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絶望の始まり

 工事用のランプに照らされる中、俺は建設工事のバイトの先輩たちと鉄骨を担いで運んでいた。

 ヘルメットに付けたライトで足元をしっかりと確認しながら、疲労と空腹で朦朧もうろうとする意識を途切れさせないように、懸命に前に一歩一歩進んで行く。

 昼のように日差しこそないが、纏わりつくような蒸し暑さのせいで汗でじっとりとした作業着が肌にくっ付いて気持ちが悪かった。

現場監督が目敏めざとく、へばりそうな俺を捉え、げきを飛ばす。

「コラ、神田ぁ!!何ちんたらやってんだ! もっと頑張らねぇと敢闘賞持ってかれんぞ!」

 その言葉で俺は再び、気合を入れ直す。

 敢闘賞。この仕事場で最も仕事を頑張った者だけに渡される、本来の時給とは別の給料。

 毎度毎度、敢闘賞は他の人に掻っさらわれていくが今回だけは譲るわけにはいかない。

 明日は、弟と妹の誕生日なのだ。美味しいものとほしいプレゼントを買ってやるためにも、絶対に逃す訳にはいかない。

 今日の最労働の日雇い労働者の座は俺が頂く!

「うおおおお!!」

 カラカラに渇いた喉から、声を絞り出して、頑張って歩き出す。

「やるじゃねーか。太一君」

「こりゃ、僕たちも負けてらんないね」

 俺の後ろを支えてくれる先輩たちも、俺に合わせて歩くペースを上げてくれる。こういう誰かの優しさを感じる時、俺は『人』という字を思い出す。

 『人』という字は、人と人が支えあってできているというが俺の解釈は違う。この文字は倒れこみそうな人を後ろから支えてくれている図だと思う。

 支えてくれる人がいるから、後ろに倒れこまずに済んでいる。まさに今の俺がそうであるように。

 仕事は予想よりも早く終わり、給料袋が個々に渡された。

 それが終わると現場監督の香川さんから、敢闘賞の授与式がある。内心、ドキドキしながら発表を待っていると、香川さんは俺に近付いてきて頭をポンと叩かれた。

「今日の敢闘賞は――神田!!お前だ。よくやった!」

「ありがとうございます!」

 初めて敢闘賞を手に入れた喜びを噛み締める。

 バイトの先輩方が拍手をしてくれた。まるで自分の事のように嬉しそうに笑っている。

「頑張ったな」

「おめでとう。太一君」

「いやー、高校生に敢闘賞持ってかれたのは初めてだぜ」

 北上さんは豪快に笑い、加賀さんはまだ小さく拍手を続けている。川波さんは腕を組んでニヒルな笑みを浮かべていた。他のバイトの先輩たちも口々に俺に労いの言葉をかけてくれた。

 香川さんはしみじみとした口調で俺に言う。

「お前がこのバイトに始めてきた時はひょろっこい奴が来たなと思ったな。どうせすぐに止めるだろうと思ってたが、一日も休まず頑張って働くお前を見て、評価を改めたよ。見た目に寄らず根性あったな」

 わしゃわしゃと俺の頭を撫で回す香川さんの優しい言葉に少し泣きそうになる。

このバイトを始めた時は鬼のように怖い人だと思っていたが、働いている内に香川さんの優しさに気が付いていった。

他のバイトの先輩も俺のことを気にかけてくれた。建設工事は痩せっぽちの俺には辛かったが、その分、得られた経験は何物にも代えがたいものだった。

 お金以上のものを俺はこの人たちからもらっている。

「あの、明日は……」

 バイトを休ませてもらうように頼もうとするが、それを知っていたかのように香川さんは俺の台詞の先を言った。

「明日は兄弟たちの誕生日祝うんだろ? 休め! 俺が許す!!」

「え、何でそれを……」

香川さんが俺の兄弟の誕生日のことを知っているのを不思議に思い、尋ねると、香川さんではなく、加賀さんが答えた。

「そりゃ、太一君が嬉しそうに言ってるのを香川さんが聞いてたからだよ」

「親御さん亡くしてから、兄弟の面倒見ながら、高校通って、バイトして……ホント、太一君は良い子だぜ」

 川波さんが軽く涙ぐみ、目を手の甲で擦る。

「なら、この敢闘賞も……」

 弟たちのために香川さんが最初から俺に渡すつもりだったんじゃ、と言いかけたところで、北上さんが話し出す。

「だから、今日は一番太一君に働いてもらったんじゃねーか。まさか受け取れませんなんて言うつもりじゃねーよな?」

「でも、それじゃあ」

「うちの職場にはデモもストライキもねぇんだよ! お前は今日この現場で一番仕事をした。だから、敢闘賞をもらった。それだけだ。下らねえこと言うようならぶっ飛ばすぞ!!」

 俺は嬉しくてまた泣き出してしまった。

 この人たちの優しさが心に染みた。きっと俺は『人』という字の支えてもらっている側の人間なんだろう。

 俺の周りは本当に温かくて、優しくて、心地いい。

 *****


「あ、お兄ちゃん。お帰り、お仕事大変だった?」

「お兄ちゃん。あたし、お腹空いたー」

 小さなボロアパートに帰ると、愛しい兄弟が俺を出迎えてくれる。

「ただいま。正二しょうじ三葉みつば。さっそく、ご飯にするからちょっと待ってて」

 明日で十歳になる正二と三葉。俺の弟と妹だ。

双子だから顔立ちは二人ともそっくりで髪の長さもほとんど同じくらいだが、正二の方がきりっとした表情をしていて、三葉の方が甘えた表情をしている。前にそれを言ったら、三葉はふてくされていじけてしまったので、もう絶対に口に出さないようにしている。

俺は冷蔵庫からラップして冷凍しているご飯を電子レンジで温める。ちなみにこの冷蔵庫と電子レンジは引越しのバイトをしていた時に廃品として出たのでありがたくもらった。

というか、内にある家具や電化製品はそういった廃品か、ゴミ捨て場からもってきたものだったりする。

おかずは一昨日、家賃を払いにいった際、頂いた漬物とあじの干物を焼いたもの、そして、スーパーで安売りしていたもやしの甘酢和えだ。

「召し上がれ」

「いただきます」

「えー。また干物ー? あたし、これ飽きたー」

 まあ、そうだろうな。昨日もこれだったし、三葉がそういうのも無理はない。むしろ、文句一つなく食べてくれる正二の方が子供らしくないと言える。

「ごめんな。でも、明日は美味しいものたくさん食べさせてやるから」

「むう。約束だよ。お兄ちゃん」

「三葉はわがまま言い過ぎだよ。……お兄ちゃんは『また』食べないの?」

 三葉を諌める正二は俺の分の夕食がないことを見て、悲しそうに呟いた。

「いや、……俺はバイトの先輩たちと飯頂いちゃってな。だから、二人だけで食べちゃってくれ」

「えー。お兄ちゃんだけずるーい!」

 三葉は頬を膨らませて、俺を睨む。

 だが、正二は俺の言葉を疑うような目で見てくる。

「お兄ちゃん。ずっとごは……」

「ほら。今日はお兄ちゃん敢闘賞取ったからな。おごってもらったんだよ。あはは……」

 正二の台詞に被せるように俺は声を大きくして言った。

 正二は不満そうな表情を浮かべたが、さっき言おうとした言葉を引っ込めてくれた。

「……明日は一緒にご飯たべようね」

「ああ。うん。そうだな」

 やれやれ。頭がいいって言うのは考えものだな。

 俺は空腹の腹を鳴らさないようにしながら、二人から学校で起きたことを聞きながら水道水をすすった。

 夕食が終わった後、食器を軽く洗い、二人にお風呂に入りに行ってもらった。

 しかし、風呂と言っても、このアパートに風呂などなく、また銭湯に毎日行けるほど我が神田家は裕福ではない。

大家さんの村田さんが同情してくれて、側にある村田さんの家で正二と三葉にお風呂に入れてくれるというので厚意に甘えている。

 このアパートの家賃もある程度譲歩してもらっている上、時々料理を差し入れてくれてる村田さんには本当に頭が上がらない。

 だから、俺は自分の食費を抜いてでも決して家賃を滞納しないようにしている。

本来なら、俺たちは親戚の伯父の家に引き取られるはずだったが、伯父は両親の保険金を受け取ると姿をくらましてしまった。

 名目上は後見人という扱いになっているが、伯父から俺に生活費が送られきたことは一度たりともなかった。

 最初こそ、伯父に対して憎しみを抱いていた。しかし、正二と三葉のためにあわただしく生活をしているとそういった感情を抱いていることが馬鹿らしくなっていき、今ではもうあまり怒りも沸かなくなっていた。

