NEVER -優良少女とよばれて-
――今は氷漬けにされている、アリエスたちの故国“スウィート・ピィ”。
この王室内、聖女セイコンの部屋には豪奢なクローゼットがある。
そこには、「ママノバカ!」という全カタカナのメッセージと、モンスターや動物の絵が大きくラクガキされていたのである。
それは、まぎれもなく次女セラフ絵師の七歳の時の芸術作品であり、三女エリサが一歳になったばかりで構ってくれないセラフの孤独が露骨に描かれたモノに違いなかった。
ありきたりながらも、一人の家族にとっては特別な思い出となる、微笑ましい悪戯であったといえよう。
「――これを描いたのは、誰?」
……が、実際にそれが描かれた時、やはり母セイコンは非常に強い口調で怒っていた。
普段は優しく怒らないセイコンの、静かながらも威圧的な怒りを、家族だれしもが感じていた。父である王は、既に、画面の端ですっとぼけて書物を読んでいる。
「お母様……」
機嫌の悪い彼女の前に呼び出されたのは、十歳の長女アリエスと、七歳の次女セラフだ。
アリエスから見れば、それがセラフの字や画風である事ははっきりとわかっていた。一緒に遊び、セラフが(地球でいうところの)漫画を描いているのをたびたび見ていたし、彼女の字をよく見ていたのだ。
しかし、セイコンは、やはり娘を愛してこそいたが、他人に対しては無自覚に無関心な母親であった。最低限の育児は立派にやってこそいたが、魔法や勉学の世話は学舎任せ、剣術や趣味は放任といった形で、彼女らの興味の向くところではほとんど彼女らには構わなかった。
また、このセイコンには、生れ持って、“癒しの魔法”という、他者の肉体の傷を癒したり治したりする魔法の力があった。彼女は、他人の肉体を癒す力に甘んじてしまったが為に、いつしか他者の心の内まで介入する事が出来なくなっていたのである。それでも、本人は子をしっかり見ているつもりであったのが難しいところであった。
結局のところ、夫婦ともに悪人ではなかったが、夫婦ともに思慮に欠け、子供が求める愛情に比べて不干渉ですらあった。
おわかりだろう。その結果が、この七年後のニート姫と、いじめ姫である。
「どっち……?」
セイコンは腰に手を当てて、姉妹の前に詰め寄る。
そんな聖女は、自身のクローゼットに書かれたその字が、姉妹のどちらによるものなのかさえ、まったく判ずる事さえできなかったのだった。
そして、この当時、アリエスは、怯えるセラフを横目に、こう言い頭を下げた。
「――お母様、ごめんなさい! 私がやりました!」
「!」
「お母様のクローゼットに落書きをしてしまったのは、私です!!」
――そう。
この時、この場を穏便に済ます最善手として、アリエスは、セラフを庇ったのである。
セラフは、そんな姉の優しさに、ほっとして胸をなでおろしていた。姉の優しさに心の底から安堵していた。
母が怒った時、どうなるのかは、典型的良い子で、今までほとんど怒られた記憶のなかったアリエスとセラフは、まだ知らない。――が、下手をすれば、怒鳴られるのではないかと思った。
突いた事のない藪を突いたのである。とても怖いものが出るような気がしてならなかった。だからこそ、アリエスは、妹のセラフをそんな目に遭わせたくなかったのである。
……そして、何より、アリエスは、セラフの動機を何となく察していた。妹が生まれ、ただでさえあまり構わない母が、余計に構わなくなっていく事の寂しさを、長女である彼女は既によく知っていたのだ。だから、自分が庇う事によって、セラフを助けようとした。
「アリエス……」
――しかし……二人にとって意外な事に、次の瞬間、セイコンはそんなアリエスを理由も聞かず、抱きしめていた。
「わかりました。潔く謝ってくれてありがとう。ごめんなさい、強い言葉で責めたりして……あなたに構わなかった私も悪かったわ……」
そして、それは、一見慈悲深いように見えて――考え得る限り、最悪の事態への一歩目だった。
この時、アリエスは、“偽りの謝罪”によって、“許されてしまった”のだ。
他人の罪を庇った挙句に、それをあっさり、深い愛と器量をもって許されてしまったのである。
「……っ!」
