09
先生から話しを引き継いだマスターは、まず『東堂海慈』という一人の男について語り出した。
「世の中にはさ、ヒヨちゃん。家事が苦手な人達が山ほどいる。でも日常生活が立ち行かないほど自分じゃ何も出来ないって人は少ないだろ?」
「うーん……そうですね。多くは無いと思います」
「先生はさ、そういう人の中でも特に誰かの助けを必要とする人なんだよね」
「特に……ですか?」
思わず首を捻ってしまった。
だってこうして目の前に居る先生は至って健康体に見える。そういう意味ではあまり不自由をしているようには見えなかったからだ。
「ハハ、納得いかないって顔だね。
これは説明が難しい所なんだけど……うん、そうだな。具体的な例を挙げた方がわかりやすいか」
「はあ、具体的にというと?」
「うーん、何がいいかな……。ああ−−そうだ」
マスターは大人しく座って話しを聞いていた東堂先生を上から下までぐるりと見回し、一人頷いた。
「先生。そのモジャモジャの髭。どうしてそんなになるまでほっといたんです?」
先生に話しを振ったという事は、これが具体的な例という事?
訝し気に二人を見ていたら、マスターが意味あり気に片方の眉を持ち上げて見せた。暫く様子を見ていろという事か。
「好きでほっといた訳じゃないさ……ただ、シェーバーが壊れて……」
「剃刀は? あれなら何処にでも売ってるでしょ?」
「あのT字になってるやつか? 何度か買ったんだけど、あれで剃ると顔が血だらけになるから……」
そこまで聞いて、マスターは大きくため息をついた。「そんな事だろうと思った……」と小さく呟いたのが聞こえたが、私は今の所黙って成り行きを見守るしかないようだ。
「あれは本来そんな凶器じゃないからね。そもそもシェーバーは何で壊れたの?」
「ん? さぁ? 買って来て貰った新しいのを使ったんだけど、すぐ壊れた。……不良品だったのか?」
「……まさか、そのモジャモジャのままシェーバーあてたんじゃないよね? そんな事したら壊れて当たり前だからね?」
「……そうなのか。じゃあどうすれば良かったんだ?」
「−−ハサミか何かで剃りやすい長さに切っておくんですよ」
思わず、口をついて出た。
先生のあまりのズボラぶりについつい口を挟んでしまったのだ。
こういう所が元彼に、「仕切り魔」と言われてしまう原因なんだろうし、自分でも気をつけていたんだけれど。
内心では「しまった」と思ったが、マスターは満足そうに微笑んでいた。
「ああ、なるほど。吾妻さんは物知りなんですね。次からはそうします。教えてくれて有難う」
そう言って笑った東堂先生に、微かに胸が高鳴った。
自己嫌悪に陥っている時にそんな優しい事を言われたら、大抵の人は参ってしまう。まあ、見た目はちょっとアレだけど……。
私の場合、男の人にこんな風に褒められる事にも慣れていないから、余計どうしていいか分からない。
「そういう口説き文句を言うなら、せめてその髭面をどうにかしたらもっと効果があるのに」
マスターが茶々を入れてくれたおかげで、私は妙な居心地の悪さから解放されてホッとする。
先生はキョトンとして首を傾げているあたり、マスターの言った事を良く分かって居ないようだった。
「それに、床屋や美容室に行って処理してもらおうって所に気が回らないのが先生だよね」
「あっ−−」
先生は本当に今気づいた、とでも言うように心底驚いていた。それを見たマスターが本日何度目かになるため息を吐き出すのも、仕方が無いと思う。
その後もマスターが質問し、先生が答え、ため息をつく。そんな繰り返しが暫く続いた。
−−その服は? ……洗濯機が動かないから、そこら辺にある一番綺麗なの着てきたんだけど。今度纏めてクリーニングに出そうかと……。
−−靴は? ……下駄箱の中でカビが生えてた。無事だったのがこれだけだった。
−−ご飯どうしてるの? ……取り合えず忘れなかったら外で食べてる。
−−風呂は? ……シャワー壊れてお湯が出ないんだよな……でも水のままでも入れるよ。
−−ちゃんと寝てる? ……火燵あったかい。
そこまで聞いて、我慢しきれなくなった私が待ったをかけた。マスターは苦笑いしながら先生に対する尋問を止め、疲れたようにコーヒーを飲んで喉を潤していた。
「大体分かって貰えたかな」
「何て言えばいいのか……もうお腹一杯です……」
やっとの思いでその言葉を吐き出したのに、マスターの一言が更に私へ追い撃ちをかけた。
「ヒヨちゃん、こんなの氷山の一角だよ」
「あー……」
たまらずテーブルに倒れ込んだ私を誰も責めないで欲しい。