 もっとも、伯父を見つけたら、正二と三葉の今後の生活費くらいは出させるつもりではある。

 さて、二人が居ない内に俺は明日の授業の予習と今日の授業の復習をするか。

 こう見えて、俺は勉強ができる。ここ菩提ぼだい市でトップに君臨する進学校・私立鹿野苑ろくやおん高校で特待生を務めているほどだ。

 この鹿野苑高校では特待生は授業料免除という、俺のような貧乏人には涙が出るほど嬉しい制度がある。

 だが、当然というか、成績がある程度落ちると特待生の肩書きを取り上げられてしまう。

 なので、俺は成績を死んでも落とす訳にはいかないのだ。

 鉛筆を片手にチラシをホチキスで束ねた自作ノートに書いた授業内容を振り返る。学校から支給された教科書は書き込みすぎて、一見するとかなり汚くなっていた。

 一時間ほどかけて数学と英語の予習を終わらせ、世界史に取り掛かろうとした時、階段を登る足音が聞こえた。

 ドアが開き、僅かにほかほかと湯気を漂わせている正二と三葉が帰ってくる。

「ただいまー。お風呂気持ちよかったー」

「あ、お兄ちゃん、勉強してたんだ。邪魔しちゃった?」

「お帰り。正二は気にしすぎだ。お前らが邪魔な訳ないだろ? 俺の宝物だ」

 正二が最近、俺に気を遣いすぎなので、思いっきり抱きしめる。むぐむぐとうめいている正二に頬を擦り付ける。くうー! 可愛い奴め!!

「あ。正二ずるーい。あたしもあたしも」

「おう。来い」

 飛びついてくる三葉を抱きとめ、玄関先で二人の顔にキスの雨を降らす。

 心の底から幸せだと思った。三年前に両親が交通事故で亡くなってからこれからどうしようと悩み、途方に暮れていた俺が壊れなかったのはこの可愛い弟と妹が居たからだ。

 俺が一人っ子だったら、あの時絶望でおかしくなっていただろう。

「むちゅー」

「わー! お兄ちゃんにあたしのファーストキス持ってかれたぁ!?」

 喚く三葉を無視し、俺は一人幸福感に包まれていた。


*****


 二人を寝かしつけた後に、蝋燭を灯して授業の予習とポケットティッシュ作りの内職を終わらせていると、いつの間にか夜が明けていた。

 洗濯物を流しで手洗いして、外に干しておく。天気がいいから、すぐにでも乾くだろう。

 そして、掛け持ちしていた内職を全て終わらせると、ちょうど時刻は六時になっていた。

 二人を起こして、顔を洗わせて着替えさせると、食パンを去年拾ってきたトースターで焼く。

 ご飯を食べせた後に、俺は鹿野苑高校に登校するために二人を置いて学校へ向かう。

「何かあったら、村田さんに電話貸してもらって俺の携帯に電話するんだぞ?」

「分かってるよ。行ってらっしゃい、お兄ちゃん」

「行ってらっしゃーい!」

「あ、最後に誕生日おめでとう二人とも。学校から帰ってきたら欲しいもの考えておけよ」

 正二と三葉の頬に行ってきますのキスをした後、俺はアパートから出て行く。

 いつも二人に格好付けるために余裕な振りをするが、鹿野苑高校はこの場所からだと駅五つ分ほど離れているので時間的には結構ギリギリだった。

 当然、電車賃や定期券などという高級品を持ち合わせていない俺は、二年前に河川敷で見つけた自転車にまたがり、ペダルを体力の続く限り漕ぎまくる。


 夏の日差しに焼かれ、汗だくなりながらも俺は学校に辿り着くことができた。

異常気象がどうのこうのと言っていたが、六月にこの暑さは間違っている。梅雨前線カモン。

夏休みが始まったら、正二と三葉の学費のためにバイト三昧の毎日を送るつもりだったが、週に一回くらいはプールとかに連れて行ってやった方がいいかもしれない。

下駄箱で上履きに履き替えて、ドアを開けて一階の廊下へと足を踏み入れる。

心地よい清涼な風が俺をうるおしてくれる。

この鹿野苑高校、驚くことに廊下にまで空調が設置されている。教室だけでなく、廊下までだ。私立のブルジョアぶりに俺は正直怯えてしまった。

特待生しか入ることのできない特進クラス棟、通称『特待生棟』に入ると、いきなり黒髪の女の子に指を指された。

「遅いわ! 神田君、貴方特待生としての自覚が足りていないんじゃないかしら!?」

この黒髪の前髪が切りそろえられたロングストレートの瞳の大きく可愛らしい女の子は南原なんばら香奈子かなこ

俺の同級生にして、この高校の理事長の娘であり、二年生にも関わらず生徒会長を勤めている女傑だ。

 俺のような貧乏人など放っておいてくれればいいのだが、入学当初に行なった学力テストにおいて、俺が彼女を抜いて学年一位になったことが気に食わないらしく何かと突っかかってくる。

 容姿、人気、家柄、その他ありとあらゆる事において、俺より勝っているのだから、テストの点数くらいは俺に勝たせたままにしておいてもいいんじゃないかと思うが、南原さんは気に食わないらしい。

「おはよう。南原さん」

「ああ、これは失礼。朝の挨拶が遅れたわね。おはよう、神田君」

 角度を四十五度曲げた素晴らしいお辞儀を俺に披露してくれる。こういうところを見ると教養や育ちの違いをまざまざと見せ付けられる。

 この高校の大和撫子なんて呼ばれているらしいが、まさにその通りだと俺も思う。

「って、誤魔化されないわよ! 毎回言ってるけど、特待生なんだから他の生徒の模範となるべく、もっと早く登校しなさい!」

 顔を上げると、少し頬を朱に染めて俺に怒り出す。

 非常に顔立ちが整っているために可愛らしく、ちょっとだけ得した気分にさせられた。美人はどんな表情してても絵になるから困る。

「まあまあ、カイチョーさん。そんな怒ると血圧上がるよ。それに別に太一は遅刻した訳じゃないんだから、怒りすぎでしょ」

 南原さんをなだめるように出てきた癖のある茶髪を後ろで束ねた男は東雲しののめまなぶ、俺の親友だ。俺の心の友と言っても過言ではない。

「東雲君の言うことも分かるけど……でもね、やはり皆の模範となるべき、特待生が……」

「あれ? オレもついさっき登校したばっかなんだけど、カイチョーさん何も言わなかったじゃん。あ、もしかして、太一に気があるから、わざと突っかかって会話しようとしてたりするぅ?」

 にやっと下世話な表情で南原さんをからかう。

「そ、そんな訳ないでしょ!!男子って何でもかんでも恋愛と結び付けようとするんだから!」

 それは女子の方じゃないんだろうか。少なくても俺はそんな男子は学くらいしか知らない。

 そんなことを思っていると、南原さんは俺の方を向いて真っ赤な顔になる。

「勘違いしないでよね!!さっきのは生徒会長としての注意なんだからっ!!」

「はあ……分かった」

「わ、分かればいいのよ。分かれば」

 せわしなく、コクコクと何度も頷くと自分の席に戻っていった。

 そちらの方を見ていると、南原さんと目が合ってしまい、再び赤くなった南原さんに教科書でバリケードを造られてしまった。

「あんなテンプレートのツンデレ台詞吐く人初めて見たわ。太一ホント愛されてるな。良かったね」

「からかうなよ。大体、俺と南原さんじゃ釣り合わないだろ」

 学は俺の脇腹を肘で突く。

「逆玉、狙っちまえよ。逆玉。南原って言えばこの街でかなりの金持ちだし、おまけに本人も可愛いと来たらもうこれは行くっきゃないっしょ」

「俺にはそんな器用なことは無理だよ。早く席に着こう。先生が来るぞ」

 学を促しつつ、俺も自分の席に向かう。

「はあー。このヘタレめ」

 後ろから酷い台詞を投げつけられたが、俺はそんな安い挑発には乗らない。プロですから。

 二分ほど待っているとチャイムが鳴り響く。担任の小林先生が来て、ホームルームが始まった。

 特に重要な話もなく、最近寝ていないせいで欠伸あくびが出そうになるが噛み殺す。

 ふと視線を感じ、そちらを向くと南原さんが俺と目が合った。

 南原さんは一瞬思いきり目を逸らしたが、ノートに何やら書くと俺に見せてきた。

 ノートには『何見てるのよ!』と書かれていた。いや、見てきたのは南原さんの方だろ。

もしかして、学の言ったとおり本当に俺のことが好きなのか? だとしたら……だとしたら、どうするんだ俺?

