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愚かしくも愛おしき  作者: 宮沢弘
第二章: はじまり
6/22

2−5: 妻と

 ラジーニはパブから出ると、夕日に目をやった。

「ビールを、飲んだな」

 そう呟くと、教院へと足を向けた。

 礼拝堂では、セヴァロが夕の祈りを捧げていた。

「セヴァロ、車を置いとかせてもらっていいかな」

 礼拝堂の入り口からラジーニは声をかけた。

 セヴァロは振り向かず、また祈りを途切れさせることもなく、右手を軽く挙げた。

 ラジーニは入り口を静かに閉めると、自宅へと歩き始めた。

 教院から一本裏の道に入ると、通りの両側には街路樹が植えられ、枝がアーチとなり、通りを覆っていた。通りに面して何件もの平屋、あるいは二階建ての家が並んでいた。

 片手に鞄を持ち、家々から聞こえる声を浴びながら、20分程も歩いた頃、ラジーニは自宅に着いた。

「ただいま」

 その声に、家の奥から応えがあった。小走りの足音も。

「お父さん、お帰り」

「うん。ただいま、ジェームズ」

 ラジーニはしゃがみ、子供の背に手を回した。

「車の音がしなかったけど?」

 子供に後れて、妻の声がした。

「あぁ。教院に置いとかせてもらった。ビールを飲んだんでね」

「ハザウェイ教父と仲がいいからって、迷惑ばかりかけてたら……」

 ラジーニは立ち上がり、妻の背にも手を回した。

「いや、これからかける迷惑に比べたらな」

 ラジーニが腕を緩めると、妻は一歩下がり、ラジーニの顔を凝視めた。

「何か起こるの?」

「いや、わからない。ゲーランは深刻な顔をしていたが」

「また、あのお話をしてあげなきゃいけない?」

「そうだな。頼むよ、ナオミ」

 ナオミはうなづいた。

「でも、食事を先にね」

 そう言うと、奥のキッチンに戻っていった。


 * * * *


 食事を終え、三人はリビングにいた。ラジーニとナオミはソファーに座り、ジェームズはテーブルにスレートとノートを広げていた。

「新年度が始まる少し前に、私の家族はこの街に引っ越してきたの。憶えてる?」

「皆、大騒ぎだったな。セヴァロと私も含めて。かわいい女の子だって」

 ナオミは微笑んだ。

「それは理由の半分よね? もう半分は、先代が何を言うのかを知っていたから」

「あぁ。まぁ、この街に引っ越して来たことの洗礼みたいなものだからな。子供にとっても親にとっても」

 ラジーニはナオミの言葉を聞きながら、思い出していた。


 新年度が始まった最初の日曜学校だった。ナオミが初めて教院に顔を出した日でもあり、それっきりの日でもあった。教室の後ろでは、ナオミの両親も眺めていた。

 日曜学校には、この街の子供たちが皆、顔を出していた。

「さぁ、天の書トリロジーのおさらいをしよう」

 先代教父はそう言った。

「さて、ナオミ。神の戒めは言えるかな?」

 少女は、多少顔を赤らめながら、戒めを暗唱した。緊張もあり、また誇らしい気持ちもあったのだろう。

「よく暗唱できたね、ナオミ」

 先代はうなづきながら言った。

「では、一つ質問をしよう」

 その声にナオミは、さらに顔を紅潮させながら、勢いよくうなづいた。

「なぜ、自らを殺めてはいけないのだろう?」

「神様にいただいた大切な命だからです」

 ナオミがそう答えると、教室に静かな笑いが広がった。子供たちは、この先のやりとりを知っていた。引っ越して来た家族で、この教院に、あるいは日曜学校に通い続ける人は多くはない。

「うん。そうだね」

 先代の声に、ナオミはますます顔を紅潮させていた。

「でも、なぜ神様からいただいたから大切なのだろう?」


「あの時、先代が何を言っているのか、正直わからなかった。だって、そうでしょう? 他の教父は、そんなことを言わないもの」

「そうだろうね」

 ラジーニは静かに答えた。


「他の戒めも見てみよう」

 先代はナオミの目を凝視めて言った。

「労苦を与えるものを敬わなければならない。労苦から逃れようとしてはならない。自らを殺めてはならない」

 そこで先代は一旦言葉を区切った。

「これは、他人の上に立つ者にとって、実に都合のいい戒めだね」

 ナオミは何も言葉にできずにいた。

「戒めだけではなく、少し中身を見てみよう。こういうことが書かれている。この世は、天の国における富を築くためにある。労苦こそが天の国における富となる。この世の富は、天の国における負債となる」

 ナオミは教室の後ろにいる両親を振り返った。父親は口を一文字に閉ざし、母親は手を口に当てていた。

「なぜ、労苦であることが前提なのだろう? 労苦であるなら、それから逃れる方法をなぜ否定するのだろう? そして、労苦を与えるものという言葉を考えると、人間の社会の階層に思い至るだろう。なぜ、人間の社会はそうなっているのだろう?」

「教父様」

 部屋の後ろから声がした。ナオミの母親の声だった。

 教父は静かに片手を挙げ、その声を制した。

「類人猿の社会にもリーダーがいて、序列があることは知っているかな? つまり、人間もその縛めからいまだに逃れられていないのだとしたら、どう思うかね?」

「教父様!」

 ナオミの母親の強い声が教室に響いた。

「この話は、ここまでにしておこう」

 先代は微笑んだ。


「どれだけ驚いたかわかる?」

「本当にわかるとは言えないな。私たちは、私もセヴァロもそういう問答を先代と日頃からしていたから」

 ナオミはうなづいた。

「それで、両親は先代と話して、家族の誰ももうあの教院には行かなかった」

「あぁ。だけど、セヴァロはその頃にはもう教父になり、教院を継ぐ決心をしていたらしい。科学のすぐ隣にあるこの街には、こういう教院が必要なんだって言っていた」

「まったく。大学院に入ったら、あなたたちがいたんだもの。いろいろと驚いたわ」

 ラジーニは声を挙げて笑った。

「セヴァロは神学部だったけどね」

「でも、私が理系に進んだのは、先代の言葉が残っていたからだと思うわ」

「まぁ、印象には残るだろうな。僕もやっぱり先代の言葉の影響を受けていたと思う。それで博士号も取ったけど。僕には閃きもないし、閃きを待つ堪え性もない。だからと言っては他の人に失礼になるだろうけど、それで科学ジャーナリストになったようなものだ」

 ナオミはラジーニの目を強く覗き込んでいた。

「だとしても、ゲーランはあなたを必要としているのよ」

「そうだな。うん。そうだ。ありがとう、ナオミ」

 ナオミの目が緩み、笑みを浮かべた。


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