雨上がりのぼくらに
一ヶ月という月日は、想像以上に早く過ぎた。
……そうだ、俺がもうこの世界に来て一ヶ月が経っている。俺は何もしていないように見えるかもしれないが、これまで果てなく湧いてくるモンスターもいた。まあ、流石に一ヶ月経ってしまい、俺は何度か不可抗力的に裸を見てしまったり、彼女の“音”を聞いてしまったりもした。しかし、正直、そのあたりはあんまり本旨ではない。
すっかり時間をかけてしまって、俺の家族はどうしているんだろうか……とすっかり心配していたが、先ほどアリエスが花を摘みに行った時に女神に会って、これについては聞いた。「お兄いさんが生きるか死ぬかわかるまでは時間が止まっている」との事だ(訊かなかったのも悪いが、これはできれば、もっと早く言って欲しかった……)。
そんな風にして、何となく時は流れていた。
とりあえずは、あのコオラとの戦いからは数日。“スウィート・ピィ”で起きた事はいくつかある。
「――決めたんだ! オイラ、今からでも勉強する……!!」
あのゴンゾウが、学問に目覚め始めたのだ。
他人の上に立つ為ではなく、自分を高める為、他人に役立てる為に。
「あんたの言葉で気づいたんだ! オイラ、クズだと思ってたけど……やり直すのに遅いなんて事ないんだ! 昔のテストで全部決めちまうオイラの国は、間違ってる! それをオイラ自身で証明してやるんだ! 今からだって、オイラが魔法を学んで、なんでも作って、姫様たちの役に立つようにやってやれるさ!」
「……本気なんですか?」
「ああ、あんたの言葉にはパワーがある! 誰にだって、未来はあるさ! その言葉にはっきりとした根拠はなかったのかもしれないが、根拠なんていうものは、後からオイラが作ればいいんだ!」
そう言って、本当にゴンゾウは毎日、勉強をするようになっていた。
恐るべきは、このゴンゾウという男の純粋さと、根の努力家ぶりと、継続ぶりと、吸収力だ。本当に、毎日毎日、トレーニングをして、償いの為と手伝いをして、空いた時間に書物を見ての猛勉強をしている。少しは休んだらどうだと言っても、まるで聞いてくれていない。常識知らずであった代わりに、そういう側面についてはアリエスと正反対だ。
「さあ、今日もトレーニングだ!」
「応ッ!」
……それから、これはモンスターや兵士のような武人気質が何人か仲間に加わったせいもあるが、どんどん民も変わってきている。
トレーニングに参加する住民たちが増えてきたのだ。軍隊式にならないよう、俺が目を向けて上手く注意をしているが、なんというか、敵軍の中でも、都合が良いくらいに面倒見の良いタイプばかりが国側に来たらしく、その点では上手くいっている。
元々、寝返った連中には、自分たちの兵としての“モノ扱い”に不満を持っていた奴が、凄く多い。そんな中でスパッと割り切って転職を決めた連中は、流石、肝が据わっていて、目の前の奴を人間扱いできる真心に満ちている。
彼らは、仲間たちが、たとえ弱いとしても悪くは思わないし、無理もさせない。ゼロから立ち上がろうとする民たちを支えて、格闘や剣術についても懇切丁寧に教えていた。……俺の出る幕はなさそうだ。
あと、民の意識の変化は、自分たちのお陰で勝てたという意識が根付いたのもあるのだろう。この前の戦いで、俺が一人で勝てなかったのは、みんな感じ取っていたのだ。そして、姫の力が万能でない事を知った民たちは、少しでも、役に立てるように、自分の身を守れるようにと危機感を覚え始めた。
エリサとゴンゾウは、すっかり本当の友人のようになっていて、この前、前転を覚えたエリサは誰より先にゴンゾウにそれを見せていた。……少々、不安なので、アリエス(と俺)も陰から見ていたが、エリサとゴンゾウは、もう本当の意味で仲良くなっているらしい。
彼は、常識さえも学んでいったのだ。警戒は当面やめないが、それでも、もうそれは必要ないんじゃないかと感じてきている。
――だが、アリエスは、そうして成長に向かっていく民やゴンゾウの様子を見て、俺に少し打ち明けた。
(良い事ではあるのですが、私にとっては不安も募ります……)
(何がだ? ゴンゾウの事か?)
(いえ。それはまだ良いんです。……民は、みな、弱かった。弱いと言う事は、振り返ってみると、美しく尊い事でもありました。弱いゆえに、彼らは優しく、広い心を持てたのです。しかし、その力が強くなっていくと、時に人は横暴を見せる。この前のコオラという方を見た時、それを深く感じました……。人の上に立つ時、人より強くなった時、それに伴わねばならない“優しさ”という責任を知らないまま、ただ横暴な心だけを膨らませてきた人もいる……ゴンゾウさんや民たちは、そうなってしまわないか、私には不安です)
アリエスも、少々それは考えているらしい。
ああ。人は、強くなっていく事は出来るが、一度強くなってしまったら自分の弱さを忘れてしまう時もある。……俺も、恥ずかしながら、そうなっていた時期も、なくもない。具体的に言うなら、「番長だかなんだか知らないけど、あんたいつも上から目線だね」と、クラスの女子に言われた事がある。
その後、しばらくその言葉に悩みに悩みぬき、「俺は女子にあんまり好かれない人間性なのか?」、「もしや俺はただ人の上に立ちたい嫌な奴なんじゃないか?」と思春期の大きな時間を己への詰問に割き、そして、わかった。俺は確かに、自分は周りより強くて偉いと思い、ナチュラルに他人を見下していた事に……。一応、反省したつもりである。
(まあ、信じるしかねえさ。……いや、誰かが間違った時には、力強い言葉とその権限で、過ちを正す事が出来る。それは、姫であるあんたの役目の一つでもあるだろう?)