悶々としていると、ホームルームが終わり、すぐに授業に移行する。

いつもなら、寝不足のせいで少しうとうとするのだが、南原さんのことが気になって眠気はおきなかった。

何度か先生に当てられたが、予習をしていたおかげで一問も間違えることもなく答えることができた。授業中も南原さんは俺のことを見つめていた。

それを授業の合い間の休み時間に学にトイレに行ったついでに話すと、学は呆れたような顔になった。

「え? お前、それさっき気付いたの? ずっと前から南原さん、太一のことを恋する瞳で追ってたよ?」

「初めて知った……。じゃあ、本当に南原さんは俺のことを?」

 そう言えば、去年に南原さんに生徒会に入ってみる気はないかともじもじしながら聞かれたことを思い出した。バイトの時間を減らす訳にはいかなかったので丁寧に断ったが、もしかするとそういった意図があったのだろうか。

 正二と三葉を育てていくことに忙しくて、色恋沙汰にうつつを抜かしている余裕がなかったから、自分が誰かに好意を持たれているなんて考えたこともなかった。

「そうに決まってんだろ。お前はどこの鈍感系主人公だよ……」

 学は呆れ半分で俺にそう言い残すと、手を洗って先に行ってしまう。

 取り残された俺は小便器を見つめながら思案に暮れていた。

 南原さんが俺のことを……。かあっと気恥ずかしくなり、居ても立ってもいられなくなりそうだった。

 今まで女の子と恋愛なんて考えたこともなかったが、俺だって思春期の男だ。女の子に好かれて嬉しくない訳がない。それも南原さんみたいな誰もが認めるような可愛い女の子が相手ともなれば舞い上がってしまいそうだ。


 午前の授業も終えて、昼食の時間になると、俺はそそくさと教室から出て行く。

 別に外で弁当食べる訳でも、購買部でパンやおにぎりを買いに行く訳でもない。そもそも俺は弁当などもっていないし、昼食を買うための金も持っていない。

教室から出て行くのは俺が昼食を取らないことをクラスメイトに知られないためだ。そして、空腹感を紛らわすために外の空気を吸うためでもある。ここは丘の上に校舎があるので非常に空気がうまい。

いつものように外に行こうと、階段を下りようとするといくつもパンを抱えた学に見つかった。

「おう。まな……むぐッ」

 俺が声をかけようとして口を開いた瞬間、学は俺の口に焼きそばパンを捻じ込んだ。

「太一。いつもはどこで飯食ってんのか知らないけどよ、今日くらいは一緒に飯食おうぜ」

 学は有無を言わさず、俺の腕を掴むと教室に引きずっていく。

 多分、学は気付いていたのだろう。だが、俺を気遣ってそれに対して何も言わないでくれた。

学はいつも昼になるとパンを抱えてうろうろしている姿を見ることがあったが、あれはひょっとしたら俺を探していたのかもしれない。

俺の机の近くに自分の椅子を持ってきて座った学が出し抜けに聞いてくる。

「大体お前、いつも顔色悪いんだよ。ちゃんと寝てんのか?」

「ああ。うん、まあ」

 俺の曖昧な返事に学は納得いかなかったようで、さらに追求してくる。

「いつも何時間ぐらい寝てんの?」

 どう答えようか。誤魔化すと鋭い学のことだからどうせばれるだろうし、親友に嘘を吐くのは嫌だった。

 散々悩んだ末、俺は正直に答えることにした。

「……十五分くらいは寝てる」

「はあぁ!? 太一、お前どんだけ寝てないんだよ! まさか、昨日もそのくらいしか寝てないんじゃねーだろうな?」

「いや、昨日は寝てない。夜は内職やってたから」

 言い終わるや否や、思い切り頭をはたかれた。

「馬鹿野郎!!そんなんじゃ身体壊すぞ! ちゃんと睡眠と栄養取れよ。太一が寝込んだら弟たちの面倒だって見れなくなんだぞ?」

 椅子と一緒に持ってきた自分のバックをごそごそと漁り、その中から取り出した栄養ドリンクを飲めとばかりに俺へ突き出す。

 流石にそれまでもらうのは気が引けたので、断ろうとしたが無言で俺の頬に栄養ドリンクを押し付けてくる学に根負けして、ありがたく頂くことにした。

 俺が栄養ドリンクを受け取ると、さらに惣菜パンも同じ方法で俺に渡してくる。

 ここまでくればもう遠慮も何もないかと諦め、学の善意に縋ることにした。

 本当に俺は他人に支えられてばかりだ。いつか俺も俺を支えてくれた人たちのように、支える側の人間になりたい。

 パンをかじりながら、そんなことを漠然と思っていると机の下で軽く足を学に蹴られた。

 何だろうかと学を見ると、学は顎で俺の後ろを指し示した。怪訝けげんに思いながらも振り向くと、南原さんが立っていた。

「南原さん。どうしたの? 俺に何か用事?」

「これ良かったらでいいんだけど。今日たまたま作りすぎてしまって……」

 そう言って、南原さんは重箱の一段を俺に差し出してきた。

 とっさのことでどうしていいか判断できず、学に助けを求めてアイコンタクトするが、学はにやにやといやらしい笑みを浮かべたまま何もしてくれない。

 南原さんは困惑する俺を見て、少し悲しそうな表情をした。

「そうよね。いきなり、こんなことされても不快よね。……ごめんなさい。差し出がましいことをして」

 しょんぼりとした彼女の顔を見て、はっとなった俺は思わず彼女の手をつかんでいた。

「いや、そんなことないよ! すごく嬉しい。こんなことしてもらうの初めてだから、どうしたらいいか分からなくて……。俺で良かったらその弁当もらうよ」

「神田君……」

 一瞬で南原さんの表情がぱあっと明るくなる。だが、彼女も彼女でいつもの自分を思い出したようでこほんと咳払いをすると、いつもの南原さんらしい対応に戻る。

「で、でも、これは本当に作りすぎただけで、別に特別な意図はないの。本当にそういうのはないから。まあ、いつも学業で争っている神田君へライバルとして労いの感情がこもってないと言うと嘘になるかもしれないけど」

「おーい。カイチョーさん。発言がものすごく矛盾してんぞー」

「……っ! し、東雲君は黙ってて。じゃあ、これ神田君。ど、どうぞ」

「本当にありがとうね。南原さん」

「た、食べ終わったら、直接返してくれていいからね」

 お礼を言うと南原さんは顔を赤らめて、すたすたと妙に早足で自分の席へ戻っていく。その際に南原さんと一緒に昼食を食べている彼女の友達が楽しそうな表情ではやし立てていた。ほとんどクラス中の女子が南原さんを中心にして固まっているのでその声量たるや凄まじい。

