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救いなき終わり


「大変だ! 太一!!起きろ!」

 学の叫び声で俺はすぐさま意識を覚醒させる。

 ぼんやりとする思考を頭を振って、無理に動かす。

 何があってもすぐに対応できるように壁に背を預けて寝ていたのだが、疲労と寝不足が祟ったのか思いの外ぐっすり眠ってしまったようだ。

 何が起きたのかを学に尋ねると、正面の門の前に【餓鬼】の群れが押し寄せているのだと言う。

「光芒比丘尼さんは!?」

 学は重々しく首を横に振る。

「それがどこにも居ないんだ。探し回っても見つからない」

 居ない? この状況にどこに言っているんだ、あの人は。

 俺たちを保護してくれていたんじゃなかったのか。

 会って間もないが、そんな裏切られたような思いを抱いてしまう。予想以上にあの人を依存していたのかが改めて思い知らされた。

「他の子はこのことを?」

「知ったら、パニックを起こすぞ。昨日のアレが皆で心を閉ざしちまってる。まともな思考してんのはオレと太一たちくらいのモンだ」

 確かにあの惨劇を見て、正気でいられる人間は少ないだろう。俺だって、正二と三葉が居なかったら間違いなく壊れていた。

「取りあえず、学は皆を一ヶ所に集めていてくれ。いざと言う時に裏門から逃げられるように用意を頼む」

「太一は?」

「門がどのくらい保ちそうか見てくる」

 俺はそう言うと駆け出して、正面の門へと向かう。

 門の側まで来ると、俺は小さな耳障りな音が響いていることに気が付いた。

 ガリガリとまるで硬い鉄と鉄を擦り合わせて削るようなそんな歪な物音。

 警戒心を強めながら、俺は近寄って観察してみる。

 すると、門の内側に貼り付けられた一枚の長方形に切り取られた和紙を見つけた。

 達筆で書かれた文字がびっしりと書き込まれていて、内容を読み取ることはできなかったが、それがお札だということは分かった。

 恐らくはこのお札が光芒比丘尼さんが言っていた結界なのだろう。

 しかし、よく見ればお札の端が耳障りな音と共に黒ずみ、ボロボロと崩れ落ちている。

 その崩れ落ちる速度は次第に勢いを増して行き、まるで燃え広がるようにお札を侵食する。

「これは……!」

 声を上げようとした時にはすでにお札は崩れて消し炭となった。同時に門が開け放たれ、外から異形と化した赤黒い人型の生き物が大量に押し寄せてくる。

 服であったと思われるボロ切れを身体に貼り付け、一様に筋肉の肥大した肌が赤黒い色彩を放っていた。顔のパーツも普通の人間に比べ、「多すぎる」ものと「少なすぎる」ものとが居たが、どの【餓鬼】も耳まで避けた口と頭部に突き刺さった銀色の大きな針だけは同じだった。

 悲鳴すら上げることもできず、俺は【餓鬼】どもに飲み込まれた。

 死を覚悟する暇もなく、呆然としていた俺だったが、不思議なことに一匹たりとも俺に噛み付こうとせず、ただ俺の身を拘束しただけだった。

「え……?」

 奇妙なことに【餓鬼】は涎を垂らしながらも、俺に危害を加えることなく、手足を押さえつけて担ぎ上げた。

 胴上げのような格好で持ち上げられた俺はただ青空を見上げることしかできない。

 しかし、朝日を遮るように巨大な何かが俺の上に浮かびながらやってきた。

 大きさは有に三メートルを越す巨体。上半身は女性で腰の部分からは流線型にカーブしており魚類のような形状になっている。

 それは『人魚』としか形容できない姿をしていた。ただ、うろこの代わりにびっしりと上半身の胸元と下半身全てに生えているのは鋭く尖った銀色の針だ。

 だが、俺が一番驚いたのはそこではなかった。

 その『針の人魚』の顔。針と同じ銀色の髪を風にそよがせてこちらを見ているその顔は俺がよく知る人物のものだった。

 『針の人魚』は俺のクラスメイトの南原香奈子と同じ顔をしていた。

 脳が理解を拒絶した。意識が思考を放棄した。

 目の前に居るこの化け物が何故南原さんと同じ顔をしているのか考えたくなかった。

 「そう」であってたまるか。「そう」である訳がない。「そう」であってほしくない。

 けれど、俺の唇はその名前を呼んでしまった。

「なん……ばら、さん……?」

「遅イわ。神田クん、貴方特待生としテノ自覚ガ足リテイないンジャナいかシラ」

 『針の人魚』は俺の知らない妖艶な笑顔で、俺のよく知る台詞を吐く。

 それを聞いた俺は、目の前にいるのが南原さん『だった』ものと確信してしまった。

 脳髄に鈍い痛みが加速しながら広がっていく。

もう取り返しがつかないのだ。俺の幸福だったあの日常にはもう戻れないのだ。

……あの温かい世界はもう帰って来ないのだ。

『針の人魚』の笑みを見ながら、俺はそう悟った。

「今日ノ約束覚えテイるカシら」

「やく、そく……」

「二人きリでオ勉強すルの。私、楽しミデ眠レナかっタワ」

 うっとりとした恍惚こうこつの表情で俺に手を伸ばしてくる『針の人魚』。

 俺はそれを放心して見ていた。

 視界に映る映像がどこか他人事のように思えた。

 自分自身に感情移入ができず、まるでドラマか映画のワンシーンのようにしか感じられなかった。

「ば、化け物が……化け物が入ってきた……助けて下さい光芒比丘尼様ああああ!!」

 誰かの叫び声が遠くで聞こえる。

 襲われているのだろう。【餓鬼】が寺の中まで侵入したのだ。無理もない。

 『針の人魚』の手が俺の頬を撫で上げる。

 銀色に染まった瞳が俺の網膜から、脳を射抜くように見つめている。

「大丈夫。大丈夫ダよ、神田クん。ほラ、私がこコニ居るカラ」

 優しく、いつくしむような手付きだ。心が安らいでいくような甘い撫で方。あれ、これは南原さんだ。

 どうして南原さんがここに?

 ああ、そうか。一緒に勉強するって約束したからか。

 あれ? でも、ここどこだっけ?

 頭の中がぐちゃぐちゃだ。もう何も考えたくない。感じたくない。

「うああああ!!何だ、あれ……嫌だ。もう嫌だあああああ!!」

「お母さあああああん! お母さああああん! 助けてよおおおおおおお!!」

「来るなああああ!!ば、化け物ぉ……こっちに来るなああああああ!!」

 騒がしい声がする。うるさいな。俺はもう何も考えたくないのに。

「太一! 無事か!? 大丈夫なのか!?」

 誰かの声が駆け寄ってくる足音と共に耳に響く。

 大丈夫……? 大丈夫って何がだ?

