2−5: 妻と
ラジーニはパブから出ると、夕日に目をやった。
「ビールを、飲んだな」
そう呟くと、教院へと足を向けた。
礼拝堂では、セヴァロが夕の祈りを捧げていた。
「セヴァロ、車を置いとかせてもらっていいかな」
礼拝堂の入り口からラジーニは声をかけた。
セヴァロは振り向かず、また祈りを途切れさせることもなく、右手を軽く挙げた。
ラジーニは入り口を静かに閉めると、自宅へと歩き始めた。
教院から一本裏の道に入ると、通りの両側には街路樹が植えられ、枝がアーチとなり、通りを覆っていた。通りに面して何件もの平屋、あるいは二階建ての家が並んでいた。
片手に鞄を持ち、家々から聞こえる声を浴びながら、20分程も歩いた頃、ラジーニは自宅に着いた。
「ただいま」
その声に、家の奥から応えがあった。小走りの足音も。
「お父さん、お帰り」
「うん。ただいま、ジェームズ」
ラジーニはしゃがみ、子供の背に手を回した。
「車の音がしなかったけど?」
子供に後れて、妻の声がした。
「あぁ。教院に置いとかせてもらった。ビールを飲んだんでね」
「ハザウェイ教父と仲がいいからって、迷惑ばかりかけてたら……」
ラジーニは立ち上がり、妻の背にも手を回した。
「いや、これからかける迷惑に比べたらな」
ラジーニが腕を緩めると、妻は一歩下がり、ラジーニの顔を凝視めた。
「何か起こるの?」
「いや、わからない。ゲーランは深刻な顔をしていたが」
「また、あのお話をしてあげなきゃいけない?」
「そうだな。頼むよ、ナオミ」
ナオミはうなづいた。
「でも、食事を先にね」
そう言うと、奥のキッチンに戻っていった。
* * * *
食事を終え、三人はリビングにいた。ラジーニとナオミはソファーに座り、ジェームズはテーブルにスレートとノートを広げていた。
「新年度が始まる少し前に、私の家族はこの街に引っ越してきたの。憶えてる?」
「皆、大騒ぎだったな。セヴァロと私も含めて。かわいい女の子だって」
ナオミは微笑んだ。
「それは理由の半分よね? もう半分は、先代が何を言うのかを知っていたから」
「あぁ。まぁ、この街に引っ越して来たことの洗礼みたいなものだからな。子供にとっても親にとっても」
ラジーニはナオミの言葉を聞きながら、思い出していた。
新年度が始まった最初の日曜学校だった。ナオミが初めて教院に顔を出した日でもあり、それっきりの日でもあった。教室の後ろでは、ナオミの両親も眺めていた。
日曜学校には、この街の子供たちが皆、顔を出していた。
「さぁ、天の書トリロジーのおさらいをしよう」
先代教父はそう言った。
「さて、ナオミ。神の戒めは言えるかな?」
少女は、多少顔を赤らめながら、戒めを暗唱した。緊張もあり、また誇らしい気持ちもあったのだろう。
「よく暗唱できたね、ナオミ」
先代はうなづきながら言った。
「では、一つ質問をしよう」
その声にナオミは、さらに顔を紅潮させながら、勢いよくうなづいた。
「なぜ、自らを殺めてはいけないのだろう?」
「神様にいただいた大切な命だからです」
ナオミがそう答えると、教室に静かな笑いが広がった。子供たちは、この先のやりとりを知っていた。引っ越して来た家族で、この教院に、あるいは日曜学校に通い続ける人は多くはない。
「うん。そうだね」
先代の声に、ナオミはますます顔を紅潮させていた。
「でも、なぜ神様からいただいたから大切なのだろう?」
「あの時、先代が何を言っているのか、正直わからなかった。だって、そうでしょう? 他の教父は、そんなことを言わないもの」
「そうだろうね」
ラジーニは静かに答えた。
「他の戒めも見てみよう」
先代はナオミの目を凝視めて言った。
「労苦を与えるものを敬わなければならない。労苦から逃れようとしてはならない。自らを殺めてはならない」
そこで先代は一旦言葉を区切った。
「これは、他人の上に立つ者にとって、実に都合のいい戒めだね」
ナオミは何も言葉にできずにいた。
「戒めだけではなく、少し中身を見てみよう。こういうことが書かれている。この世は、天の国における富を築くためにある。労苦こそが天の国における富となる。この世の富は、天の国における負債となる」
ナオミは教室の後ろにいる両親を振り返った。父親は口を一文字に閉ざし、母親は手を口に当てていた。
「なぜ、労苦であることが前提なのだろう? 労苦であるなら、それから逃れる方法をなぜ否定するのだろう? そして、労苦を与えるものという言葉を考えると、人間の社会の階層に思い至るだろう。なぜ、人間の社会はそうなっているのだろう?」
「教父様」
部屋の後ろから声がした。ナオミの母親の声だった。
教父は静かに片手を挙げ、その声を制した。
「類人猿の社会にもリーダーがいて、序列があることは知っているかな? つまり、人間もその縛めからいまだに逃れられていないのだとしたら、どう思うかね?」
「教父様!」
ナオミの母親の強い声が教室に響いた。
「この話は、ここまでにしておこう」
先代は微笑んだ。
「どれだけ驚いたかわかる?」
「本当にわかるとは言えないな。私たちは、私もセヴァロもそういう問答を先代と日頃からしていたから」
ナオミはうなづいた。
「それで、両親は先代と話して、家族の誰ももうあの教院には行かなかった」
「あぁ。だけど、セヴァロはその頃にはもう教父になり、教院を継ぐ決心をしていたらしい。科学のすぐ隣にあるこの街には、こういう教院が必要なんだって言っていた」
「まったく。大学院に入ったら、あなたたちがいたんだもの。いろいろと驚いたわ」
ラジーニは声を挙げて笑った。
「セヴァロは神学部だったけどね」
「でも、私が理系に進んだのは、先代の言葉が残っていたからだと思うわ」
「まぁ、印象には残るだろうな。僕もやっぱり先代の言葉の影響を受けていたと思う。それで博士号も取ったけど。僕には閃きもないし、閃きを待つ堪え性もない。だからと言っては他の人に失礼になるだろうけど、それで科学ジャーナリストになったようなものだ」
ナオミはラジーニの目を強く覗き込んでいた。
「だとしても、ゲーランはあなたを必要としているのよ」
「そうだな。うん。そうだ。ありがとう、ナオミ」
ナオミの目が緩み、笑みを浮かべた。