 南原さんは耳まで真っ赤にして、「違うから! そうじゃないから!」と慌てて否定し回っているのが微笑ましかった。

 俺が南原さんの方から向き直り、改めて重箱の一段を見る。

 中にはテレビでしか見たことのない、俺には名前も知らない美味しそうな料理とご飯が詰め込まれている。

 しかし、その中でも一際目を引いたのは一つだった。

「い、伊勢海老が入ってる……」

「お、豪勢じゃんか」

 かなり大きな伊勢海老の存在が俺の瞳を釘付けにした。学は大して驚いてはいないようだったが、俺には衝撃的だった。

 このご馳走、俺が食べずに弟たちのために持って行っては駄目だろうか。

「太一、それ、ショウ君とみっちゃんのために持って帰ろうとか思ってんだろ?」

「何で分かったの? っていうか、やっぱり駄目かな?」

 俺のことなら何でもお見通しの頼れる親友はゆっくりと首を横に振った。

 そして、諭すように語り出す。

「なあ、太一。お前がショウ君とみっちゃんを大切に思ってるのはよく分かってる。でもな、ここはカイチョーさんの気持ちを汲んでやれ」

「南原さんの気持ち?」

「ああ、そうだ。カイチョーさんはな、いつものでけー重箱を弁当に持ってきて結局いつも食べられずに友達に何とかしてもらってた。何でだと思う?」

 俺は学の質問に答えられず、眉をしかめた。

「太一に食べてもらおうとしてたんだよ、いつも」

 その台詞に俺は言葉を失う。

 俺は昼食時には必ず教室から出て行ってしまう。南原さんが毎日俺にお弁当を渡したくて作ってきてくれたというなら、俺はその行為を何度ふいにしたのだろう。

「だから、今日ようやくお前に飯渡せてめちゃくちゃ喜んでる。見ろ、カイチョーさんの顔」

 俺が再び南原さんの方を向くと彼女は顔を赤くしたままだが、確かに幸せそうな表情を浮かべていた。

「あれ、見ても自分で食べないって選択肢が出るなら流石にオレが殴るぞ?」

 指を鳴らして尋ねる学と、南原さんに感謝しながら俺は久しぶりに自分の胃を満たす昼食を取ることにした。

 弟たちには悪いが人生初の伊勢海老は大変おいしかった。

 お腹を満たした後はいつも以上に眠気を感じたが、居眠りなどすることもなく午後の授業をこなし、放課後になった。

 他の生徒は午後のホームルームが終わった後、さっさとと帰って行き、教室には俺と南原さんしか居なくなる。

 中学時代から使っている鞄に教科書を詰め込み、俺も帰宅しようとすると南原さんが話しかけてきた。

「神田君!」

「な、何かな? 南原さん」

 いつになく真剣そうな彼女を見て、俺も声が上擦うわずる。

「その、えっと……ああ、なんて言うかさ」

 俺に対して、遠慮なく突っかかってくる南原さんにしては歯切れが悪く、いつになく緊張しているようだった。

「神田君、今日……暇あったりしない? その、授業で解らないところがあってもし良かったら、ふ、二人きりで教えてもらいおうかな、とか……思って」

 これはいわゆる世間一般で言うところのデートの誘いというものだろうか。

 上目遣いで俺の顔を見上げる南原さんは普段の堂々とした彼女とは違い、庇護欲ひごよくをそそる。

 心臓が脈動を早め、血液の流れが加速していくのが分かった。

 俺も、一介の高校生として南原さんのような美少女に誘われて嬉しくないと言えば嘘になる。

 だが、今日だけはその誘いを断るという選択肢しかなかった。

「ごめん。今日はちょっと無理なんだ」

 俺の答えを聞き、勇気を振り絞って聞いた南原さんの表情が悲しそうに歪む。

「……大して仲が良いわけでもない私にこんなこと言われても迷惑、よね。ごめんなさい、図々しかったわ」

 泣きそうになるのを堪えるように早口で捲くし立てる南原さんは痛々しく、俺の罪悪感を激しく揺さぶった。

「いや、今日は、今日だけは無理なんだ。明日とかなら、平気だけど」

 そう言うと、南原さんの顔に元の明るさが灯る。

「本当!? 明日なら、明日ならいいのね!?」

「ああ、うん。バイトまでの時間なら」

「絶対ね! 約束よ?」

 華のように微笑む南原さんに俺は目を奪われる。

 涙は女の武器と聞いたことがあるけれど、今の南原さんの笑顔の方がよっぽど武器になると思う。直視しているだけで心臓が痛くて、破裂しそうだ。

「ああ、うん。分かった。じゃあ、約束するよ」

「指きりをしましょう。ほら、神田君も小指出して」

 南原さんは綺麗で小さな小指を突き出すと、俺にも小指を出すように要求してきた。

 悪い気はしないというか、俺としてもかなり嬉しかったので言われるがままに小指を出す。

 白魚のような傷一つない真っ白な小指が俺のこづごつした小指に絡み付く。

 柔らかいその感触は女の子特有のものなのだろう。

「ゆーびきりげんまん。嘘吐いたらハリセンボンのーます!」

 規律がどうこうとうるさい南原さんが小さな子供のように指きりをする様子は本当に愛らしかった。

 小指同士が離れると、もう少し味わっていたかったなと思ってしまう。

「それにしてもハリセンボンって、どうやって飲ませるのかしらね。さばいて刺身にするのかしら? それとも、干物にして、粉末状にしてお湯と一緒に飲ませるのかしら?」

 南原さんが不思議そうに首を傾げたので、俺は突っ込んでいいものかと悩む。

 多分、この人『ハリセンボン』を魚の方だと勘違いしている。まあ、針を千本飲ませようなんて猟奇的なことは想像したくないが。

 南原さんとも別れ、下駄箱の方に行くと学がにやにやといやらしい笑みを浮かべて待っていた。

「カイチョーさんから、何かお誘いがあったんじゃないか? ええ? この色男」

「ああ。あれやっぱり、学が一枚噛んでたのか。道理で都合よく、俺と南原さんだけ教室に残ってた訳だ」

 きっと、学が他のクラスメイトに早く教室から出てもらうように手配したのだろう。こいつにはそれができるだけの人徳と信用がある。

「オレだけじゃねーよ。他の奴らもカイチョーさんの淡い恋心に気付いていた奴は多くてな。背中押してやろうって話になったんだよ。特に女子の連中は積極的だったな」

ああ、と俺は納得する。南原さんは女子に人気が高い。

引き締めるところは引き締め、緩めるところはちゃんと緩める。そういうけじめのある人間だからこそ、二年生で生徒会長の座に就いているのだ。

「それで、どうしたんだ? 聞かせろよー」

「いや、断ったぞ。今日、正二と三葉の誕生日だし」

「……あ。マジごめん。忘れてた」

 ふざけていた学の表情が一転して申し訳なさそうなものに変わる。

 両手を合わせ、俺に頭を下げた。

「いいよ。気にすんな。今日のところは断ったけど、明日に約束したから」

「そっかー。でも、カイチョーさんにはわりぃことしちゃったな。あと、ショウ君とみっちゃんへのプレゼント買うのも忘れてた……」

「まあ、そんな気に病むなよ」

「今日、二人へのプレゼント買って、明日には太一ん行くから」

 二人に貢ぐのはオレだぁー、と叫びながら去っていく学を見送り、俺は自転車に乗って愛する兄弟の居る我が家へと帰る。

さあ、正二と三葉には忘れられない特別な日にしてやろう。


 *****


 俺が自転車を漕いでいると、道中通らなければいけない橋が通行禁止になっていた。

 仕方がないので、俺は迂回して、いつもは通らない墓地の近くの道を通る。

 この場所は道が細く薄暗いので、夜でなくても気味が悪くてあまり通りたくない道だった。何より道が入り組んでいるので普段はほぼ確実に使わない裏道だ。

 折角の兄弟の誕生日に墓地の近くなんか通らなくてはいけないなんて嫌だなと思いながらも、ペダルを漕いでいると、ガシャンという音が斜め後ろから聞こえた。

「えッ」

 突然、ペダルが軽くなり、自転車の操作が利かなくなった。

 バランスの取れなくなった自転車は俺ごと真横に倒れる。

「いっつつ」

 幸い、大きな怪我はせずに済んだが、自転車はチェーンが千切れてバラバラになっていた。

 とうとう寿命がきてしまったようだ。むしろ、今まで頑張ってくれたことの方が奇跡だった。河川敷から拾ってきた自転車に黙祷もくとうを捧げ、俺は起き上がる。

 しかしまあ、墓地の近くで自転車が壊れるなんて縁起が悪いな。悪いことの予兆じゃないといいんだが。

「大丈夫ですか?」

 俺は壊れた自転車を引き起こしていると、俺に向けて声がかけられた。

 振り返ると、そこには尼さんの格好をした女性が立っていた。

 いつからそこに居たのかは分からないが、恥ずかしいところを見られたと思い、顔が熱くなる。

「怪我などはしていらっしゃいませんか?」