「ウるさイ。虫ガ沢山居ルわネ。早ク掃除しなイと」

 目の前に居る南原さんは僅かに顔をしかめると、指揮者のように指を振る。

 すると、一際大きな絶叫が俺の耳に飛び込んできた。

 ――絶叫……? 誰の声……? 何でここで?

「太……一!!ショウ……君とみっちゃん……は頑丈そうな蔵に鍵掛けて……避難させといた、ぞ……!!」

 息も絶え絶えの、けれど聞き覚えのある必死な声。

 この声は学だ。学の声だ。でも、どこに居る。

「おま……の、きょ…うだ……はぶ、じだ……」

俺の兄弟――?

かすれて萎んだような言葉だったが、しっかりと俺の耳には届いた。

正二と三葉。そうだ、二人は。

どこか遠くのように感じていた俺の意識が再び、舞い戻ってくる。

頬に当てられた手のひらを払い除ける。

「ナ、何で手ヲ払うノ……? か、神田クん……」

南原さんの姿がぐにゃっと歪んで、俺の視界は現実を映し出す。

目に映るのは銀色の髪と目を持つ三メートルほど、『針の人魚』。

そして、赤黒い【餓鬼】の群れと――それらが集まり、食い荒らしている何か。

どこを見回しても、学の姿が見えない。

 さあっと血の気が引いた。最悪の可能性が俺の脳裏に浮かんだ。

「離せ! 俺から手を離せ!!」

 必死でもがいて、俺を持ち上げている【餓鬼】どもの手から逃れようとする。

 どの【餓鬼】も俺を手のひらで押し上げているだけで、俺の衣服を掴んでいる奴が居なかったため、難なく地面へと降りられた。

 何かを食い荒らしている【餓鬼】どもの傍へと無我夢中で走っていく。

 奴らの隙間から見えたそれは……血に塗れ、無残に引きちぎられた親友の姿だった。

 右手と左足がなく、頭が斜めに食いちぎられ、これ以上にないほど残酷に解体されていた。

 今まで人生で感じたことのないほどの感情が頭の中を駆け巡る。

 それは絶望ではなく、煮えたぎるような殺意だった。

「お前らああああああああ!!俺の親友に触れるなああああああぁぁぁっ!!」

 泣き叫びながら、【餓鬼】に向けて渾身の力で拳を振るう。

 勝てる勝てないなど、どうでもよかった。ひたすら許せなかった。

 俺の大事な親友を貪り食うこの化け物どもが途方もなく許せなかった。

 だが、俺の拳は厚く硬いその皮膚にはばまれ、ろくな手応えも感じられないまま、痛みだけを受けた。

 俺はその痛みを無視して、殴り続ける。例え、指の骨が砕けようとも構わなかった。

 しかし、【餓鬼】は俺の方を向こうともしないまま、我関せずと学の死体に齧り付く。

「無駄よ。そノ子たチは私ガ与えタ命令以外ハ聞かナイワ」

 文字通り、宙を泳いで『針の人魚』が俺の傍まで下りてきた。

 針の爪が生えた指を動かすと、俺の周りを占拠していた【餓鬼】が道を空ける。

「……南原、さん。こいつらは貴女が操っているのか?」

 南原さんと呼ぶのに抵抗があったが、それ以外にどう呼べばよかったのか分からなかった。僕は涙を拭いながら聞いた。

「えエ、ソウよ。こノ子タチハ私の下僕。私ガ命令スれば、何だっテ聞く良イ子たチよ」

 その言葉を聞いて、俺はさらに尋ねた。

「だったら……こいつらを使ってこの寺を襲ったのは貴方の意思か!?」

 なまめかしく微笑みながら、『針の人魚』は首肯した。

「勿論。私ノ意思に決まっテイルじゃナイ」

 頭に血が上り、怒りで思考が焼け付きそうになるのをぐっと堪えて、さらに尋ねた。

「……何のために?」

「神田クんに会ウたメよ。約束しタデしょウ? 一緒ニお勉強スるッテ」

「だったら、何でこの寺に居る人たちを……学を襲わせた!?」

 『針の人魚』は大きく瞬きをして驚いた表情を作る。まるで俺の言っていることがまったく理解できないというように。

 そして、おもむろに手を叩く。

 すると、頭部に針が刺さった赤黒い【餓鬼】どもが寺に居た女の子の一人を連れて来た。

「止めてぇ! 助けて、助けて、助けてぇ!!」

 叫び声を上げてじたばたと暴れているが、がっちりと【餓鬼】に足を掴まれているために逃げることはままならない。

「お前、何を……!?」

 俺の言葉まで言い終わる前に『針の人魚』は口を開き、喉の奥から銀の針を飛ばした。

 針は吸い込まれるように子供の胸に突き刺さる。

 深々と突き刺さった針の尻から、青いシャボン玉のようなものが生まれ、リンゴほどの大きさに膨らんでいく。

 『針の人魚』は口をさらに大きく広げると、青いシャボン玉ようなものは引き寄せられるように『針の人魚』の口に吸い込まれた。

「神田クん。『ご飯』ヲ食べルのがソんナにオカしなコトかシしラ?」

 女の子は力が抜けたようにぐったりと、ゴム人形のように首を前に倒す。

 生気がないその姿は彼女が息絶えたことを俺に理屈ではなく、感覚で教えてくれた。

「あの子に何をしたんだ!?」

 ばっと振り返って、『針の人魚』を見ると指で唇を拭っていた。

「魂ヲ奪っタの。私ハそレしか食べラレなイカラ」

「たまし、い……?」

「美味シイわヨ。ああ、神田クんハ食べナイデあげる。私ノ愛スる人だカラ」

 嬉しそうにそう言って笑う『針の人魚』を見て、俺は確信した。

 もう南原さんだった時の正気はこの化け物には残っていないのだと。

 あれだけ膨張していた怒りや憎しみすら急激に消沈していく。