セラフは、本当に己が犯した罪は許されないまま、しかし、罪を犯していない姉が許されているのを、自分の目の前で見てしまった。それは、真実を知るアリエスとセラフにとって、あまりにも茶番のようであったかもしれない。
セラフは、何も言えないほどのショックを受け、黙り込んだ。
彼女たちにとって、母は絶対だった。いくら、いくつかの不満があったとしても、その存在は尊敬と愛慕の対象に違いなかった。母が愛を示している今を、真実の横やりで茶番劇にするのを、彼女たちは、控えてしまった。
そのうえ、これまでまるで構われず、母の優しさの中にも真実の愛情を見いだせなかったセラフには、この時、本当に母がわからなくなってしまった。自分が言い出せば怒られないという確証も、あまり持てなかった。
勿論、仮にもし、ここで、セラフが「本当は私がやったの!」と言い出せば、その時、きっと優しい母は、ちょっと恥ずかしそうに笑いながら許し、それが思い出になっただろう。しかし、そんな事は二人にはわからなかったし、二人がこの状況に唖然として口をつぐんでしまった以上、そうはならなかった。
それが、最大の悪手だった。
「…………」
「…………」
結局、アリエスとセラフはお互いが口を閉ざし見つめ合い、お互いの瞳が成す奇妙な合図とともに、真実から遠ざかっていった。
誰かを庇い立てる似非の人情劇によって、彼女たちには何が正しいか、何をすべきだったのか、全部わからなくなったのである。
「考えてみると、可愛い絵よね……。ごめんなさい、アリエスは絵の才能もあるのね。このまま、娘との思い出として取っておくわ」
――更に極め付けはこれである。セイコンは、この騒動の挙句に、「アリエスの可愛いイタズラ」として、そのクローゼットのラクガキをそのまま思い出として残し続けてしまったのである。
その後、セイコンは、何かがあった時、この“アリエス”が書いたと信じている「ママノバカ」という言葉を見つめて自分を振り返っている。定期的にその字を見つめる事で愚かな自分を律しているが、それそのものが喜劇のようだった。
この出来事は、アリエスにとっても、セラフにとっても、大きなトラウマと負い目を背負わせる事になった。
端から見れば、幼い頃のラクガキなど小さな事かもしれないが、この時、セラフは、母親の許しと、愛と、一つの思い出とを……嘘によって、いっぺんに、奪われてしまったのだった……。
そして、何より、自分自身がそれを言い出せなかったという事がトラウマになった。
その瞬間、セラフは、糸が切れたように、全てがどうでもよくなった。
自分にも、姉にも、母にも、信頼は抱けても大きな期待をしなくなったというか、何かを妥協した。
この時、自分の作品は、“自分の責任”によって奪われた。そう、“自己責任”という言葉を痛感したがゆえに、それから何も言えないまま、七年経ったのだった。
これ以来、セラフは、大好きな絵を描く事は、二度となかった。セイコンは、娘の趣味が自分の知らないところで始まり、自分が終わらせてしまった事を……まだ知らない。結局は、セイコンは娘を知らぬままに、娘を愛してしまったのだ。
しばらくして、絵をやめた事など、この出来事が悲しかった事もセラフにとって、どうでもよくなっていった。
「母様……」
……ただ、それから七年経っても彼女が母との生活で疑問を感じ続けていた。不意に母が「ママノバカ」の言葉を見つめているのを見てしまう事があった。でかでかと残っている分だけ、セイコンもそのラクガキを不意に見て、アリエスとの事を思い出してしまうのだ。彼女にとっても、母が勝手に嘘の罪を経て子供を想っている寂しさは健在なのである。
セラフは、いくつか不満があれど、母が好きだったし、責める気持ちもなかった。しかし、それゆえに、この一個の不満を言わなかった。
結果的に、これ以降、セラフは特にセイコンに怒られなかった。
釈然としない、正体のわからないものが、どうしても正当化できないままに時間ばかりが過ぎ……母は七年、クローゼットのラクガキでアリエスの不満を見つめている。――その中で、怒られもせず、あるいは構われもせず、どこかお互いに妥協し合うような、表面上親しい家族関係が続いていった。
そう。なんだかんだと、セラフの幼少期は、明らかなるまでにごく普通の良い子だった。結果的に、良い子ゆえに――というか、世間一般の良い子像の一種に自分を当てはめていったので、その後にあまり責められる事がなかった。