「いや、全然平気です。本当に大丈夫ですから」

 首を大きく横に振って、怪我がないことをアピールする。

 尼さんはふふと口元に手を当てて、上品に笑った。

よくよく見ると頭巾に隠れて見えにくいが、金色の髪が頭巾の隙間から見える。目も青く、顔立ちも彫が深く、鼻が高い。どうやら、外国人の尼さんらしい。

そして、何より途轍もなく美人だ。年齢は二十台くらいで袈裟けさ越しでも分かるほど、胸元が盛り上がっていた。

煩悩まみれの目で尼さんを見てしまった自分を恥じ、俺は急いで顔を背けた。

 その俺の対応が不思議だったのか、尼さんは怪訝けげんそうな表情で俺に尋ねた。

「どうかなされましたか?」

「ああ、いえ。特には……」

 まさか、あなたをいやらしい目で見てしまったので、できるだけ見ないようにしているのですよとは言える訳もない。

 どうにか、話を誤魔化したかったので、逆に尼さんに質問をする。

「日本語がお上手ですね。それに日本の尼さんの格好をされていますが、もしかして……本職の方ですか?」

 正直、金髪の外国人美女と尼さんの格好はミスマッチだった。コスプレをしているようにしか見えない。

 しかし、途中で本物の尼さんだったらどうしようかと思ったので「本職ですか」と付け加えた。

「ふふ。よく言われます。ですが、私これでも列記とした日本人なのですよ。ただ、ロシア人だった父の血が強いのか、見た目はこのような姿ですがね。ちなみに言うと、私は本物の尼僧です。正式なお免状も持っておりますよ」

 尼さんは上品な微笑を浮かべながら、優しげに答えてくれた。

 俺の予想に反して本物の尼さんだったらしい。疑ったことが申し訳なくなったので、俺は頭を下げた。

「……すみません。失礼なこと言ってしまって」

「気にしないでください。私と会った方は大抵そうお聞きになられますので」

 俺はこの尼さんに好感を覚えた。美人だからというのもあるが、話していて気持ちが安らいでいく。きっと、マイナスイオンが出ているに違いない。

「貴方様のお名前を聞かせて頂いても宜しいでしょうか?」

「俺の名前は神田太一です。尼さんのお名前は?」

「私は俗世の名はすでに捨てましたので、光芒こうぼう比丘尼びくにと名乗っております」

「光芒比丘尼さんですか」

 尼さんは普通の名前は言ってはいけないのか。大変だな、宗教関係者は。そう言えば、仏教徒は生き物は食べてはいけないんだったか。……俺も最近なかなか取ってないな動物性タンパク質。

「時に神田様。貴方様は御仏みほとけを信じておりますか?」

 光芒比丘尼さんは俺に、宗教関係者が勧誘の際に言う台詞ベスト一位を口にした。

 普段なら、家に「高級な壷なんか買うお金ありません」と拒否するのだが、この人からはそういった雰囲気が感じ取れなかったので、真面目に考える。

 仏様か。多分、信じているの範疇に入ると思う。

家には仏壇はないし、両親の葬式もお坊さんも呼べず、お経のCDでだけで済ます貧相なものだったが、何かある時は仏様に祈るし、正二と三葉には「悪いことをしていると仏様が見てるぞ」と言ってしつけている。

全体的に見て、仏様を信じていると言えるだろう。

「漠然とですけど信じています。うまくは言えませんが、仏様に見られても恥ずかしくないように頑張って生きているようにしていますし」

「そうですか。きっと、御仏もそういう神田様のことを見守ってくださいますよ」

「そうだといいですね」

 にっこりと微笑む光芒比丘尼さんに連れられて、俺も嬉しくなって笑った。

 彼女は一瞬だけ、笑顔を止めて、押し黙った後に俺に質問する。

「神田様。もし、貴方様が御仏のような力を手に入れたとしたら、どうなさいますか?」

「え? 仏様の力ですか?」

 よく分からない質問だった。どういった意図があって聞いているのかまるで想像がつかない。

 しかし、彼女の顔はふざけているようには見えなかった。

 真剣な、それこそ大事なことを尋ねている真面目な表情。

 俺は真面目に考えることにした。

 もしも、俺が仏様のような力を手に入れたとしたら……。

「今度は俺が人を支える側に立ちたいですね」

「人を支える側……」

「はい。俺は今まで、ていうか今もなんですけど、周りの人たちに支えられて生きてるんです。何度も後ろに倒れ込みそうな俺を支えてもらってるから、もしも仏様みたいになれたら大勢の人の背中を支えてあげたいです」

 自分で言っていて、何青臭いこと言ってるんだろうと思ったが、全て偽らざる俺の本音だ。

 それに、少なくとも俺がお世話になった人たちにはそんなものがなくても、いつか必ず恩返しをする予定だ。

 ただ、そんな仏様や神様みたいな途方もない力があったとしたら、俺は倒れ込みそうな誰かを支えるために使いたい。そう思った。

 光芒比丘尼さんは俺の言葉を聞くと、感銘を受けたように涙ぐむ。

「神田様は素晴らしい御方ですね。私はとても感動致しました」

「え、あ、そうですか? 何か照れるな」

 さっきとは違うくすぐったいような恥ずかしさに襲われ、俺は頬を掻いて照れる。

 しかし、光芒比丘尼さんはそんな俺の心境を知ってか知らずかこれ以上にないほど褒めちぎる。

「いえ、謙遜なさらないでください。神田様のような御方ならきっと多くの人々を支えることができるでしょう。その優しい御心をどうか大切にしてください」

 その後も、いくつか俺に質問をしてきた後、光芒比丘尼さんは深々と俺に頭を下げた。

「随分とお時間を取らせてしまいましたね。申し訳ございません」

「いえ、光芒比丘尼さんと話していて、楽しかったですよ」

「そうですか。もし宜しければこの墓地の隣にあるあの寺に来てください。僭越せんえつながら私が説法を行なわせて頂いております」

 俺は軽く会釈をして、壊れた自転車を押しながら、光芒比丘尼さんと別れた。

 それにしても、こんな場所に寺があるなんて初めて知った。

 生まれた時から住んでいた街でも知らない場所があるというのは不思議な感覚だった。

 

******

 

「ただいまー」

「お帰り。お兄ちゃん」

「おかえり。もう遅いよ。待ちくたびれた」

 愛する弟と妹に出迎えてもらい、今日も幸せな気分を味わう。

 俺は自分がこの世で一番の幸せ者だという自覚があった。この幸福を他の人にも分けてあげたいくらいだ。

「さあ、何が欲しいか決まったか? お金貯めたからな。よっぽど高いもんじゃない限りは何でも買ってやるぞ?」

「僕は特に欲しいものはないけど、お兄ちゃんが買ってくれたものなら何でも嬉しいな」

 正二が嬉しいことを言ってくれる。本当に良い子だ。

 でも、今日一日くらいはうんとワガママを言わせてあげたい。

「あたしはねー。まず美味しいものが食べたい!」

 三葉の要望に俺はプレゼントの前にどこかで外食しようと決めた。

「飯か。いいな、何が食いたい?」

「お肉ー! お肉がいい!」

 肉か。なら、ステーキハウスとかがいいかな。肉汁たっぷりのステーキやハンバーグを頬張らせてやろう。

 そんなことを考えて、三人で楽しく会話しながらアパートを出て、大通りへとやって来た。

 大通りはいつもよりも人が多かったが、何故か皆俯きがちに歩いている。背中も丸めて前屈みでいる人ばかりだった。

 俺は不思議に思いつつも、二人に何を買ってあげようかなどと悩みながら足を進めて行った。

 三葉は欲しいものをはっきりと言ってくれるが、正二は俺に遠慮してしまうところがある。素直に欲しいものを教えてくれるとは思えない。うまい具合に誘導尋問する必要があるだろう。

「お兄ちゃん、目が怖いよ」

 俺のそんな思考が顔に出ていたのか、正二は若干引いていた。鋭い子だ。きっと将来には俺なんかよりもずっと賢い人間になるだろう。

親馬鹿ならぬ、兄馬鹿な思考にどっぷり使っていると三葉が俺の制服の裾を引っ張った。

「お兄ちゃんお兄ちゃん。何か周りの人変じゃない?」

 三葉が指を指す方向に俺と正二も目を向ける。

 そちらには人と人とがお互いに組み付き合っている。いや、一組ではない。そこら中の人たちが相手に噛み付こうともがいていた。

最初は酔っ払いの喧嘩何かかと思ったが、それにしては数が多すぎる上、明らかにそういう雰囲気ではなかった。

 もっと、無機質で不気味で不自然な行動。

「あなたたち、何やって……」

 とにかく、今すぐ止めさせようとして、近付いて声をかけて硬直した。

 俺の視界に飛び込んできたのは想像を絶する光景だった。

 始めは映画かドラマの撮影かと思った。そうであってほしいと思った。

 ――食べていた。

 何が?