(そう、ですね……)
(――それに、少なくともゴンゾウはいま、凄く楽しそうに毎日、勉強している。俺はあいつに限っては、人を見下す為に勉強をしていたコオラとは違えと思うんだ……あいつのは、凄く素敵な事だと思う)
俺は、ゴンゾウの様子を、結構定期的に見ていた。本当に、毎日勉強していた。俺にはああいうのはできない(多分アリエスも出来ないだろう)。
……勉強というのは、どうも不得意だった。授業を聞いていても、教科書を開いていても、大抵、どっかでわけわかんなくなって、そこから先が全部嫌になってしまう。文法、公式、それまでの歴史……そういう前提がわからないまま、授業はただただ一回ごと前に進んでいって、新しい内容をやっている時にはすっかり取り残されているのだ。
だが、それでも、たまに授業を聞いていて、楽しいと思う事はよくあった。――それは、先生がつい、授業内容から脱線して、無駄話をしてしまう時だ。
たとえば、御弥高校には、いけ好かない数学の教師もいた。
ある時、そいつが授業の空いた時間に、“オイラーの等式”っていう、美しい何ちゃらの話を、楽しそうに話していた。それで、あの先生は、本気で数学が好きなんだってわかった事がある。その目を見ていて、勉強が楽しそうに思えた。ちょっと数学を勉強してみようと思ったが、やっぱりわかんなくてやめちまった。
他にも、色んな授業で、色んな先生の、色んな無駄話を聞かせてもらった。漢字の成り立ちだとか、宇宙の法則を的確に伝えている映画の話だとか、教科書の中にないどうでもいい知識を楽しそうに語っていた。
……ああして頑張って勉強しているゴンゾウの目は、そういう時の先生たちの目に、よく似ている。きっと、新しい事を切り開いていく喜びだとか、世界の法則・仕組や、普通に暮らしていたら絶対に見えない物事がどんどん自分の中に入ってくる快感だとかを、本気で楽しんでいるのだ。
先生たちの目だって、きっと、生徒の言う事を聞かせる為だけじゃない、大勢の前でどうしても話したい事をつい話してしまう先生たちの本心なのだ。「勉強はこういう風に楽しいんだぞ」って言いたい目なのだ。
そういう時、先生の目はすげえキラキラしていて、俺はただ仕事で教えてるんじゃなくて、生徒と話したいんだって事を感じて、凄く楽しいんだ……。
俺はいま、ゴンゾウの楽しそうな目を見て、そんな遠い日常の事を思い出していた。
(まあ、なんでしょう……彼は、確かに立派です。あのように罪を犯した人間であれ、前に進むというのなら、やはりそれはとても難しい事です。――何より、学ぶのに遅いという事はない……。自分でわかってから進んでいく事で、彼は確かにその楽しさを身に着けて、三十二から学び始めているのです……)
(――で、そうは言うけど、姫さんはあれだけ尊敬されておきながら、前には進まねえのかい? あんたも、やっぱりもうちょっとは強くなった方が良いと思うんだけどな)
(わ、わかりましたよっ! 私も、今日から自分の力でトレーニングすればいいんでしょう! どうせ、どっちにしろ、あなたが走って筋肉痛になるんですからっ! もうこれからは自分でやりますよっ!!)
(……ボイストレーニングも忘れるなよ、姫さん)
俺もちょっと変わった事といえば、時間はアリエスとの間の関係をもう少し縮めたような気がした事だ。……少し、アリエスをからかったり、冗談を言って笑ったりするようになった。
一ヶ月自然と共同生活をしている中で、俺とアリエスは確かに一つの家族を形成していったのだ。こういう妙な余裕も生まれていた。ゴンゾウや、良心的な敵兵が仲間になってくれて、色々と肩の荷が下りたのもある。
……それは、まあ、母、娘、姉、妹のどれとも違うし……強いて言うなら、アリエスがそう思っているかはわからないが、俺にとってのアリエスは………………。
……と、とにかく、こういう風にみんなが変わってきたのは、ゴンゾウのお陰ですらある。
それもまた、俺一人の力では誰も聞いてくれなかった事を、ゴンゾウという男が促してくれているように思える。多くの民が、ゴンゾウの経緯を知っているわけではないのもあるが、すっかり民にも馴染み、なつかれていった。
次第に、ゴンゾウは、俺にとっては、尊敬に値する男の一人になっていた。
俺ができない事は、俺の仲間がやってくれる。だから、俺たちは共に生きていく。俺にとっても、また一つ、人生の勉強になったと思う。
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