春の上野の山
南に春がほのめいたのを聞きあえると、「ことしも上野の山に行かなければ」と私は記憶のなかを打ち眺める。
言わずもがな上野の山が桜にかさねる数日間、並木道には老若男女がひきもきらずに鳴り歩き、木々のたもとでは朝に夜にと酔漢たちの騒ぎである。
都会に出てきたばかりのころである。私は町並みのすべてがまばゆく見えていた。その季節になればさっそく西郷さんの銅像をあおぎながら恩賜公園の石段を登っていった。
ところが私は思い知らされた。淡紅色に寄せ打つ人の辺波ときたら、想像はるかに大群集であった。して、両手の路傍には私の田舎でも見られるような赤らめ顔の見世物市である。
私は何を求めていたのかうんざりとした。人ごみも幼少のころから苦手であった。子供が毛玉になった程度の往時である。花だけの並木道にはさしたる興味も失い、テレビで見たことのあるアメヤ横丁にそうそうときびすを返す。
以来、春の上野の山を訪ねないでいた。公園内の美術館や博物館など、好奇心をくすぐる催事が重なれば、花がさっさと散るのを待っていた。
私には偏屈のきらいがある。春の上野の山への嫌悪は、花見そのものに膨らんでもいった。
毎年、その季節になれば花見宴会に誘われる。「墓場の桜の下なら参加してやってもいい」と言って私は仲間たちを呆れさせた。やがてとうとうお呼びがかからなくなっている。
私は日本人の例にもれなく桜の花を好んでいたし、花やぎを車窓に見つければ、入学であったり卒業であったりの思い出にもかさね、もれなく感慨を覚えていたが、花見ばかりは背を向けた。
そんな私が春の上野の山を毎年訪ねるようになったのは、彼女と出会ってからだった。
私より二歳年上だった彼女は瓜実顔に目鼻立ちがはつらつとしていて、笑むと可愛げに八重歯のこぼれる美しい人だった。男性相手に気立てはよく、女性相手には器量よしで、非の打ちどころといえば酒に灼けたようなかすれた声と、胸の膨らみが貧相なぐらいである。
彼女は北陸の出らしかった。言われてみればつぶらな瞳に雪国くさい輝きを残していたが、しかし、私からすると洗練された女性だった。社屋が湾岸エリアの企業に勤めており、住まいは山手線の南西、物価の高い地域である。
美人で器量よしの都会的な彼女は、田舎者の私のあこがれだったのだ。
彼女と出会った当時、私は上京して六七年が経っていた。都会の水にもすっかり慣れて、収入も悩みなく確立しており、ずいぶんと背伸びをするようにもなっていた。人いきれに目を回していた日々も忘れ、都会人ぶっていた。むしろ、遊ぶために仕事をしているなどとほざいているぐらいだった。
そんな鼻先から生意気をぶら下げているような私であったが、彼女はいつも私をにこやかに眺めてくれた。しかしながら、彼女を口説いてみるとまったく相手にされなかった。弟のようなものだと言われたが、確かにそうだったかもしれない。
二週間に一度ぐらい食事に会っていたが、私はたびたび飲み物をひっくり返しては、口から食べ物をこぼし、そのつど彼女は笑いながらテーブルを拭くざまだった。
一ヶ月に一度ぐらいは二人でどこかに出かけていたが、くたびれた私が運転を彼女に押し付け助手席で寝てしまうこともあった。
なぜ、彼女が粗相ばかりの私のために一日を費やしてくれていたのか、今となってはわからない。
春の上野の山に行こうと言い出したのは彼女である。私が新国立美術館の展覧会に行ってきたことを話したのがきっかけだった。
私にそういう嗜好があるのを知らなかった彼女は驚き、すると、ちょうどスペインの絵画が上野の山に持ち込まれてきているので、是非とも一緒に行きたいと言う。
確かに駅には看板広告が出ていたと思いながらも、私は嫌だと返した。
折しも上野の山は花盛りだった。私はとくとくと上野の人だかりの恐ろしさを説いた。しかし、私が偏屈な駄々をこねるのは毎度のことであり、彼女は聞く耳を持たなかった。
彼女と上野駅の公園口で落ち合った日、月をまたいでいたかどうかは忘れてしまったが、土曜日であった。昼過ぎのことで、北風が吹いて肌寒かったのをよく覚えている。空は煙るような雲が一面にたなびいており、青とも灰ともつかぬ空模様であった。水が染み渡っているような光の具合であった。
当然ながら花見頃の週末は混雑していた。西洋美術館への道すがら、私のことだから文句を吐き垂らしていたに違いない。彼女は笑って聞いていなかったか、もしくは私を叱りつけていたかのどちらかだと思う。
西洋絵画の至宝が並び立てられた館内は盛況であったが、外に比べればいたって空いていた。ただ、私は混雑で気分を損ねていた。また、彼女に嗜好を教えていなかったように、誰かと連れ添って何かしらを鑑賞するのが苦手であった。
それらの絵画に知識も皆無だった。ほどなくしてつまらなくなってしまい、私は絵画を眺めている彼女の様子を遠くから眺めているだけになった。
多くの入場客とともに彼女は一点一点を眺めて練り歩いていた。周囲に私の姿が無いのでたまに辺りを振り返った。私は老人のようにして突っ立っている。彼女は私と目が合うと手を振って微笑んでくる。