 ――人が。

 何を?

 ――人を。

 街に居た人がお互いに肉をんでいた。

 手足を。胴を。頭を食いちぎり、貪り合う。

 血液と脳漿のうしょうが宙を舞った。

 俺は呆然と地獄絵図を見ているしかなかった。

 現実と悪夢が交じり合ったその光景は、俺の思考を遥か彼方へと飛ばす。

 正気に戻ったのは、お互いに食らい合う人たちが俺たちの方を向いた時だった。

 真っ赤に充血して肥大した眼球は眼窩がんかから飛び出している。

 その全てがこちらを注視していた。今まで激しく動いていた彼らは時が止まったように微動だにしない。

 どろりとした恐怖溜まり溜まってが脳内から、絶叫として噴き出した。

「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁ!!」

 顎が外れそうになりながらもほとばしった叫びに呼応するように、停止していた彼らは俺たちを目掛けて走り寄ってくる。

「逃げるぞ! 正二、三葉は俺が良いって言うまで目を瞑ってろ!!」

 二人を抱えて、少しでも狂気に満ちた人間たちから離れなくてはと思った。

 理屈を超えた何かが一刻も早くこの場所から逃げろと警鐘を鳴らしていた。

 二人とも声一つ出さない。きっと恐怖で泣き叫ぶことさえできないのだろう。

 俺だって、今にも狂いだしそうなのだ。

 今こうしている今も、何が起きているのかまるで理解できない。

 これが現実なのかも確信が持てずにいる。

 だが、もしこれが現実だったとしたら、ここで彼らに捕まれば貪り食われることは必至だ。

 俺は全速力で駆け出した。後ろどころか、前すらよく見ずにただひたすら足を動かす。

 夏の強い日差しが、塩分と水分を俺から絞り取る。蝉の声すらもう俺の耳には届かなくなっていた。正二と三葉が何か言ったのかもしれないが、それを聞いている余裕など欠片もなかった。

 俺が二人を抱えて、食人鬼たちを振り切って、やって来たのは昨日の建設工事の現場だった。

 何故、ここに辿り着いたのかは俺自身分かっていなかった。いつも来ているこの場所に無意識の内に向かってしまったのかもしれない。

「神田ぁ、お前か? どうしたぁ?」

 香川さんの声が聞こえた。

 俺は息を切らしながら、周りを見回すと香川さんを見つけた。

 狂ったような非現実的な光景から開放され、現実に引き戻されたような感覚を感じた。

「か、がわさん……何か、大通りの方で……」

 今しがた見た地獄絵図を話そうとして、猛烈な鉄の臭いを感じて押し黙る。

 何だ、これは。いくら鉄骨が置いてある建設現場とはいえ、こんな鉄臭いのは異常だ。

 そして、俺は香川さんの口元がスイカでも食べたように赤い汁がしたたっているのが目に止まった。

「どうしたぁ?」

「……香川さん、何か食べてたん、ですか?」

 恐る恐る聞くと、香川さんは持っていた赤黒い物体を持ち上げた。

「北上だぁ」

 それは目玉の飛び出した北上さんの生首だった。

 頬が抉れ、顔半分から白い骨が剥き出している。

「加賀も川波もあんぞぉ」

 言葉につられて、そちらを向くとおぞましいとしか形容できないものが網膜に飛び込んできた。

 それは、手足があり得ない方法に折れ曲がったまま、上半身と下半身が引き裂かれた人体だった。

だが、そんなことさえ、肉片同士がお互いに千切れた部分から血をすすっている狂気的で怪奇的な光景に比べれば注目するべき点ではなかった。

 俺が二度目の絶叫は、胃の中の吐瀉としゃ物をともなった。

 思わず、正二と三葉を落とすところだった。

「おお、勿体もったいねぇなぁ……」

 香川さんは持っていた北上さんの頭を放り投げて、俺の吐き出した吐瀉物を舐め取り始める。

 次第にそのシルエットを変化させ、熊のような見た目へと相貌そうぼうを歪めていく。性質たちの悪い冗談としか思えないその光景を俺は最後まで見ていることができなかった。

 正二と三葉をしっかりと小脇に抱きかかえながら、少しでもこの悪夢から遠ざかりたかった。

 狂っている。狂っている。狂っている。

 何もかもが壊れて果てている。

 嫌だ。逃げたい。早く、ここから出してくれ。

 もうほとんど自分の思考が正常に働いていないことを自覚していた。

 常識を踏みにじるような冒涜的な怪奇現象にまともな感覚は完全に麻痺しているのだろう。

 ぼうっとした頭のまま、俺は人気の少ないところ探し、逃げ惑った。

 足が棒のように重くなり、それでも一歩も動けなくなるまで歩きとおした。

 食人鬼たちはどこかしこにも溢れていたが、お互いを食らい合うことに終始している彼らは俺たちに気が付かないほど夢中だった。

 しかし、それを幸運と呼ぶには俺たちを取り巻く状況は最悪過ぎた。

 俺は細い路地裏の壁に背を預け、抱えていた正二と三葉を降ろした。

 何でこんな理解不能の理不尽な状況になっているんだ?

 俺はこんな思いをしなければならないことをしたのか?

 誰か教えて欲しい。そして、助けて欲しい。この狂った地獄から救い出して欲しい。

 お世話になったバイト先の人たちは皆、人ではない『何か』に変わっていた。

 皆、何一つできなかった俺を支えてくれた大切な人だった。

 香川さんは俺を叱りながらもしっかりと育ててくれた。

 北上さんは俺が失敗して落ち込んでいる俺を笑って慰めてくれた。

 加賀さんは俺に詳しく仕事のやり方を覚えるまで教えてくれた。

 川波さんは俺の境遇を知り、悩みや相談事を聞いてくれた。

 ようやく、落ち着ける場所について、大切な人たちを失ったその衝撃と絶望が脳内で改めて理解し、俺は涙を流した。

「……お兄ちゃん。大丈夫? もう目を開けてもいい?」

「お兄ちゃん、わたしも」

 俺の言いつけどおり、ずっと目を閉じていた二人は俺に許可を求めてくる。

「ああ、大丈夫だ。もう目、開けていいぞ」

 二人の頭を撫でながら、俺は自分に言い聞かせる。

 何を甘えたことを思っていたんだ、俺は。何があろうと正二と三葉を守ることを優先しろ! 自分のことなんか二の次でいい。

 壊れかけていた俺の精神が再び理性で強固に押さえつけられる。まだ参ってる場合じゃない。絶望に浸るなんて死ぬまでしない。

「ねえ。お兄ちゃん。何が起きてるの? ねえ、さっきの人たちは何をしていたの?

