〜命の灯火を揺らす者⑨〜
「う――――ん」
瞼を開けると、目の前には知らない天井が広がっていた。
(ここは……)
視界に映る、くすんだ色合いをした木組みの天井。
黄ばみが所々にある白張りの壁。
それらは酒場『夢舞台の踊り子亭』とは違う風景であり、そして何より――
「海の……匂い?」
「その通りですわ」
独り言へと答えた声にシエルが振り返ると、開けられた扉の付近にミラが、固い表情で立っていた。
「ミラ……」
「はぁ、まあとりあえずは起きて良かったですの。……このまま眠られたら私の思惑に支障が出ますし」
ゆったりとした足取りで近付き、手に持っていたコップを無言で差し出す。
受け取ったそれには水が入っており、喉が渇いていた事に今更ながら気付いたシエルは小さく頭を下げるとそれを飲んだ。
水分が喉を通り身体に浸透し、隅々まで行き渡り出すと、気を失う前の光景が徐々に蘇ってくる。
(そっか……私、急に身体が熱くなって。まるで血液全部が溶岩に変わってしまったくらいに……ぼぅーっとだけど、記憶も、少しある)
あの時は、不調というよりむしろ快調であった。
身体の奥から湧きおこる活力のような、無尽蔵に噴き出す『力』が、身体全体を覆っていた。昔の傷も、暗い過去も、頭をよぎった不安な気持ちも塗りつぶす程――壊れて、しまいそうな程。
今まで感じた事のないその力は、確実に自分の中で息吹き、存在を明らかにした。
沈んだ気持ちをそのままに、周りを飲み込み、蹂躙した。
「――――――」
震えて、しまう。
決してあの時現われた力にでなく、思い出してしまった、独りの孤独感に。
手を離される、寂しさに。
「……一応、謝っておくですの」
「え?」
憮然とした表情ながら言ってきた事に、シエルは思わず聞き返してしまう。
ミラは窓枠に近付き、そこに腰掛けると視線を外に投げる。そしてその状態で、シエルに話しかける。
「私はあなたの事は大っ嫌いですけれど、ちょっと言い方がキツかったと思ったんですの。いくら本当の事でも、オブラートに包むのは必要ですわ」
本当の事とは、ロンが自分を避けている事。嫌な記憶と共に嫌な事まで思い出してしまい、シエルの表情は暗く重たくなる。
それを見て、ミラは気付かれない程小さく溜め息を吐いた。
(……こんな事を言って自己満足する私は、最低ですわね)
ロンの本当の気持ちなど、シエルの暴走に駆け出したのを見れば分かるもののはず。
哀しくも笑っている顔が、誰に向いているのか分かりきったもののはず。
「……冗談ですわ。ロン様の気持ちくらい、抱き締められた時に気付いてないんですの? 自分の事ばかりでなく、ロン様の『本当の気持ち』も理解するように心掛けてほしいですわ」
軽く自分への嫌悪感に顔をしかめ、ミラはシエルに視線を合わせる。
射抜くような金色の瞳に、シエルの怯えたとび色の瞳も視線を重ねる。
「ロンの、本当の……気持ち」
「あの方は決して自分の考えを表に出すのが上手いほうではないですの。言わない事は理解されませんし、聞かない事は理解出来ません。……あの方の言動や、哀しそうな笑み。全てを知らなくても、包んでいる気持ちくらいは分かるでしょう?」
窓枠を軽くジャンプし飛び越えると、ミラは外に出てしまった。
しかし声だけは、吹き抜ける風のように耳に届いてくる。
「お互い変な意地を張らずにいれば、あの『暴走』も……もしかしたら『伝説』も違ってくるかもしれないですの」
最後は独り言のように聞こえ、そうして窓近くのミラの気配は消えた。
言われたミラの言葉を考えようとするが、不安や恐怖や淋しさで収縮した心に余裕はなく、浮かんでくるのは色の無かった時代の記憶。
それがあったから今の自分がいて、けれどそれがあったから、今の自分は身体を震わせている。
充分に抉ってきた言葉の刃が、また心に突き刺さろうと、脳の奥底で暴れ回っている。
冷たい視線はないはずなのに、そんなもの見たくないと瞼はキツく閉じてしまう。
――怖くて、寒くて、淋しくて。全てを拒絶してしまいそうになる。
「シエル、さん?」
「!?」
――それでも掛けられた声に目を開けられたのは、それが待ち望んだ声だったから。
聞きたいと願っていた、想い人の声だったから。
「……大丈夫ですか?」
「――――――」
視界が途端に涙に溢れ、悲しいのか嬉しいのか分からぬまま、シエルは泣き声をあげた。
慌てて駆け寄ってくる足音を聞きながらシエルは、世間でいう重たい女は今の自分みたいなのを言うんだろうと妙な納得をしていた――
「落ち着きました?」
優しい声が間近で聞こえ、シエルの涙で濡れた瞳はそちらを見る。
目元を隠す程に伸びた前髪に、隙間から垣間見える鋭い瞳。
心配するような声と曖昧に笑う顔は、ここ何日か話していない久しぶりのもの。
「……リンゴ、食べます?」
その手元には綺麗に剥かれたリンゴを乗せた皿。
楊枝の刺さったそれを一つ口に頬張ると、シャリっと小気味良い音と共に甘い果物の味が広がっていく。
「……美味しい」
これまでの人生で何度も食べた事のある味。
見知った甘酸っぱい甘味。
それでも、こんなにも美味しいと感じるのは、隣りにいる者のおかげだろう。
隣りの暖かさと過去の冷たさは、相反しながらシエルを包んで、細かな震えを心に与える。
「…………い、の」
「何です?」
消え入るような声。
ひび割れた隙間から漏れる風のように、気持ちは唇からすり抜け出す。
「怖い、の。離れそうで、放されそうで……怖いの」