 もはや、こいつは人語を喋る化け物でしかないのだ。いくら南原さんの顔をしていても自分の食欲を満たすために人を襲う【餓鬼】だ。

 ただの獣と同じだ。もう根本的なところで人間とは違うのだ。

「神田クん。愛シてルよ」

 両手で俺の顔に触れようと『針の人魚』は手を伸ばそうとしてくる。

 俺はそれを拒絶するようにまた手で払った。

「何デ……何でそんナ冷たクスるノ?」

「お前が南原さんじゃなく、……ただのおぞましい化け物だからだよ」

 傷ついたような表情は俺の心を微かも揺らさなかった。

 こいつは学の命を奪った【餓鬼】どもの首領だ。

 人を食い物としか見ていない化け物なのだ。

「そウ……約束破ルんだ。じゃア、――」

 ぎょろっと目を皿のように開き、口を大きく開けた。

「針千本飲オオオオおおおおマスうウウううううう」

 喉の奥から大量の針が顔を見せる。酸素すら通す隙間すらないのに『針の人魚』の甲高い声は周囲に不快なまでに響き渡る。

 俺は逃げることはしなかった。そんなことは無駄でしかなかったし、この『針の人魚』に背を向けることが嫌だった。

 恐怖はあった。でも、それ以上に学を殺したこの化け物に屈したくはなかった。

 最期まで俺の兄弟と俺のことを気に掛けてくれた親友。

 ごめん、学。せっかく、お前が命懸けで俺の目を覚まさせてくれたっていうのに。

 頭の中で振り返るのは昨日の学の台詞だった。

『太一が太一が思ってる以上にすげー奴だよ。オレが保障する。お前だったら、この訳分かんねー状況もきっと何とかしちまうよ』

 俺、特別でも何でもなかったよ。

 何もできないただの無力な子供でしか――。

『ショウ君とみっちゃんの前でも同じことが言えるのか?』

 ……駄目だ。まだ諦められない。

 俺はどうなってもいい。でも、二人は護らないと。

 ――だって、俺はお兄ちゃんだから。

 大量の針が近距離で放たれる。避けるどころか反応することさえできない。

 俺の意識はそこで止まった。

 

******


 いや、止まったのは俺の意識ではなく、世界の方だった。

 俺を身体中を串刺しにせんとばかりに空中に分散された銀色の針。

 それらが全て、微動だせずに空間に固定されたように動かない。

 ……何だ? 何が起きたんだ?

 無音の世界で俺は呆然と立ちすくむ。

 『針の人魚』も口を開いたままの姿勢で固まっていた。

時間が止まっているのか、そう口にしようと思ったが声が出ない。それどころか、唇さえ動いてくれない。

俺自身も止まっていて、思考だけが肉体から乖離かいりして動いているようだった。

それを確認している間に左胸、丁度心臓がある位置から真っ白く発光する球体が音もなく出てきた。

白く発光しているという点を除くと、『針の人魚』に食われた女の子の魂と酷似していた。

その輝く球体はさらに明るさを増すと、砕け散る。

えっ、と驚いた瞬間、砕けた光が俺の身体に纏わり付き、形状を変えていく。

白い光は輝きながら、俺の身体を覆い尽くし、鎧のような形を形成し始めた。

手や足は当然、顔までも光の鎧が俺を覆った時、止まっていた針が動き出す。

鈍い音が連続して続き、鼓膜を破るような音が滝のように流れ込んで来た。

同時に後ろにけ反りそうになりそうな衝撃が俺を襲った。

「ぐう……っつぅ……」

 両手で顔に来る針を防ぎ、気合と根性としか言えない力で辛うじて、倒れずに踏ん張った。それは、台風の時に突風に乗って叩きつけてくる大粒の雨のようだった。

 強い衝撃で押されたとはいえ、身体に針が刺さることはなかった。

「な、何よ、そレ……」

 針の豪雨を耐えきると、唖然とした『針の人魚』の顔が目に飛び込んでくる。

 俺も自分の身体を改めて見回した。

 真っ白い陶器のような色。緩やかなカーブをえがいて節々を覆う東洋風な意匠。神々しくも、生命の息吹を感じさせるその鎧は仏像を連想させた。

「これは……!!」

「それが『代仏装兵』の力たる鎧です」

 声のした方に視線をやると、光芒比丘尼さんが門から現れた。

「光芒比丘尼さん……貴女一体今までどこに!!」

 この人が居てくれたら学は死ななくても済んだかもしれないのに。

 勝手に信頼した俺の逆恨みかもしれないけれど、それでも割り切れない思いが胸の内から湧き上がってくる。

「輪廻の輪を解脱できる者だけが成れる存在……それが『代仏装兵』です。神田様が私を当てにしていては覚醒を望めなかったのです」

 【餓鬼】に食い散らかされた学を申し訳なさそうに一瞥した。

「だからって!」

「私ヲ無視シなイでよ、神田クん」

 光芒比丘尼さんへ文句を言う前に、正面に浮いている『針の人魚』がその恐ろしいまでに鋭利に尖った爪を振るう。

 内心で舌打ちをしながら、俺は後ろへと跳んで下がった。

 まずはこの『針の人魚』をどうにかしないと、光芒比丘尼さんに文句を言うどころではない。危機的状況は未だ進行中なのだ。

 『針の人魚』は俺を見定めるように眺める。そして、爪を指揮棒のように振った。

「ガガァァ……!」

「ゴガガァァ……!」

「ガゴアァ……!」

 潰れたヒキガエルのような声としか形容できない酷く生理的嫌悪を抱かせる鳴き声をあげて、周りで一歩引いて大人しくしていた【餓鬼】が数体ほど俺を囲うように襲い掛かってくる。