社交的で、朗らかで、明るく、優しく、どちらかといえば勝気。褒めどころは浮かぶが、その強気さゆえに、男子を注意する委員長的な人物で、悪事はしない。
これもまた難しいところで、男子のイタズラを注意する勝気な姫様を、先生は怒らなかった。姫だからと特別扱いする先生でもなかったが、何も悪い事をしていない正義感の強い少女を怒る理由を持たなかったのだ。
……そう、彼女は、ほぼ普通に正しかった。ほとんど規律や道徳から逸れず、間違わなかった。
他人に、あまりに褒められ続けてしまった。
更に、他人の悪に対しても、人相応に敏感だった。何かをやらかした同級生を注意する係のようになっていったからである。
それは、正義感としては暴走するほどでもなく、普通に盗みや暴力、“いじめ”など、目に見えて他人に迷惑をかける人間への、少々強い言葉による批判という形には収まっていた。
彼女はあくまで、(地球でいうところの)小学校のこうるさい委員長の女子くらいな立場に過ぎない。そして、他人の悪事を見つけて責めるだけ、彼女は「正義感が強い」と、周囲の大人には褒められていくようになった。端から見れば良い事をしているようだし、実際、良い事をしていた。
しかしながら、セラフがこうした悪を許さない心を持てたのは、幼少期に小さな罪悪感を抱えてしまった彼女にとっては、“あの時の自分以下がいる”という錯覚から来るモノでもあった。
自分が絶対やらないような悪事だからこそ、彼女は責められたのだ。だから、ちょっとした悪戯なんかをひどく責める事は、絶対になかった。
更に、そんな中で、決定的にいけない事もあった。
彼女の正義感のその根源には他人を許す広い心や、他人の立ち直りを促す器量がどこにもなかったのである。
当たり前だ。許す事に疑問を覚えたまま、大きくなってしまったのだから。三姉妹の中で、彼女だけは――一度でも罪を犯した者を、心の中でひたすら軽蔑していた。
……そして、こうした出来事が積み重なり、国も滅び、最愛の父母は氷の中に閉じ込められ、十四歳の今である。
どこか鬱屈とした彼女の精神は、“更生した悪”であるゴンゾウの登場により、“悪を追い出す為の隠れた悪”という、矛盾した行為を、彼女は遂に行ってしまった。
彼女は、どうしてもゴンゾウを追い出そうとしていたのだ。
一応、セラフは、スウィート・ピィが健在であったつい数ヶ月前まで、クラスで起きたいじめ紛いな事を批判し、普通に取り締まっていた女である。
しかし、彼女は、まさしく、それと同じ事をやっていた。今は小さな事であれ、ゴンゾウがそこに居続ければ、彼女の行為はどこまでも際限なくエスカレートする可能性を孕んでいた。その矛盾にも心の底で気づいていた。
故に、紛れもない罪悪感が彼女の中で揺らめきながらも、何とかいま、彼女の心はそれを正当化する論理を作り上げようと働いている……。
――だからこそ、最初は「悪意」だとすぐにわからない、どうにでも許されるラインで他者に干渉してきたのだ。
そして、同時に、この時、自分を“悪”の立場にさせない為の、いざという時の切り札も、彼女の中にはあった。
――そう、“どうせ優しい姉がなんとかしてくれるんでしょ”という甘えと、諦めだ。
彼女の姉・アリエスは、七年も変わらず優しかった。彼女も母に怒られず、母もアリエスもセラフを怒らない。彼女もまた怒る理由が見当たらない良い子だったからである。
……これこそが、その時放っておいた小さな傷が広がったゆえの、七年越しの病だった。
彼女は何があっても殺人や窃盗はしないが、“小さな事を積み重ねて、他人を傷つける”という事はできる。
また、それが善意ある相手に向けられる事はなくとも、“自分が決してやらないような後ろ暗いものを抱えている人間”に対しては、どこまでも残酷になれるだろう。
ゴンゾウが、妹・エリサを誘拐しようとした相手だったという事実もまた、彼女の中の正義の怒りを強くした。――が、いま多くの人に慕われてきている彼に、直接何かを言って少数派に立ち、周囲に抗って自分の意見を伝えるだけの心の強さもなければ、芯もない。
それが、セラフであった。
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