何で大きな声で叫んでたの?」

 三葉の言葉に俺は答えなかった。

三葉にはあの狂った惨劇がよく見えていなかったのだろうか。それなら、幸いだ。あんなもの理解する必要もない。

「何が起きているのかは俺にも分からない。だけど、必ず俺がお前らを守ってやるから安心しろ」

「お兄ちゃん……泣いてたの?」

 正二が心配そうに俺を見てくる。

いけない。こんな情けないところを見せていたら、二人を不安にさせてしまう。

「大丈夫。お兄ちゃんを信用しろ」

 聡い正二のことだ。三葉以上に俺に聞きたいことがあるだろうに、それを聞かずに俺の身を案じている。

 だから、俺はできる限りの虚勢を張り、不敵に笑って見せた。


*****


 少なくとも留まり続けるにはこの路地は適していない。

「お兄ちゃん……。あたし、お腹空いた……」

 三葉がしょんぼりとした顔で小さなお腹をさすりながら、俺を上目遣いで見た。

 そう言えば、元々は夕飯を食べるために外に出たんだった。異常な状況に晒されたせいですっかり頭から抜け落ちていた。

「三葉。お兄ちゃん困らせるなよ」

 正二はそんな三葉をたしなめるが、俺は二人をぎゅっと抱きしめて言った。

「もうちょっとだけ我慢してくれ。そしたら、三人で誕生日パーティしような」

 俺は二人にまた目を閉じてもらい、さっきと同じように脇に抱きかかえると、慎重に周りを確認しながら路地裏から出た。

 ここはもう俺の知る場所ではない。そう自分に言い聞かせて、物音を立てないように歩き出す。

 人が集まれて安全な場所。

 取り合えず、その定義に当てはまり、なおかつ現在地に一番近い場所を歩きながら頭の中で検索する。

 そうだ。光芒比丘尼さんに出会ったあの細道に寺があると言っていた。

 あそこに避難しよう。あの場所ならここからそう遠くないし、細い裏道には食人鬼たちも入り込んでいない可能性がある。

それにもしかすると、俺たちのようにあの食人鬼たちにならなかった人がまだ居るかもしれない。

 希望を持たなくては。正二と三葉を守るためにも心が折れる訳にはいかないのだ。

 幸い、食人鬼たちは知能が低いらしく、複数居る場合はお互いを貪ることに夢中で物音さえ立てなければ俺たちには気付かなかった。

 けれど、一度気付けば、自分を用意に食い殺すだろう化け物の傍を通るのは非常に恐ろしく、勇気の居ることだった。

 脈絡もなくいきなり振り返る可能性を考えながら、奴らの背後を歩くのはそれだけで精神と体力を磨耗させてくる。

 どうにか細道に入り、寺に着いた頃には外は真っ暗になっていた。

 ただ、門がしっかりと施錠されていて中に入ることはできなかった。

 だが、同時に施錠されているということは中に鍵を掛けるだけの知能を持った存在が居るということだ。食人鬼にそんな知能があるとは思えないし、何より奴らには寺にもる理由がない。

 ぜひとも中に入れてもらいたいが、大声を上げて助けを求めるのは食人鬼を引き付けてしまうかもしれない。

 しかし、じっとしている訳にもいかない。そろそろ、俺の体力も限界に近かったし、何より抱えた二人を早く安全な場所に連れて行ってあげたい。

 意を決して声を上げようとした時、俺のよく知る声が耳に届いた。

「太一? もしかして太一か!?」

 門の覗き穴から見えたのは瞳だけだった。声を聞けば分かる。

 学だ。これは学の声だ。

 この暗い中で俺の顔を判別してくれた親友を見て、俺は安堵に崩れ落ちそうになった。


******


「よく無事だったな。ショウ君もみっちゃんも大丈夫か?」

 学に中に引き入れてもらった俺は寺の床で座り込んでいた。

 ようやく落ち着ける場所に着いて、気が抜けてへたり込んでしまったのだ。

 寺に居るのは学を含めて数名で誰も未成年ばかりだった。皆同様に膝を抱えてぶつぶつと何かを呟くばかりで俺たちに反応する人は一人もいない。

「お兄ちゃんに抱きかかえてもらってたから平気です」

「あたしも大丈夫。ていうか、お兄ちゃんが一番疲れてると思う」

 三葉の心配そうな台詞に強気に答えようとしたが、疲れすぎてうまく声が出せなかった。

 学がそれを見て、俺の背中を軽く叩いた。

「二人のことは俺に任せてお前はまだ休んどけ、な?」

「悪い。……学、一体何がどうなったんだ? この街は何でこんな風になってしまったんだ?」

 気が緩んだせいか、学に今の状況についての説明を求めてしまう。そんなことは学にだって分からないのは当たり前なのに。

「それは俺にも……」

「私が教えて差し上げましょう」

 突然、後ろから掛けられた声に俺が振り向くと、いつの間にか見覚えのある女性が立っていた。

「光芒比丘尼さん……」

「数時間ぶりですね。神田様」

 にっこりと穏やかに笑う顔はこの狂った絶望的な世界において、どこか致命的にずれているように感じた。


 正二と三葉を学に預けて俺は光芒比丘尼さんと対峙するように座った。学も聞き足そうだったが、正二と三葉の面倒を理由に諦めた。後で聞かせろよとだけ言い、違う部屋へ二人を連れて行った。

「まず何からお聞きになられますか?」

 お互いに正座をして対面した後、光芒比丘尼さんがそう尋ねてきた。

 何から、と言われても一体どこから聞けばいいのか分からない。今の俺には何もかもが分かっていない状態なのだ。

 一、二分考え込んでから俺はこう答えた。

「今、何が起きているのかを光芒比丘尼さんの知る限りでいいので教えてください」

 取り合えず、現状起きている全てのことを可能なだけ知らなくてはならない。

「分かりました。それではお話致しましょう」

 緩やかに微笑むと前置きをして語り始めた。

 それは俺の理解の範疇を超える話だった。

 光芒比丘尼さんの話によれば、この菩提市は『特異点』という地獄の一つ餓鬼道と繋がる場所なのだと言う。

 『特異点』となった土地に居る人間は次第にその影響を受けて【餓鬼】と呼ばれる化け物に変容していくのだそうだ。何故こういった現象が起こるのか、『特異点』がなぜ発生するのかまでは、光芒比丘尼さんも分からないらしい。

 今、この街に居る人間は既にそのほとんどが餓鬼化していて、【餓鬼】と化した人間は強烈な食欲に思考を支配され、手当たり次第のものを食らうことしか頭になくなる。

 そして、【餓鬼】になった人間を戻す手立ては今の段階では存在していないのだと言う。

 俺はお世話になったバイト先の人たちがもう人間には戻れないと理解して、また涙腺が緩みそうになったが、下唇を噛み締め、涙を堪えた。

「この場所は私が結界を張っているので、この寺に居る間はしばらく安全でしょう」

「あの、こんなことを知っているんですか? 光芒比丘尼さん……貴女は何者何ですか?」

 この狂った地獄のような菩提市で平然とこの現象について、さも当たり前に語る目の前の女性が俺には酷く恐ろしく思えた。

 今の話によると俺を含めたこの寺に居る人間は光芒比丘尼さんの「結界」とかいうものによって護られているらしい。

 けれど、そんな力を持っている存在がとても同じ人間だとは思えない。今の外の状況が彼女のせいだと言うつもりは毛頭ないが、何らかの関係はあると考えていいはずだ。

 すると、光芒比丘尼さんはすっと手を伸ばし、俺の手を優しく包み込むように握ってきた。

「私は【餓鬼】と戦う力を持つ人間を探すために御仏に選ばれた存在なのです」

「仏様に選ばれた存在……?」

 少し前なら、頭のおかしな人としか思わなかっただろうが、嫌と言うほど人智を超えた怪奇現象を見せられた今の俺にはそこまでおかしくは聞こえなかった。

 あんな化け物が存在するなら仏様が実際に居たって変ではないだろう。

「そして、神田様……貴方様は御仏に代わりに御仏の力を使って【餓鬼】と戦う戦士――『代仏装兵』なのです」

 続け様に語られたその台詞に俺は思わず声を上げた。

「ええ!? 意味が分からないですよ!?」

「仏に代わって装う兵と書いて、『代仏装兵』と書きます」

「いや、どういう漢字かって聞いてる訳じゃないです!」

 宙に指で漢字を書いて、俺に教えてくれる光芒比丘尼さんに俺は突っ込みを入れた。

 光芒比丘尼さんは「あら、そうなんですか」と惚けた様子で耳に掛かった金髪を掻き上げた。

 ペースを崩されそうになりつつも、俺は言われた言葉の意味を頭の中で反芻はんすうする。

 俺があの【餓鬼】とかいう化け物と戦う戦士?