 喧嘩慣れしていない俺はとにかく脇から来る【餓鬼】を迎え撃つべく腕を薙いだ。

 思考回路はある程度はあるのか、俺の腕を潜るようにかわしてその筋肉の膨張した腕を俺に伸ばす。

 しまったと後悔しつつも、迫ってくる拳は俺の顔面を穿たんと近付いてくる。他の【餓鬼】もそれを好機とばかりに口を開き、牙を剥き出しにして走って来た。

 衝撃を覚悟して、俺は歯を食い縛った。

さっきの針の豪雨にも耐え切れたのなら、この【餓鬼】どもの攻撃も防げるはず。そんな楽観のような甘い考えが頭の中にはあった。

 だが、現実は俺の予想を遥かに上回った。

 耐えられるどころか、そもそも俺の身体には何の衝撃も訪れなかった。

「アギイィィィィィィ」

 殴ったはずの【餓鬼】の腕が俺の身体を覆う白い鎧に触れた瞬間、焼きただれて溶け出した。

 アイスキャンディーが熱したフライパンに触れた時のようにどろどろと液状に地面にこぼれ落ちる。そして、落ちた端から、溶けた液体は蒸発するように消滅していった。

 他の方向から俺に噛み付こうとした【餓鬼】も同じように鎧に付着した部分から溶けていっている。

 俺が疑問を口にする前に光芒比丘尼さんの声がした。

「『代仏装兵』の鎧は仮にも御仏の一端です。低級の『食肉種』の【餓鬼】ならば触れただけで浄化してしまうのは当然ですよ」

 光芒比丘尼さんも【餓鬼】に囲まれているものの無事のようだった。【餓鬼】は傍に寄ろうとするも、見えない壁に阻まれるように一向にその距離は縮まらない。

彼女の一指し指と中指に挟んだお札が門に貼ってあったものと同じことから、多分結界を張って防いでいるのだろう。

「……貴女には後で言いたいことがたくさんあります」

 したり顔で俺に解説をしてくる光芒比丘尼さんを睨んでから、蒸発していく【餓鬼】を見た。

 苦悶の表情を浮かべながら溶けていく彼らは元は人間だった。それが化け物にされ、『針の人魚』に自在に操られ、こうやって苦しみながら溶けて消えようとしている。

 あまりにも理不尽で悲惨すぎる。

 彼らがこんな惨たらしいことをされなければならないような人生を歩んできたとでも言うのだろうか。

「なんば……いや、『針の人魚』。お前の仲間が死んだぞ。何も思わないのか?」

「ソウね。モうコノ子たチじゃア、神田クんに触レるコトさえ、デきナイようネ。本当にツカえないワ」

 あまりにも当たり前にそう言い放つ。

 同族の死をいたみもしない。それどころか、まるでゴミでも見るかのように蔑む。

 やっぱりこの化け物は南原さんではない。彼女は生徒会長に選ばれた時、自分を増援してくれた人や支えてくれた人たちに心から感謝をして涙を流すようなそういう女の子だった。

 自分がトップに立っても、決して人を見下すことなく、周囲の人たちのために頑張れる優しい人だった。

 だからこそ、クラスでも好かれていたし、慕われていた。

 この化け物がこれ以上、南原さんを貶めるのを見ていたくない。

「なら、下僕なんか捨てて、さっさとかかって来いよ。それともこいつら見たいに俺に触れて溶けるのが怖いのか?」

 俺は嘲るような声音で笑う。

「そんな挑発に乗るトデモ思っテいルの? 神田クん」

 言葉ではそう言いながらも、甲高い声は少しだけトーンを落とした。

「その名前で呼ぶなよ。醜い化け物風情が」

「……何デすッテ? ……私ガ、醜い?」

 さっきよりも食い付いてきた。見た目のことを侮辱されたのが怒りの琴線に触れたのだろうか。

 それならば、もっとそこを突いてやる。

「ああ、醜いな。針なんかで飾り付けをしているのがまたそれを強調してるぞ? 薄汚い魚女。その醜悪な姿を晒さないように濁った海にでも潜んでいろ!!」

「言っタワね……絶対許さナイ」

「文句があるなら、かかって来いよ。化け物!」

 俺は身構え、いつ襲い掛かられても対応できるようにしておく。

 『代仏装兵』になった俺がどれほどの強さなのかは分からないが、俺がやるしかないのならやってみせる。

 だが、『針の人魚』は身をひるがえし、俺に背を向けた。

 首だけを動かして、にやりと嫌らしい笑みを浮かべる。

「神田クんの弟サンたチ、コのお寺ノ蔵に居ル、とかアノ虫けラ言っテイタわね」

 その言葉に俺の体中の血が凍ったような錯覚がした。

 まさか……こいつ……。

 俺が好意を抱いた女の子と同じ顔で、彼女なら絶対に浮かべない愉悦に満ちた邪悪な笑顔でこう言った。

「オ兄サんの責任ハ兄弟に取っテもらウとスるわ」

「や、止めろ!!」

「止めナイわ。私ヲ傷付けタ罰よ」

 手を鳴らした後、空中を泳ぐように飛行しながら、『針の人魚』は俺を置いて寺の奥の方へ向かって行った。

「クソッ!」

 悪態を吐いて、俺もその後ろを追おうとする。

 しかし、周りから今まで大人しく立っていた【餓鬼】どもが一斉に飛び掛かってきた。

 鎧に触れれば勝手に溶けていく【餓鬼】だが、一体が溶けきる前に次々と新しい【餓鬼】が行く手を阻む。

 こいつらでは俺を殺すことは不可能だが、時間稼ぎにはなると踏んだのだろう。

 どこまでも下劣で卑怯であれば済むのだ。あの化け物は!

