閑話 とある忍びと翁の独白
屋根は半分崩れ、傾いた柱が辛うじて支えている、雨風をしのげるかも怪しい廃寺から、一人の男が出てきた。身なりは、そんな廃寺といい勝負が出来そうなくらいボロボロだ。
出てきた男の顔には、まるで上下を分けるように大きな斬り傷がまっすぐ引かれ、その傷に交わるように引かれた斬り傷は左目まで続いているようだった。顔半分が髪で隠れており、その左目が光を宿しているかどうかはここからは分からない。
粗暴で卑しい野盗の類と言ってもいい身なりだが、不思議と粗暴さ卑しさは感じない。それは、男が中性的な顔立ちをしており、疲れ切り憔悴した顔も、艶やかな黒髪と相まって一種の高貴ささえ感じさせているからだろう。
男の名は富士見八之介…先の大戦では、西方につき一人の武芸者としては類を見ない活躍を見せた。
ただ、彼が後々に名を残すことはない。何故なら大戦の勝者であらせられる御所様は、彼を忌み嫌い、怖れ、各大名に彼の全てを消し去るように命じられたからだ。
あれは、大戦が終わり、世が大平に向かいつつある頃の話だ。
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御所様に招かれた客人は、老境に入ったばかりといった風体の翁であった。ただ、その立ち振る舞いには一切の油断も隙もなく、奥に控えたこちらにも気が付いている様子であった。
宴の席も終わりに差し掛かった頃、御所様がある事をその翁に尋ねた。翁はしばらく考えた後に、ゆっくりと軽い調子で話し始めた。
「アレを殺すために必要な人数ですか?それは難しい…いやいや数だけの兵が千いても、万いてもしょうがない。質と方法が大事ですな。」
「そうですなぁ…何か月も継続的に大小の襲撃を繰り返し、最後にお抱えの武芸者を強い順から百人集め…一気に襲わせます。」
「それで殺せるか?いや無理でしょう。なので疲れきったところで鉄砲でドン!…ああ矢はダメですよ。避けられますから、それでも生き残れば…最後は私がとどめを刺しましょう。」
「それで五分五分と言ったところでしょう。いやいや誇張なんてしておりません。老境の私がとどめを刺すのも引っかかる?いえ、自分で言うのも何ですが、居合術だけならば今だ日本一を自負しております。」
「図々しい?これは手厳しいですな。ははは…」
「それだけではございません。アレのことを一番よく知るのは私です。アレの癖、弱点、思考…誇らしそう?それはそうでしょう…アレは私の最高傑作です。とはいえ、アレに何か教えたというのは傲慢かもしれませんな。なんせ伝えたら次の瞬間には出来ている。思わず自分が知る限りの技術、使えると思った他流派の技…全て教え込みました。」
「え?余計なことを?いやいや…教えて型にはめたことで何とか対処できるのです。人の型にはめたからね…意味がわからない?そうですねぇ…どう説明すればいいのか…」
「…アレと初めて会ったのは、私が四十五の時、雪が降る寒い日でした。ある旅路で野盗に襲われて殺された一家を見かけたんです。それはそれは酷い有り様でした。」
「ただ、雪だったので、足跡が残っていたんですよ。野盗の足跡とその後を追うようについた真新しい小さな足跡が…その足跡を見たとき、私も何の気まぐれか、義侠心が生まれまして、ここはひとつ野盗でも退治してやろうとね。」
「足跡を追って半刻ほどでしょうか…野党の寝ぐららしき廃屋が見えてきたのは、ただヤケに静かでね。いや、寝てるにしても人の気配が全くしなかったんですよ。でも足跡は確実にここで終わっている。」
「気配を消して忍び込んだら、何と7、8人の野盗の死体が転がっていました。ほとんどのものは寝ているときに襲われ殺されていました。数名の起きていた者は器用に足首を両断されてから殺された様子でした。そして焚き火の前で寝息をたてる4、5歳ほどの男児…信じられますか?」