 意味が分からない。冗談で言っているのだろうか。

 しかし、俺の目を見つめる光芒比丘尼さんの瞳はとてもではないがふざけているようには見えないほど真摯なものだった。

 仏様に選ばれた存在だとか、俺が仏様の力を使って化け物と戦う戦士だとか、あまりに唐突過ぎることばかりで思考が着いて行けずに少々呆然としてしまった。

 数十秒後にようやく落ち着いて、思考を整理して言葉を紡ぐ。

「俺はごく普通の高校生ですよ。そんな仏様の力とか言われても、そんなもの持ってません」

「大丈夫です。神田様が《輪廻解脱》をすれば、『代仏装兵』としての力に目覚めることができるはずです」

 《輪廻解脱》……? またよく分からない用語が飛び出してきた。

 どういう意味ですかと俺が問うまで光芒比丘尼さんは教えてくれた。

「生あるものはその命を全うすると生まれ変わり、その魂は別のものに転生します。それは虫だったり、動物だったり、人であったりと生前の行いによって様々ですが、全ての魂が『輪廻』と呼ばれる輪の中を回り、新たに生まれ、そして死んでいくのです」

「はあ」

 つまりは『輪廻』というのは魂を循環させ、リサイクルをする場所のようなものということか。リサイクル施設を脳内に浮かべた。

「そして『解脱』というものは、その輪廻の輪から出ることです」

「えっ? それ、良いことなんですか?」

 俺はリサイクル施設から爪弾きにされた道具を想像し、光芒比丘尼さんに聞いた。

「勿論です。輪廻の輪から解脱するということは生前の罪や煩悩から解放され、自由になるということですから」

 光芒比丘尼さんはそういうが、俺には少し納得ができなかった。

 自由になって、命の輪から出てしまった魂は一体どこで何をすればいいのだろう。

 まるでそれは一人ぼっちになってしまうようで、あまり良いイメージを抱くことができなかった。

 いずれ貴方様がこの街を【餓鬼】から救う『代仏装兵』となるでしょう、そう告げると光芒比丘尼さんは立ち上がり、障子を開け、俺を置いてどこかに行ってしまった。

 まだ聞きたいこともあったので、呼び止めようと思ったが、この寺の結界がまだ保つかを確認してくると言っていたので、俺だけの都合でここに居る人の命を危険に晒す訳にもいかず諦めた。

 仕方がないので俺は学の下に戻ると、正二と三葉が何やら頬張っていた。

 よく見ると三葉はキャラメルの箱を持っている。

「あ、お兄ちゃん。学くんがあたしたちにキャラメルくれたのー」

 にこにこしながら三葉は俺に箱を見せてきた。

対照的に正二の方は少しだけ俺に申し訳なさそうにしている。自分たちだけお菓子を食べていたことにバツが悪いのだろう。真面目な奴だ。

「そっか。良かったな、二人とも」

 左右の手で二人の頭を軽く撫で、学に礼を言った。

「ありがとな、学。二人ともお腹空かせたんだ」

「まあ、こんなもんくらいしか持ってなかったがな。買い物の途中だったから、最初はもっと食料品もあったんだが……あの化け物どもに追われている時に落こっとしちまったし、残ったもんも……」

 ちらりと横を一瞥する学。それにつられて視線を移すと、俺たち以外の子供たちも何かしらお菓子を食べていた。

 きっと、学があげたのだろう。こいつはそういう男だ。

 皆、俺たちと同じか、それ以下の年齢の子供ばかりだ。せめて、食べ物で気を紛らわせないとおかしくなってしまう。

「でも、平気なのか? 食べ物をこんな大盤振る舞いして」

「まあ、菓子類ばっかだったし、保存の利く缶詰とかはまだ持ってるよ」

 夏という季節のことも考えれば、この気が狂いそうな状況で滅入ってる子たちに精神安定にした方が建設的だろ、と学は苦笑いで言った。

 確かに、その通りだ。

 もはや、食事がどうこうという次元の話じゃない。

 俺は正二たちには聞こえないように学を一旦この場から離して、小声で先ほど光芒比丘尼さんから教えてもらった話を伝えた。

 俺と同じように動揺するものかと思ったが、予想よりも落ち着いた様子で、そうかと呟いただけだった。

「驚かないのか……?」

「この街がイカれてるのはとっくに知ってたよ。化け物どもの正式名称が分かったところで何も変わらねーだろ」

 それもそうか。もうこの菩提市に取り返しのつかないことが起きている以上、驚く必要もない。

「ま、ただ太一がこの状況を打開できるかもしれないヒーローだってとこには少し驚いた」

「少しかよ!」

 片目を瞑って、茶目っぽくウィンクする学に俺は思わず突っ込んだ。

 俺はそこについて、結構衝撃を受けたというのにこいつは……。

 学を僅かに睨むとふざけた雰囲気を消して、俺の肩に手を置いた。

「オレは太一が仏様だって言われも信じるぜ。お前はいい奴だ。親に死なれて大変なのに兄弟を必死に育てて、おまけに一時期荒れてたオレを更生させてくれた」

「学……」

「人に迷惑かけて粋がって、親にまで見離されてたあの時のオレを気にかけてくれたのは太一だけだった」

 学の台詞で懐かしい過去の記憶が脳裏によみがえる。

 学との付き合いは小学校からだったが、中学の時の学は不良グループに所属し、非行に走っていた。

 いつもギラついた敵意のこもった目で周りを睨んでいたのをよく覚えている。

 小学校時代から、学の両親の不和から来るネグレクトが原因だった。突然非行に走ったのではなく、今まで我慢していたものを発散した結果だったのだろう。

 学も両親が自分を再び、見てくれるようになれば不良なんて止めるつもりだった。

 けれど、学の両親は前にも増して学を無視するようになった。結果、学は更に荒れた。

 俺はそんな学が放って置けず、家に呼んだり、悩みを聞いたりしていた。麻薬に手を出そうとしていた時は構わず、ぶん殴ったことは今でもはっきりと覚えている。

「あの時は殴って悪かったな」

「あの時? ああ、センパイから貰ったマリファナ吸おうとしてた時か……。いや、ありゃ、ぶん殴られて当然だろ。嬉しかったんだぜ? 殴ってまで止めようとしてくれる奴がいてさ」

俺の言葉に学も思い出したようで照れくさそうに鼻を掻いた。

それを見て、俺は小さく笑った。この訳の分からない状況でやっと緊張が解けていくのが分かった。

「まあ、何つーか、太一はものすげーいい奴だ。それこそ仏様クラスのな。オレに取っては大恩人だしよ。だから、お前が特別な存在って言われも何となく理解できるんだよ」

「そうかな?」

 俺は自分が特別な存在だと思ったことは一度もない。ただ自分にできることをできる分だけやってきただけだ。

 貴方は特別だと言われてもピンと来ない。あまりにも現実離れし過ぎている。

「太一は太一が思ってる以上にすげー奴だよ。オレが保障する。お前だったら、この訳分かんねー状況もきっと何とかしちまうよ」

「そんなこと言われても俺には」

 できないと続けようとした時、学が言葉を被せた。

「ショウ君とみっちゃんの前でも同じことが言えるのか?」

 正二と三葉の前でも……。

 まだキャラメルを食べている二人に目を向ける。

 言えない。いや、言わない。絶対にあの二人の前では弱音を吐かないと誓った。

 そうだ。俺がどうにかしなければあの二人の未来がないのだ。

 まだ輪廻だの代仏装兵だのはよく分からない。でも、俺が何とかしなければ正二と三葉が困るというのなら、絶対にどうにかしてみせる。

 学がにやりと不敵に笑った。

「調子出てきたみたいじゃねーか。その顔をしたお前が失敗するところをオレは見たことないぜ?」

「お前のおかげだ、学」

 俺は一人じゃない。こうやって俺を支えてくれる人がいる。

 めげている暇なんかない。もしも俺に本当に何か特別な力があるのなら、この街を元に戻したい。

 そして、また学校で……。

 そこまで考えて、俺は一人の少女を脳裏に思い浮かべた。

 南原さん。彼女は無事なんだろうか。

 今までそれどころじゃなくて、考える暇がなかったけれど南原さんもこの状況にあっているはずだ。

『本当!? 明日なら、明日ならいいのね!?』

 彼女の嬉しそうな顔が浮かぶ。

『絶対ね! 約束よ?』

 約束守れそうにないよ……南原さん……。

「明日か……」

 俺の漏らした呟きに反応して、学が言った。

「明日のことも考えなきゃな。今日はもう寝た方がいいぞ。お前はただでさえでも寝不足なんだから。二人のことは俺に任せとけ」

 その言葉に俺は甘えて、身体を休ませてもらうことにした。

 南原さんのことを考えるのが辛かったから逃げたのかもしれない。

 

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