「退けえええぇぇぇ!!」

 両腕を振り回し、寄って来る【餓鬼】を薙ぎ倒しながら俺は走り抜ける。

 喉が潰れそうなほどの怒号を漏らして、少しでも早く正二と三葉の元に駆け付けようとあがいた。

 それもこの寺を襲撃した全ての【餓鬼】が俺の邪魔をするべく、視界を覆い尽す。

 こんなことをしている場合ではないのに。急がなくてはならないのに。

 泣きそうになりながら、俺はひたすらがむしゃらに腕を振るう。

 頼みます。仏様。

 俺が本当に貴方の力をお借りしているというのなら、どうか俺の大切な家族を護らせてください。

 心の底から祈り続けて、【餓鬼】を押し退ける。

 他に何も要りません。必要なら命だって捧げます。

 だから、どうか……どうか、二人を護らせてください。

 不意に視界が開け、【餓鬼】の赤黒い肉の色以外の色彩が目に入った。

 振り返ると、最後の【餓鬼】が溶けて、蒸発している光景が見える。

 全ての【餓鬼】を倒したと気付いた瞬間、俺は脚に全神経を集中させ、走り出した。

 二人のこと以外の全てを忘却し、駆け抜けた。

 視界が一気に狭まり、自分を纏う速度が急激に増していく。

 本殿の裏まで来ると、『針の人魚』が蔵の扉を鋭い爪で切り裂いて、破壊しているところだった。

「随分、早イのネ。遅刻常習犯のあナタらシクなイわ」

 『針の人魚』は台詞と共に蔵の扉であっただろう切り裂かれた鉄の破片を俺に向けて投げつけてきた。

 南原さんを思わせる台詞に青筋が立つ。

 その破片を掴み取った俺は両手でぐしゃぐしゃに握り潰した。

「……お前はもう何も喋るな」

 静かに『針の人魚』を睨みつける。

 その時、蔵の入り口の方から、俺の聞きたかった声が聞こえてきた。

「お、お兄ちゃん……? そこに居るの?」

「ほ、本当? お兄ちゃん、お兄ちゃん!!」

 日光が開いた扉から差し込んで、動く二人の影だけが見える。二人とも無事だったようだ。

 ようやく僅かにだが、安心することができた。

「二人とももうちょっとだけ蔵の奥に隠れていて」

「な、何でそこに居るんでしょ? あたしもそっちに」

「駄目だ!」

 三葉が蔵の外に出てこようとするのを声で制止させる。

 そして、できるだけ優しい声で言った。

 『針の人魚』から一瞬たりとも目を離さず、口だけを動かす。

「お願いだよ。二人とも言うことを聞いて。俺が必ず迎えに行くから。約束するよ」

「本当?」

「お兄ちゃんがお前たちとの約束を破ったことが一度でもあったか?」

「一度もないよ。……分かった。でもすぐに迎えに来てね」

「ほら行くよ、三葉。……お兄ちゃん、何が起きてるのか僕には分からないけど、僕はお兄ちゃんのこと信じてるから」

 二人の小さな影がまた奥へと引っ込んでいくのを横目で見送って、『針の人魚』と対峙する。

 俺と正二たちが話している間に攻撃でも仕掛けてくるかと身構えていたが、『針の人魚』は銀色の髪を垂らして聞いているだけだった。

「……私とノ約束ハ破っタ癖に兄弟とノ約束ハ一度も破っタことないノね」

 ぽつりと放たれた言葉に俺は動揺しかけたが、それがこいつの狙いなのだろうと思いを振り払う。

「黙れ、化け物。この距離ならお前が二人に何かする暇は与えないぞ」

「神田クん。やっパリ私ハアナタのことが好キ……ずっト言えなカッタけド大好キ」

「そんな台詞で今さら俺が動揺するとでも思っているのか!?」

「……モう私の想イは届かナイのね。だったラ、私ハあなたヲ殺シテ、魂だけデモもらってイクわ」

 『針の人魚』の目蓋まぶたが眼下に潜り込むように消え、眼球が押し出される。口が耳の辺りまで裂けて、飛び出た目玉が左右にずれた。

次第に顔が前に引き伸ばされていき、南原さんの面影がなくなったその顔は、人間から魚へと変貌を遂げた。

銀色の髪は柔軟性を失い、硬質な針の束へと変化する。同時に下半身と上半身の胸元しか覆っていなかった針がそれ以外の露出した部分からも生えてくる。

 大きく開いた口から酸素を吸い、パンパンに膨らんでいく。首や腰のくびれがなくなり、腕が体内に沈んでいった。

逆立った針だらけの球体状の姿はハリセンボンを嫌がおうにも連想させる。

「それがお前の本当の姿って奴か……心の醜いお前にはぴったりの姿だな」

「神田クん、二人で一緒ニなりマしょう……」

 『針の人魚』、いや、巨大な『針千本』は人とも魚ともつかない歪んだ顔に笑みを浮かべながら俺へと突進してきた。

 どうする……避けるか?

 押し迫る『針千本』を前にして、俺は自分に問いかける。

あの剣山のような身体を受け止められる自信はなかった。

だが、すぐ傍には正二たちの居る蔵がある。下手にかわして、そちらに被害が出てしまったら本末転倒も甚だしい。

ここは鎧の強度を信じて、危険を覚悟で受けるしかない……!

