5−5: T
「ラジーニ、あなた一昨日から寝ていないでしょ?」
書斎の入口からナオミが声をかけた。
「あぁ」
ラジーニはキーボードを叩きながら答えた。
「体が保たないわ。少しくらい寝ないと」
「不眠ってわかるか、ナオミ」
ラジーニは振り向かずに言った。
「眠れないなら、薬を貰ってくるから」
「不眠のね、一種には、寝付けないってのがあるんだ」
「でも体が保たない…… 一日くらい寝ても」
「いや、いらない。どうせ10日くらいだ。たしか、僕の昔の最長記録タイだな」
「眠れないとどうなるの?」
そう聞かれて、ラジーニは椅子を入口に向けた。
「まず耳鳴りがする。これは大したことじゃない」
「もう耳鳴りはしているの?」
ナオミの横には、ジェームズが立っていた。
「あぁ。それでその次は、視覚の処理が少しおかしくなる」
「幻覚が見えるの?」
「いや、どう言えばいいのかな。視覚の処理がどっかで遅れる感じかな。でもこれもそう大したことじゃない」
「その次は?」
「んー、体が硬ばる感じかな。その後は、あまりものを考えなくなる。話していてもほとんど反射で言葉が出てくるような感じかな」
「ほら」
ナオミは笑って言った。
「そうなったら、ちゃんと書くこともできないんじゃないの?」
「ふむ」
ラジーニは一旦キーボードに体を向け、いくつかキーを叩いてから、またナオミに向き直った。
「確かにそうだ。少し休むよ」
そう答えた時、ポンと着信音がなった。その音を聞き、ナオミもディスプレイの前に寄った。
ラジーニがキーを叩くと、クラーク・レイモンが現われた。
「やぁ、テイガー博士。顔色、悪いんじゃないか?」
「あぁ。今、妻のナオミにたしなめられてね。少し休もうと思っていたところだ」
「そうか。なら、これを観て、これだけを書いてから休んでくれ」
レイモンがディスプレイの向こうで何か操作をすると、こちらのディスプレイにウィンドウが開いた。そこでは一人の若者が、"They Watch You" とスプレーで書き、また "TWY" とも書いていた。そこに老夫婦と思える二人が近付き、その男性が "T" と書いてもいた。
「これでいい」
"T" と買いた男性はそれを見てうなずいた。
「皆に伝えなさい。Theyであり、Theeであり、君自身の主格であるThouだ」
そこで動画の再生は終った。
「教院のおじいちゃん!」
ジェームズが声を挙げた。
レイモンが映っているウィンドウが前面に出てきて言った。
「この老夫婦、見間違いじゃなければ、昨日の朝インタビューをした二人なんだ。」
レイモンがまた何か操作をすると、別のウィンドウが現われた。
「だとするなら、こう伝えて欲しい。『彼ら』が問題なのではない。これを見ている『あなた』自身の問題なのだと。私に何ができるのかはわかない。だが、私は私にできることをしよう。ラジーニとセヴァロによろしく伝えてくれ」
そう言うと、老人は妻の手を取り、会釈をすると歩み去って行った。
しばらくカメラは老夫婦を追った。
「あー、テイガー博士、知り合いかい?」
そこでその動画は終った。
再びレイモンが映っているウィンドウが前面に現われた。
「同じ人だよね? 知り合いかな?」
「知り合いどころか…… セヴァロ・ハザウェイの、この街の教院の先代だ」
「そうか。『君自身の主格であるThouだ』なんて、ハザウェイ教父が言いそうな言葉だとは思ったんだ。"The EAD" でしか知らないけど」
レイモンはディスプレイの中で一人でうなずいていた。
「それでね」
そうレイモンは続けた。
「そっちの動画だけど、撮られてアップされたのが昨日の夕方近く。それから閲覧と拡散が凄くてね」
またレイモンが操作し、新しいウィンドウが開いた。そこにはいくつもの静止画が映っていた。そのどれにも大きく "T" と書かれていた。
「あちこちに書かれてる。教会のシンボルより多いぞ、こりゃ。それに、そのお陰かどうかはともかく、荒れかけた世の中が落ち着いてきている」
ラジーニは椅子に深く腰掛け直し、背をゆったりと預けた。
「まいったな、こりゃ。なぁ、ナオミ」
ラジーニは微笑んで言った。
「ほんと。おいしいところを取られたわね」
二人は目を合わせ、笑った。
「というわけだ、テイガー博士。とりあえず、これだけ書いたら、少しは安心して休めるんじゃないかな」
「あぁ、わかった。そうしよう。ナオミもそれでいいだろ?」
「えぇ」
そう言って、ナオミは窓際に歩いて行った。
「でも、最期が来るのね」
ラジーニの隣りではジェームズが残り机を叩いていた。
「おじいちゃん何かあったの? ジェームズおじいちゃんは?」