの一つだけ、あなたたちに協力を仰ぎたい事があります。伊神番長は、これまで、物質的な“力”だけでなく、ずっと“想い”や“愛”という武器で戦ってきました……ならばこそ――」
アリエスは、その両手を翼のように広げた――。
胸元から手の先まで広がった空間は、セラフにエリサと……二人の妹を包み込むようにして広がり、そして、二人を包んでからそっと縮まった。
「――妹であるあなたたち二人には、その“想い”と“愛”を貸してほしいのです」
――最後の抱擁だ。
これまで、姫として、シンボルとして、責任者として、あらゆる立場でこの国の長をやってきた三人が、そっと固まるようにしてお互いの温もりに浸っている。その尊い時間を噛みしめながらも、三人はそっとその温かさに浸っていた。
三人もそれぞれ様々な想いが巡っただろう。
だが、いつまでもそうしてはいられなかった。そっと放して、お互いの顔色を確認する。照れのある表情で、しかし、また会う事を信じて彼女たちはここで別れる。
想いと愛……それが力になると、彼女は信じている。
「伊神敏也……一つ、良い物をやろう」
と、そこにいたガムが、突然に言った。
この世界で俺のフルネームが呼ばれるのは、随分新鮮な気持ちになるが、一応、今はガムも仲間の一人だ。アリエスが、少し驚いていたが、俺は応じた。
(――アリエス姫。代わってくれ)
俺は、アリエスに意識を代えてもらうように指示した。
――アリエスの身体の主導権が俺に移る。視界の髪を全部かき上げた。
ガムが気づいて、こちらに差し出したものを、俺は受け取った。見覚えがあるというよりは、あまりによく知っている物だった。……というか、これは俺の所持品だ。
「これは、俺のノートか? ……あんた」
「きみが、この世界に持って来られた数少ない所持品だったな。……大した物は入ってないようだが、中に入っていた真っ白な紙を彩ってやったぞ。この世界の景色や、民の姿、そして……この世界のきみの家族の姿でな」
ノートを開いた。そこは、プリンターで画像を映したように鮮明な、この世界の景色が塗り込まれていた。
――ガムは、“色”の魔法を持っていたのは知っていたが、その力は、ただスプレー缶やペンキで色を塗るようなものにとどまらず、目に見えている景色を紙やそこらにプリントする事さえ出来たらしい。絵を描くっていうよりは、自分の網膜に映っている色を全部そのまま指先から出し切って、所定範囲の色を変更してしまうのだろう。
お陰で、俺の持ってきたノートやプリントに、勝手にこの世界の光景が上書きされている。頼んでもいないのに……よくもまあ、勝手な事を……このノート、板書内容まで全部写真に上書きされてるんだが、これどうすんだ……。
……ま、まあ、しかし、これほどありがたい事はない。
「――私は、“念写”と呼んでいる。……きみの世界に持ち帰ると良い。きみがこの世界にいた事を、ちゃんと思い出せるようにな」
露天風呂から見える森の景色(流石に男風呂からのものだが)。鎖鎌と花束の手向けられたゴンゾウの墓。ウォダギリ城の外観。民たちの笑顔。
そして、今、三人の姉妹が抱き合った光景さえも――その横で見つめながら、この男は写真のようにして残したのだ。俺は、ただ胸にしまい込む事しかできないはずだった光景が、確かに形になって残った事が、心底嬉しくなってきた。
この世界には写真技術もろくにないようだったし、本来なら土産なんて買って帰れないと思っていたから……そして、俺の足りない頭がいつかこの光景を忘れてしまうかもしれないものだと思っていたから、俺はその絶景の数々に震えた。
涙が出そうなほど、良い土産が出来た。
「……あんた、ほんと良い奴だな……」
俺は思わず言った。安堵の笑いを込めて、ガムは俺に言った
「ああ。こう見えても、私は……良い奴だ。――それに……きみに惚れている。伊神敏也という男にな」
「……知ってるぜ。俺も、あんたに惚れてるからな。ちょっとの間だけのダチだったが、これから別れるのが寂しいぜ」
俺は、思わず笑い合った。なんか、セラフとエリサも、その光景を見てタガが緩んだように笑っていた。
……しかし、こういうのは恥ずかしくもなく言えるのに、アリエスには「惚れた」の三文字が言えないってのが情けないな。
(男の友情……それもまた、良い物ですね)
……他にも、良い物があるんだが、そいつは今は言わないでおこう。
そして、ついでに俺の生徒手帳の写真と全く同じモノを映した念写が彼女たちの手に残ったが……こいつは、あんまりカッコよくはないので、少し惜しい。「もう少し朗らかに」などと言った写真屋と、前日に徹夜してしまった俺とを呪った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――俺の前には、女神がいた。
割と頻繁にこの神の世界に飛ばされてはいるが、この女神の部屋に、女神はいたり、留守だったりする。ただ、大抵、いてほしい時にいて、顔を合わせたくない時にはいなかった。――ゴンゾウが死んだ時もそうだった。頭が真っ白になっていて、そんな俺に活を与えるとか、これ以上そういう役割は御免とばかりにこの部屋には女神がいなかった。
俺の意識に直接影響するように、背中を押す真似はもうしないと決めていたのだろう。
そこで、俺はどっしりと構えた。
「――女神様、俺とアリエス姫は……遂に、アクィナとぶつかるらしい」
いま、目の前に、女神はいた。
いてほしい時にいてくれるってのはありがたい。
これは定例報告みたいなものだ。この女神様に頼まれた使命が、いよいよ終わりに近づいている。そいつを俺は伝えたかった。
「ええ、ご苦労でした。お兄いさんが死んでもうかれこれ二か月弱……何故だか、もっと長い時間が経っていたような気がしてなりません」
と言いながら、女神は落ち着いてお茶を啜っていた。
俺もすっかり、この二か月弱は小学校一年生の頃、とても長く感じられた夏休みをもう一度体感しているようだった。新しい経験や新しい出来事がいくつも積み重なって、俺の心にとめどない感動や興奮や悲しみをいくつも叩きつけて来たからだろう。
それを噛みしめる時間は、もうほとんど残っていないかもしれないが。
「あたしから言う事はありません。お兄いさんは、一人の番長として、立派に国を治め、その国の一員となった。そして、弱かった姫騎士を一人、立派な強い女へと育てたのです。……そして、いま、アクィナを倒せば、お兄いさんは全てを終えて、国へと帰る……良い土産も出来たようじゃありませんか」
「ああ」
通学鞄に、思わぬ収穫が入っているのを思い出す。
この世界の思い出を持ち帰れるのは本当に運が良かった。
――ただ、実物っていうか……何より、アリエスという一人の女の子を持ち帰れないのはとても残念だ。どうしても、そうも思ってしまう。
「行ってください、お兄いさん。アリエス姫がお待ちです」
「……ああ。行って来る。それから……」
俺が言わなきゃならないのは、何も使命の報告だけじゃないし、思い出を振り返るってだけの事でもない。
目の前にいる女神に、一応挨拶は済ませておかなければならない。
俺は、口を開いた。
「俺を、この世界の仲間と出会わせてくれた事を、心より感謝する……女神様」
――なんていうか、とても不思議な話だが、この神との空間にいる間に、ガムがイセ界に残した俺の顔は、もっときっちりとしたカッコいい物にすり替わっていたらしい。
確かに、その顔の方が俺に近かった。いや、もう少しカッコいい筈なんだが……とにかく、改めて俺は、女神に感謝した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