両腕を開いて、腰を落とし、突進してくる『針千本』を受け止めるために構えた。

「抱キ締めテクれるノね。嬉しイわ……」

宙を滑るように突っ込んで来た針でできた塊は、強烈な衝撃を俺の全身に浴びせかかる。

逆立った針の一本一本が、俺を刺し貫こうと意志を持っているかのように回転して鎧を削る。

耳障りな金属の擦れるような音と共に火花が散った。

トラックにでも衝突したような痛みが骨まで染み込む。脳を衝撃が揺らし、視界が白く明滅した。

けれど、俺は負けない。

「おおおおおおおお!!」

 負ける訳にはいかない。護るものがある限り、俺は諦めたりしない。

 持てるだけの筋力を持って、『針千本』を抱き締め、押し潰そうとする。

 きりの回転する針を押さえつけ、全身で捻じ曲げる。

 鎧に押し付けられた針は回転速度を落として、形状を歪めていく。

「アガぎ……く、苦ジイ……」

笑みを浮かべていた『針千本』の表情が苦悶に変わっていった。

俺はそれを見て、かぶとの下で凄絶に笑った。

「俺に抱き締めてほしかったんだろ……苦しいほど抱き締められるなんて、本望じゃないか」

 密着していた鎧と針の押し合いは俺の鎧に軍配があがったようだ。

 力ずくで押し込んだ針は折れ曲がり、回転することもままならず、潰れて始めた。

 このまま、押し潰してやる……。

 不思議なことに身体から、痛みや衝撃が消えていき、代わりに力が奥から湧き上がってくる。

 これも『代仏装兵』の力なのか。だとしたら、存分に使わせてもらう。

「苦、ジイ……離しテ、離シてェ……」

「つれないこと言うなよ。お前が死ぬまで抱き締めてやるから」

「離、せエぇェェぇェェ!!」

 『針千本』巨大な口を開いた。その喉の奥からは競りあがってくる針の束が銀色にきらめいた。

「なっ……!」

ゼロ距離で射出された針に俺は反応できずに『針千本』から手を離し、遥か後方に吹き飛ばされた。

今度こそ、本当に意識が飛びかけたが、地面を削りながら、めり込んでいく衝撃で再び意識を呼び起こされる。

「死ネ死ね死ネ死ね死ねェええぇえええええエエエエ!!」

 追撃とばかりに全身の針を俺に目掛けて飛ばしてくる『針千本』。

 避けるにはあまりにも数が多く、広範囲すぎる針の大豪雨。

 覚悟を決め、あえて俺は針の豪雨の中を駆け抜けた。

 針を飛ばし続けてくる『針千本』の方へと。

「な、ナぁ……」

 驚愕とも恐怖とも取れる表情の『針千本』に固く拳を握り締める。

 鎧越しに感じるその針の衝撃を無視して、空中へと跳ね上がった。その高さは『針千本』の浮いている高さを簡単に凌駕する。

 俺の親友の命を奪い、俺の兄弟の命を狙い、そして何より俺を好きでいてくれた女の子を汚した化け物。

 その存在に対し、俺は個人的な憎しみや恨みではなく、人としてのあるがままの正しさを――『正義』を持って拳を振り上げた。

「消えろ……お前の存在を俺は決して許さない!!」

 剣山のような針に覆われていた『針千本』の身体は今や、文字通り裸だった。

 逆上し、身体中から生えていた針まで飛ばしたことが仇となったのだ。

「だ、黙レぇェぇェェェ!」

 最後まで取っておいた長い銀色の髪だった針が俺を撃墜すべく放たれる。他の針とは違い、追跡するようにうねる長い針は俺へとその切っ先を向けた。

 当然、空中に居る俺は避けることなど不可能。

「ハハハはははハハ……終わリよ、あナタ」

 そして、俺もまた避ける気など微塵もなかった。

 全ての針の先が俺の正面に集中しているのなら好都合だ。

 針ごと、『針千本』目掛けて、叩き潰せばいい。

「おおおおおおおおおお!!」

 雄叫びを叫びながら、振り上げた拳をそのまま振り下ろす。

 飛んでくる針を殴りつけ、打ち砕き、落下する。

「そンな馬鹿ナァ……!」

 絶望の声を上げる『針千本』に未だ振り下ろし続けている拳を打ち付ける。

 俺の拳が『針千本』の皮膚に触れた瞬間、鎧が激しく真っ白い輝きを放った。

 断末魔すら上げることもできず、どす黒い体液を撒き散らし、弾け飛ぶ。

 地面に着地した時には原型を留めていない液状の塊があるだけだった。その塊さえ、すぐに蒸発していく。

 それを見つめ、小さな声をこぼす。

「約束……破ってごめん」

 目をつぶり、両手を合わせ、せめて彼女の魂が救われることを祈った。

 こつこつと足音が背後から聞こえ、俺は目を開いてそちらに振り向く。

「【餓鬼】と化した者は未来永劫救われることはありません。彼らに残されているのは輪廻の輪の中で苦しみ抜くことだけです」

 出会った時から片時も崩さないにっこりとした微笑をたたえた光芒比丘尼さんがそこに立っていた。


*****


「光芒比丘尼さん……。貴女には色々と言いたいことがありますが、まず一つだけ聞かせてください。……今までどこに居たんですか?」

 俺は不信感を隠さずに尋ねる。

 もうこの人に対するイメージは決して良いものではなかった。

 予想通りというべきか、俺のそんな態度もまったく気にしたそぶりを見せず、光芒比丘尼さんは答えた。

「増援を要請していたのですよ」

「増援……?」

 怪訝そうな顔をする俺に彼女は静かに事の顛末てんまつを語り出す。

 彼女曰く、俺だけでは『特異点』と化したこの菩提市の【餓鬼】を浄化しきれないだろうと考え、他の『代仏装兵』をこの街へ連れてくるよう増援を要請していたそうだ。

 そこまで聞いて、俺はさらに追及する。

「増援などというものがあるなら、何故最初からそうしてくれなかったんですか?