「アレは、親が殺され、姉が犯されている間…そっと息を潜め、後を追い、盗賊どもが寝静まってから一人一人殺していったんです。目覚めた盗賊も、自分の体躯の小ささを利用した方法で殺したのです。」
「さらに驚くべきはその膂力でしょう。足首を斬りつけても普通は両足首を両断なんて出来ません。大の男でもです。それを5歳になるかならないかの幼子がやったのです。まさに天稟!」
「その場を見た瞬間、男児が何をしたか察した瞬間に、アレは人を殺す才能だけを詰め合わせた化け物だと確信しました。…同時にアレに人殺しの技術を詰め込んだらどうなるのか?」
「答えは先の大戦で出ましたな。無かったことにする?ええ、それが賢明かと…ただ、思うのです。アレがもし人としての作法を覚えずに、何のしがらみもなくあるがままに生きていたら…」
「ええ、普通の子どもなら死んでしまうでしょう。その可能性が高い。ただ…アレは生き抜くでしょう。そして、触れる者、そばにある者全てを殺す天災とも言える存在になっていたでしょう。」
「今も大差ない?ハハ…それは確かに。ただ、少なくとも私は人情と忠義は教えたつもりです。忠義を誓う相手を間違えたことは心残りですが…育ての親を殺すことを躊躇うくらいの情はあるはずです。だからこそ…このジジィの剣が錆び付く前に…アレを殺すべきなのです。ワシがいなくなればもう何のしがらみもアレにはなくなってしまいます。」
「もし、このまま放置すれば、アレは御所様に恨みを持っておりますから…アレが御所様を殺すことだけに集中したら、恐らく止めれる者はおらんですよ。そこの奥に控えとる忍びや護衛など物の数にもなりません。気が付いたら首が離れていたなんてことにもなりかねません。」
「脅す気か?いやいや滅相も無い!ただ事実を言っておるだけです。殺すなら、夢破れ、頼るものを失った今が絶好の機会でしょう…何で殺すことを勧めるのか?いや、情はもちろんありますとも…5歳ほどから15年余り手塩にかけて育てて参りましたから…」
「ただ…アレは人を殺すことしか出来ません。これからは太平の世です。アレも生きにくくなるでしょう。それに、アレのような者がいては御所様も枕を高くして眠れないのではないでしょうか?」
「そして、何よりアレは死にたがっております。育ての親を捨ててまで信じた者に裏切られ…失い。だから、これは最後の親心でございます。アレのために一緒に地獄に行く者が一人ぐらいいても良いでしょう。」
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その後に、彼を見張れと命じられたとき、一人の武芸者…しかも敗残兵など捨てておけばいいのにと思った。あの翁の話も何を大げさなと思ったものだった。
襲撃に用意した刺客は一級線とまではいかなくても、いずれも手練れであった。それが毎日、寝ている時、便所のとき、食事の時、あらゆる場面で襲って来るのだ。男が何日持つかそう考えるのが妥当であろう。
ただ、実際には、まるで約束稽古のように斬り倒し、何事もなく去っていく男、10人を下回らない数で、時には50人近い数で昼夜を問わず襲撃を続けたが、結果は一緒だった。
半月も経たないうちに、あの翁の言葉が決して誇張されたものではないことに嫌というほどに気づかされた。
そして、アレは決して太平の世に存在してはいけないもの…一人の男が一国の大名を殺そうと思えばいつでも殺せる。そんな存在は許してはいけない。太平の世を根本から崩してしまうような存在だ。
いや、そんな建前だけではない、それ以上にもっと根源的な恐怖、嫌悪感、焦燥感が自分の中から沸き上がってくるのを感じた。アレを殺さなければ…そう考えることが自然に感じた。
その後、数か月にわたり翁の指示通り…いや、あの翁の言葉以上に執拗に頻繁に襲撃を続けた。思えばアレを見たときから自分は恐怖に塗りつぶされていた。
自分が巨大な捕食者と一緒の檻に入れられていることを知ってしまった哀れな小動物のように……