ところが、館内を巡っているうち、小心者の私は気にかかってきた。足下に苦労しない程度の薄暗さ、名高い絵画に埋め尽くされている粛然とした気配、そのせいか、一人で鑑賞している彼女がどうにも寂しげに見えてき、一方で退屈そうにも感じられてしまった。もしかしたら、彼女は純粋な絵画鑑賞よりも、私と足並みを揃えるのを望んでいたのではないか、と。
そうであろう。先述したように私は生意気で偏屈という救いようのない若者だった。まして気がかりになっても不安のままにしてしまい、あとで後悔するというのを繰り返してばかり。その日も何もせずに彼女から二三歩離れて変質者のように付いて回るばかり。
館内で彼女を眺める以外に何をしていたか。私はまったく覚えていない。一時間程度はその中にいたことだろうが、時計の秒針がいっときを打刻しただけのような一瞬のひとときに感じられる。
美術館をあとにすると、お互いとくに感想もなく、私からか彼女からだったか、これからの時間をどう潰そうかと話しかけた。
桜並木を散策しようと提案したのは彼女である。私は花見客の賑わいぶりを予見し眉をしかめそうであったが、申し訳ないことをしたと勝手に後悔していたので二つ返事で提案を受け入れる。彼女は微笑んでうなずいた。
「ありがと」
とも言った。
たぶん、私が退屈していたと見て、彼女も勝手に後悔していた。
あれほど避けたがっていた並木通りを私は彼女と歩いた。満開の桜と提灯が延々と連なっており、人々の流れときたら立ち止まることのかなわぬ大河であった。予想通り老若男女の酔漢が木々のたもとを埋め尽くしており、飲めば騒げば風に花散る土曜の宴であった。
しかしながら、私は後悔から文句を垂らさず、彼女から離れることもなかった。
彼女は上野の桜は初めてだったようで、山の咲き匂いに目を見張って感嘆していた。私も私であれほど毛嫌いしていたくせ、人の流れに身を任せているうちに溶け込んでいった。
彼女と腕を組んで歩いていたおかげか、私は満開の桜がさねに見惚れた。人ごみも気にならなくなっていた。
頭上を見はらせど見はらせど淡紅色に揺れている。行けども行けども桜花爛漫に尽きている。水の滲むような空模様からして花々の色合いがぼんやりとして、それがかえって花の雲であった。
季節を戻すような寒風が吹き込んでくれば、そのつど花びらもあざやかに舞う。
多分に美しくあった。
しかし、花やぎが枝に栄えながらも、虚空に花弁の一枚一枚がかさねがさねに吹雪いているさまは、あまたにはかとなかった。
ひととせの流れは否応にも絶え間ない。
美術館でのつまらぬ一事、彼女と過ごす玉の緒の時間は、やはりあっという間だったのだ。
並木道、私と彼女は大した会話を交わしていなかったように思う。綺麗だのすごいだのと取るに足らない言葉ばかりであったろう。
おそらく、それ以外の言葉は浅はかであった。私は彼女の思いをわからないでいたし、花の咲き散る只中にいると、自分自身が世の中のことのちっともをわかっていないように思えた。私はこれら狂おしい胸中をどう表現していいものかも、わからなかった。
並木道も終点となり、動物園や美術館に囲われた恩賜公園の広場に出る。ここも人が鈴なりであった。人波の連なりもこれからの時間を相談するゆとりを与えてくれなかった。足は自然として駅口に続く公園出口に向かってしまっていた。
と。私と腕を組んで歩いていた彼女が、ふいにいなくなっているのに気づいた。周りには誰だか知らない人たちばかりであった。
私は、どうしてか、はたと胸騒ぎを覚えた。顔を振って彼女を探し見た。あわてようは周囲の人々が私に振り向いてくるほどであった。
そうして、背後に振り返った。べつだん、彼女は真後ろにいた。
「どうしたの?」
と、彼女は八重歯をこぼしながら、ゆるやかに首をかしげる。
途端、私は棒立ちした。
何かが起こったわけではない。ただ、その刹那、時間が止まったかのようだった。
西空には雲間に薄っすらとして夕映えが覗けていた。それらの雲も、水色を滲ませながら、どこまでも光と影に柔らかくかたどられていた。
それでいて、風が音を立てて強く吹いた。桜の花が舞う。陽光にひらめきながら、滝のようにしてひとまとめに飛んだ。しかし、彼女の髪はあおられてもおらず、わずかながらになびくだけ。
群集さえも風光に華やぐ。その只中で、彼女はたった一人そこにいた。しかし、かしこにもいるようだった。私の前ですべてに笑み笑みとして立っているのだった。
しばらく呆然としていたが、私の顔がおかしかったらしく、彼女は失笑した。
「どうしたの?」
私はなんと説明していいものかわからずにただ笑った。
来年もまた来ようと互いに話しながら、上野の山をあとにした。
彼女と上野の山を訪ねたのはそれきりである。
しかし、私は毎年一人、その季節になれば春の上野の山を登る。あの日の狂おしさを求め、いなくなった彼女を思い返せば、あのときのようにして広場に立って振り返る。
無論、彼女はそこにおらず、時も止まらず、散り行く花びらが虚空にただただ流れるばかりである。
それでも、私は南に春がほのめいたのを聞きあえると、「ことしも上野の山に行かなければ」と記憶に彼女の姿を求めてしまう。彼女に二度と会えないとわかっていながら、世の中のちっともをわからない私は来年も再来年もそれを繰り返してしまうに違いない。