何も起きる前、事前に俺に接触していた貴女なら、もっと被害を最小限にできたはずだ!」

 最初にあったあの時点で光芒比丘尼さんが他の『代仏装兵』を連れて来ていたら、少なくともこの寺に逃げ込んできた学や他の人たちは助かっただろう。

 しかし、彼女は平然とこう言った。

「もし、そうしてしまえば、神田様は『代仏装兵』に覚醒して頂けなかったでしょう?」

「……お前ぇ!!」

 激昂して、胸倉を掴み上げようとした俺だったが、自分の手を見て、まだ鎧に覆われているのに気付き、取り止めた。

 もしも、今の『代仏装兵』の鎧を着たままそんなことをすれば、こいつを殺してしまうかもしれない。

 俺の心を知ってか知らずか、光芒比丘尼は自分の行動を正当化するようなことをのたまう。

「神田様の力で救われる人はこの街の人口を遥かに上回るでしょう。彼らの犠牲は多くの人を救済するための小さな必要不可欠な犠牲なのです」

 この言葉が涙をこぼして発せられたものなら、俺も彼女の行動に少しは納得できたかもしれない。

 だが、彼女は笑顔のままだった。結果的に自分が人を殺したというのに光芒比丘尼は笑っていたのだ。

 自分の行動が素晴らしいものであると一片も疑っていない。そういう狂気に満ちた微笑だった。

「……もうお前とは話していたくない」

 そう言って、俺は光芒比丘尼から離れた。

 こいつは正気ではない。人の命を何とも思っていないところは【餓鬼】と大差なかった。

 このまま話していれば、怒りで殺してしまいそうだ。

「『代仏装兵』の鎧は近くに存在する【餓鬼】が居なくなれば、自然と身体から離れて神田様の心の中に戻りますよ」

 聞いてもいないことを言う光芒比丘尼を無視して、俺は正二たちが隠れている蔵に向かった。

 だが、光芒比丘尼の発言が本当ならば、鎧がまだ解かれないということは近くの【餓鬼】を倒しきれていないか、またはすぐ傍に【餓鬼】が寄って来ているということになる。

 なおさら、二人の傍に行ってあげないと。

 扉を砕かれた蔵の中に俺は入り、正二と三葉を捜す。

「正二ー! 三葉―! 俺だ。お兄ちゃんだ!!」

 それほど広くはなかったが、光源が入り口から差し込む日光だけしかないため、酷く薄暗く二人を見つけ辛かった。

 『針千本』を倒した時は光り輝いていた鎧は、今は普通の鎧のように光っていない。

 鎧を懐中電灯代わりにする方がおかしいのだが、早く二人の無事を確認したい俺には灯りがひたすらにほしかった。

「お兄ちゃんの声だ。三葉、お兄ちゃんが迎えに来てくれたよ」

「本当? お兄ちゃん?」

 二人の声が聞こえた。俺の涙腺が緩む。

 どんなに辛いことがあっても、大切な家族の声一つでこんなにも心が満たされる。

「ああ……お兄ちゃんだよ。訳合って今は変な鎧付けてるけど、お前らのお兄ちゃんだ」

 正二と三葉の影が近付いてくる。

 鎧を邪魔に思いながらも、走り寄ってくる二人を抱き締めようと俺は片膝を突いて、両手を広げた。

「お兄ちゃん!」

「もう、遅いよ! お兄ちゃん!」

 その近付いてくる二人のシルエットに違和感を感じた。

 入り口付近に居る俺の背から差し込む光が二人を照らした。

「…………な、んで?」

見えたものは――赤黒い肌と耳まで裂けた口だった。

 俺の前に現れたのは、正二と三葉の声をした目玉のない二匹の【餓鬼】。

「お兄ちゃん、お腹空いたよ」

「あたしもお腹ぺこぺこだよ。自分のお目々(めめ)まで食べちゃったくらいだもん」

「僕のも片方あげただろ。もう三葉は食いしん坊だな」

 二匹の【餓鬼】は眼窩がんかからどす黒い液体を流しながら、仲良く話す。まるで俺の弟と妹のように……。

「嘘だ……こんなの嘘だ……」

「どうしたの? お兄ちゃん」

「何か辛いことあった?」

 目玉のない二匹の【餓鬼】は心配そうに俺に聞いてくる。

 その様子がこの【餓鬼】が俺の大切な家族だということを教えた。

「あらあら。やはりこうなってしまいましたか」

 俺の後ろから掛かる光芒比丘尼の声。

 振り向かずに、俺は彼女に尋ねた。

「どういうことだ……」

「前にも私は申し上げましたよ。『この場所は私が結界を張っているので、この寺に居る間は暫く安全でしょう』と」

「それがどうしたって……!?」

「お気付きになられたようですね」

 結界……それは外から来る【餓鬼】から寺を守るためのものだと俺は思っていた。

 だが、それだけじゃかったのだ。

 あの結界は寺の内部に居る人間を餓鬼化させないためのものだったのだ。

「そ、そんな……こんなことって……」

 希望が音を立て、崩れ去り、絶望が俺の心に広がっていく。

「お兄ちゃん、大丈夫? 泣きそうな声してるよ?」

「あたしたちが傍に居るよ?」

 二人が俺に触れようと手を伸ばす。

「だ、駄目だ。二人とも今の俺に触れるな!」

 はっと我に返り、制止の言葉を叫ぶが、もう遅かった。

 【餓鬼】が『代仏装兵』の鎧に触れれば、どうなるか。

「熱い! 熱いよぉ!!」

「助けて! お兄ちゃん!」

 触れた部分から水飴のようにどろどろと溶けていく二人を見ながら、俺は二人の名前を呼ぶことしかできなかった。

「しょ、正二……三葉ぁ……嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だああああ!!」

 溶けていく。

 泣き叫ぶ俺の前で大切な家族が溶けていく。

 命に代えても助けたかった弟と妹が消えていく。

 親友が命を犠牲にしてまで守ってくれた二人が。

 こんな俺を好きになってくれた女の子を殺してまで助けたかった二人が。

 理不尽に。

 不条理に。

 奪われた。

 俺を支配する絶望が身体に収まりきらず、喉からほとばしる。

「ああぁ……アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 

 ……そうか。

 泣き叫びを吐き出しながら、俺の中で何かが腑に落ちた。

 どれだけ祈っても。

 どれだけ願っても。

 ――無意味なのだ。

 救いを求めることそのものが既に間違いだったのだ。

 努力も、献身も、無意味。

 何をやってもこの世界は救われない。

 大切なものは絶対に壊される。幸せなど妄想でしかない。

「あはっ」

 笑いがこぼれた。

 今まで心から信じていた価値観が粉々に砕かれているのを感じて、同時に身体が軽くなっていくような錯覚を覚えた。

「あっはははははははははははははははははははははははっははははっははははははっははははっはははははははははははっはははははっははははははっはははっは」

 何だ、こんなもの。

 大切ではなかったんじゃねぇか。下らねぇ。

 液体となった【餓鬼】どものを踏みにじって立ち上がると、光芒比丘尼に相対する。

「……おい」

「はい?」

「これは全部お前の差し金だったんだろ?」

 何もかも吐き出したおかげで、頭が冷静になっていた。そして、色々と不自然な点に気付くことができた。

「と仰いますと?」

 とぼけたというよりも、答えを教師が生徒に答えを促すような言い方だった。

「学がこの寺に居たこと。『針の人魚』の【餓鬼】をこの寺を狙ったこと。俺の兄弟が【餓鬼】になったことの三つだ」

 どうして、学が都合良くこの寺に居た?

 答えは簡単、こいつが連れてきたからだ。

 どうして、『針の人魚』が俺がこの寺に居ることを知っていた?

 答えは簡単、こいつが教えたからだ。

 どうして、俺の兄弟は【餓鬼】に襲われず、【餓鬼】になるまで生き残っていた?