――この身を包んだ暖かみを失う事を怖れ、手放したくないと自分は我が儘になる。卑怯になる。高慢になる。
目の前にいる大切な人の事を知る事よりも、自分の心の保身を優先してしまう。
そんな私を、それでもあなたは抱き締めてくれた。
「あんたの事、私は何も知らない。何も、知ろうとしなかった。ごめんなさい、ごめんなさい……」
――涙は、目に見えぬ鎖のようなもの。
心を縛って、身体を縛って、絡み付く草木のツタのようにその者を浸食する。
淋しさを埋める為に私は――ロンを利用しようとしている。
「いいんですよ。僕の事なんて知らなくても、あなたが、淋しくないのなら……あなたとの関わりを断ち切れないのなら、僕は――」
――悲しい別れも、怖くはない。
……そう言って笑う顔は私の心の欺瞞を見透かすようで、それでも許すと、話しかけるようで。
欺瞞と傲慢とほんの少しの優しさと、それら全部を足しても足りないくらい、大きな淋しさと。
そんなものが溢れ返っている世の中を生きるには、支えが必要なのだ。
一度開いてしまった心の扉には、いつも暖かな風を送る誰かが必要なのだ。
自分を保つ為に誰かを頼るのは駄目な事じゃない。
ただ私は――その誰かを支えられる程強くなかった、だけなのだ。
「放さないでよ……あんたがいなくなると、私は独りぼっちになっちゃうの。私を必要とする人が、いなくなっちゃうの。隣りにいてよ――私を、必要としてよ」
本当は自分が必要としているくせに、高慢な私はこんな弱音しか吐く事ができない。
全ての弱さをさらけ出すには、開いた隙間は、狭すぎる。
「……僕の為に泣いてくれるたった一人のご主人様を、僕はいつも必要だと思っていますよ? だからどうか泣くのを止めて下さい。見ているだけで、心が張り裂けそうです」
この優しさが私をなだめる嘘だとしても、私は構わない。
この優しさであなたが苦しむ事になっても、私は――構わない。
自分勝手で淋しがり屋な私は、そうして伸ばされた手を握る。
私の周りを包む過去の冷たさを、かがり火のように小さな暖かさで紛らわそうとして、そうしてあなたは隣りに現われた。
「シエルさんが笑ってくれるのなら、心も身体も、傷だらけになるのを耐えられますから――」
「――ごめんなさい」
心の隅で、それでも思う。
今は謝る事しかできない私でも、いつかあなたを支えられるのかなって――
「――肝心な事は話さずじまいですのね」
「今のシエルさんに、言う事じゃないですから」
部屋を出ると、ミラが廊下の壁にもたれかかりロンに視線を送っていた。
ロンは目線を合わせずただ小さく笑うと、その場を去ろうとする。
「肝心な事は隠したまま、ただ支えてあげる。私はそれは過保護か博愛精神と思うですの」
「……それであの人が救われるなら、僕は構いません」
「救われる、ね。まぁロン様がそういう判断をするのなら私からは何も言いませんですの。それにシエルさんも何か隠したままのようでしたし……塗り固められた、大した偽りの主従関係ですわ」
そう言いミラが冷ややかな目線を送っていると、ロンは足を止めた。
振り返ると、そこには笑った顔が、いまだ剥げない心を隠す笑顔の仮面が付けられていた。
「本当を知れば、きっとこの関係は続けられません。数年しか生きられない、一生守ってあげられない僕がここにいる為には……事実は、隠したままがいい」
再び歩き出すロン。進む歩の先に広がるのは哀しみだけのはずなのに、それでも彼は歩むのを止めない。
守るために犠牲が必要なら、自分はこの身を躊躇なく差し出そう。
偽りの笑顔でも、偽りの涙でも、あの人の隣りは気持ちいいのだ。
――独りの淋しさを埋めるには、充分な程に。
(……あなた様がシエルさんを守ろうと思うように、私だって、あなた様を想っているんですの。傷付いていく心を見ていられる程、私は大人じゃないですの)
そう思っても何も言えないのは、自分が、自分だけが知っている隔絶たる『差』があるため。
抗いようのない、古から血肉に刻まれている、それは主従の関係のようなもの。
(こんな時ほど、自分と相手の生まれを恨めしく思う事はないですわ)
もしお互い『人』に生まれていたらあるいは――思ってしまう少女の気持ちは、しかし叶う事などありはしない。
「……年長者としては、一応皆へのフォローが必要ですわね」
そう言うとミラは、ロンとは違う方向に歩み始めた――
曇天模様の空の広がる中、町の入口を示すアーチ状のゲートの下を歩く集団がいた。
ようこそ港町センガへ――剥げかけた文字でそう書かれたアーチを見ながら集団の一人、リーリアが疲れた顔で溜め息を吐く。
「はぁ~。まさかこんなに遠いなんて、疲れた~~」
その言葉を聞きながら薔薇を咥えたベルが優しく笑う。
「それなら僕がおんぶしてあげるよ? ミス・ハンニアース。なに遠慮はいらないさ、君のように綺麗な女の子に触れられるのなら男として本望だからね」
「……謹んでお断りするね~」
二人のやり取りを見ながら、後ろを歩いていた眼鏡の少女は神妙な顔つきをしていた。
「エルラ……どうかしたか?」
少女の後ろを歩いていた男がその様子に気付き声をかける。
エルラは少しの間黙っていたが、不意に口を開いた。
「あれは」
それだけの言葉に、しかし他の皆は顔を強張らせる。
「あれは、本当に……シエルの『力』、なの?」
答えられる者などいるはずも無く、皆は無言のまま町へと入っていった――