 答えは簡単、こいつがそうなるように調整していたからだ。

「暴論ですね。特に三つ目はあんまりではないでしょうか?」

「全部、お前の差し金なら辻褄つじつまが合うんだよ」

結界の札が消滅するのもタイミングが良すぎる。あれはこいつがわざと壊れるように設定した、あるいはこいつ自身が遠隔操作で壊したとしか思えない。

何よりも、俺を探していた『針の人魚』……【餓鬼】になった南原が都合良く俺が居るこの寺を襲撃するなんてでき過ぎている。

『針の人魚』の口ぶりじゃ、俺がここに居ることを前もって知っていたようだった。

そして、光芒比丘尼は『針の人魚』や他の【餓鬼】どもが入ってきた門から驚くことなく悠々と帰ってきた。

 寺に居た他の奴らはみんな【餓鬼】に襲われたのに、正二と三葉だけは何故か(・・・)奇跡的に襲われていない。

 俺が【餓鬼】に足止めされている時、すぐに【餓鬼】の群れが減ったのもおかしい。考えてみれば数が途中から明らかに少なかった。

 俺がそれらの疑問を語って聞かせると、光芒比丘尼は少し黙った後、こう言った。

「神田様のお考えは理解致しました。ですが、私にはそれを行なうための理由がございません」

 相変わらずの微笑みは俺が答えを期待しているようだった。

 俺はこいつが用意した茶番劇に付き合わされていることを理解するが、最後まで付き合ってやることにする。

「……俺から特別な人間を奪い、全ての人間を平等に見られる『代仏装兵』にするためだ」

 この気違いなら平然とそんなことのためにここまでするだろう。

 こいつがどんな人間かは嫌というほど理解した。

 光芒比丘尼。こいつは狂信者だ。

 仏を体現する存在を作ろうとするためならば、その過程でどれほど人間が死のうと気にしないそういう種類の人間だ。

 ひょっとしたら、この菩提市が『特異点』になったのすら、こいつの計画だったのかもしれない。

「素晴らしいです、神田様! その真理に辿り着いたということは私が望んでいたとおり、全ての人々を平等に見ることのできる『代仏装兵』になられたのですね!」

 今まで見てきた仮面のような微笑ではなく、満面の笑みをする。

 俺はそれにならって嬉しそうに答えた。

「ああ、そうだな。…………お前のおかげで全て人間が無価値にしか思えなくなったぜ!」

 そう言いながら、俺は楽しそうに手刀を振るった。

 振り上げた手が鞭のようにしなり、肉を裂く音と共に光芒比丘尼の左腕が引き千切れる。

「あぐっ……な、何をするですか、神田様!?」

「ほう……。笑顔以外の表情も作れるんだな、お前」

 痛みにより表情が歪んだのではなく、俺が行なった行動が心底理解できないといった表情をしている。

 やはり、この女の思考回路は完膚なきまでに狂っている。

 これだけのことをしておいて、俺が逆上することを少しも考慮していない。

 実際に俺は逆上した訳ではなく、散々思い通りに動かされたことに腹が立っただけなので、あながち見当外れとも言えないが。

 倒れ込むように膝を突き、真っ赤な血を腕の千切れた肩から流している光芒比丘尼に俺は宣言する。

「これは俺を思い通りに動かしていたことへの報復だ。俺のことを散々好き勝手扱いやがって……こっちは殺してえほどムカついてんだよ」

「そ、そんな私はただ……神田様に御仏のような『代仏装兵』になって頂きたかっただけで……」

「うるせえな。まだ人が話してんだろ。黙って聞いとけよ。それこそ、大好きなホトケサマにしちまうぞ?」

 腕が取れた傷口に指を突っ込んでもてあそぶ。

「いっぎィ……」

 素敵な悲鳴が漏れたところで俺は指を抜いて、血で汚れた指を光芒比丘尼に突き付けた。

「まあ、俺としてはこうやって特別な力も手に入れた訳だから、まったく感謝してないこともねぇ。そこでだ」

 俺は一度言葉を区切り、これから言う発言は重要だぞ、というアピールしてやる。

「お前をこのままここに放置して、出血多量で死ななかったら許してやるよ。優しいだろ、俺。まさに慈悲に溢れた仏のような男だよなぁ」

「そ、そんな……神田様ぁ……」

 俺はこの女が苦しむように仏のような優しげな笑顔を浮かべたが、よく考えれば兜のせいで顔が向こうに見えないことを思い出して、無意味なので即座に止めた。

 光芒比丘尼に何の興味もなくなった俺は、寺から出て行く。

 細道を通り過ぎ、街に戻ってくると【餓鬼】どもがまだうじゃうじゃと跋扈ばっこしていた。

 俺の存在を発見し、呻き声にも似た叫びを上げ、襲い掛かって来る。

 触れたら、溶けるとも知らずに無謀にも寄って来る【餓鬼】を眺め、俺はにやっと兜の下で笑った。

 笑いながら、殴り付けた。

「あはははははははははっはははははははははははっははっは!!」

 弱い者虐めがこれほど楽しいとは知らなかった。

 負けることのない戦いとは言えない、一方的な虐殺を楽しむ。

 俺が腕を一振りする度、手足がもげて、首が飛ぶ。

 こいつらが俺に当たった一部分から溶けて、苦しみにのた打ち回る様子を見て、頷く。

 【餓鬼】どもが元々、人間だったと思い出し、尚更今のこいつらの惨め振りに笑いがこぼれた。

 周囲の【餓鬼】を挽肉に変えて、その上でダンスを踊る。

「あはははははははははははははっははははははははははははははははははははははははっはっは!!」

 最高だ。こんなに愉快なことがこの世にあったのか。今まで損をしていた。

 一通りの【餓鬼】を殺し尽した後、ほくほく顔で余韻に浸っている俺に声が掛けられた。

「なあ、君が光芒比丘尼様の仰っていた新しい『代仏装兵』か」

 俺と同じ白い鎧を纏った奴がこちらに向かって歩いてくる。

 光芒比丘尼が言っていた増援の『代仏装兵』か。半信半疑だったが、増援自体は真実だったようだ。

 傍に来ると増援の『代仏装兵』は俺に対し、いくらか怒りのこもった口調で話す。

「さきほど戦いぶり見ていたが、いくら【餓鬼】とは言え、笑いながら浄化するのはよくない。私たちは彼らを救えないが、せめて慈悲をもって浄化してあげるのが筋だろう」

 御託を並べ、叱責してくる『代仏装兵』に俺は尋ねた。

「あんたはさ、【餓鬼】まで救いたいと思ってるのか?」

「もちろんだ。全ての苦しむ存在を仏に代わって救済するのが我々『代仏装兵』の役目だ。君だってそうだろう?」

 ――救う?

 ――俺が人を救う?

 馬鹿か、こいつは。

 怒りを通り越して殺意が胸に宿る。

「……この世に救いがあると思ってんのか?」

「何を言ってるんだ? 私たち『代仏装兵』が救いを与えるのだろう」

 俺の肩に手を乗せようとする増援の『代仏装兵』の兜を掴んだ。

「な、一体何を……」

 俺は許せなかった。救いなどと口にする目の前のこいつが。

 この世界に救いなんかある訳がない。

 救いなんてありはしない。

 そして、救う価値のあるものも存在しない。

「離せっ……手を」

 増援の『代仏装兵』は俺の腕を掴み、頭を鷲掴みにする手を振り解こうとするが俺の手はそのまま兜を握り締める。

 こいつが弱いのか。俺が強いのか。それともどちらもか。

 だが、そんなことはどうでもいい。

「いいか。教えてやる。この世界に救いなんてねえんだよ。死ぬ奴はゴミみたいに死ぬ。それだけだ。もし、救済なんてものを与える存在が居るのなら――」

「や、やめ」

「俺がこの手で殺してやる……」

 渾身の力で握り締めた。

 指が兜を砕き、肉を潰す感触が手甲越しに伝わる。

 あれだけ暴れていた増援の『代仏装兵』は糸が切れた操り人形のように動かなくなる。

 白い鎧が霧散するに消えうせ、黒い袈裟を着た男に代わった。

 死体と化したそれを放り投げる。

 血で汚れた顔は見事にひしゃげ、恐らく親族ですら判別することは不可能だろう。

「救いなんてふざけたこと抜かすからそうなんだよ」

 もしも、この雑魚のように救いや救済を口にする奴が居るのなら、全身全霊を持って殺し尽くしてやる。

 誰かに救いを求めようとする奴も殺す。救済なんてものをありがたがる奴も殺す。

 空を見上げて、俺は誓う。

「俺があんたにもらったこの力を持って証明してやるよ、仏サマ」

 本当に仏が居るのなら、そいつに教えてやる。

 全ての人間は皆、平等に無価値であり、この世界に救いなんてものは存在しない。

 それが絶対の真理だ。

 それ以外の答えなど俺は認めない。

 救済なんて、踏み躙って陵辱し尽くしてみせる。

 それに文句があるなら、俺を殺しに来い。逆に俺がお前を殺してやる。

 そして、世界に知らしめる。

――この世に救いがないということを。



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