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仕切り魔様の憂鬱  作者: 森埜林檎
第一章
3/13

03

 

 このいたたまれなさはどうしたらいいんだろう。


 目の前の席でサンダルを眺めていたはずの熊男 は今、私の身繕いをじっと見つめている。

 いや、テーブル脇ではマスターが割れたガラスや零れた飲み物を片付けてるから、迂闊に動けないのは分かってるんですよ。


 分かってはいるんだけど、そんなにじっと見られると、正直やりづらい事この上ない。


 とはいえ、濡れたままでいる訳にもいかないので、私は極力向かい側の熊男を気にしないように身繕いに専念していた。


 不幸中の幸いと言えばいいのか、頭から水を被った割に服はそれ程被害を受けていなかった。衿と膝のあたりが濡れているが透けたり色が移るような服でもなかったからそこまで目立たないだろう。

 顔にもかかったとはいえ化粧は殆どしていなかったから、もうメイク落としで拭いてしまってもいいだろう。

 髪は先にタオルドライして纏めてしまったので、化粧を落としたら本当に家を出て来る前に逆戻りだ。

 とはいえこの後三時間も時間を潰さなきゃいけないから、面倒でも化粧はしなきゃいけないけど。


 鞄からコスメポーチを取り出して携帯用のメイク落としで顔に中途半端に残ってしまった化粧を手早く拭き取ってしまう。ティッシュで軽く全体を押さえてオイル残りを取り去ると、化粧水をなじませる。

 不本意ながら頬に小さな切り傷が出来てしまったのでファンデは無しで。後はアイブロウとアイメイクを軽く、口紅の変わりにベージュのカラーリップをして即席メイクの完了だ。

 最後の仕上げは熊男に貰った絆創膏を頬骨の下あたりにペタリと貼って出来上がり。


 ふぅ、と思わず息を吐き出す。何だか妙に疲れたように感じるのは、目の前の熊男が身を乗り出してまでじっとこちらを見ているからに他ならない。


 こらこら。女の舞台裏は見ない振りをするのがルールですよ。


 内心で突っ込みながらも、眼鏡の奥の瞳が忙しくコスメポーチと私の顔を行ったり来たりする様を見ていると、何だか憎めないような気がして肩の力が抜けてしまうから不思議だ。

 

 

 見られているのをいい事に、私も目の前の男を観察してみる事にした。


 最初に目の前に現れた時から気になっていた鳥の巣頭。よく見るとくるくるとしたカールは大きさも不規則、巻いてる向きも不規則。これは天然だな。良く見ると伸び放題の髭もちょっとだけ巻いてるのが可愛いかも。


 分厚い眼鏡の奥には切れ長な瞳があって、目尻にちょっと皺がある。

 そういえばこの人いくつ位なんだろう。まあ、この見た目じゃ性格な年齢は解らないけど、四十は超えてるのかな?


 服装はくたびれた白のTシャツとチェック柄のネルシャツ。ベージュのチノパンに足元はホームセンターで売ってるようなサンダルだ。

 良く見たら所々黒い染みみたいな汚れが服の至る所に付いている。そういえばさっき見た大きな手も爪先や手の平が黒く汚れてた気がする。


 何してる人なんだろ。まさかお家が野外にある人じゃ……ない、よね?


 考え始めたらちょっと危機感出て来たかも。憎めないとか呑気な事言ってる場合じゃなかったんだよ、私の馬鹿!


 もう観察どころじゃなくて、ガチガチに緊張している私。どのタイミングでお暇しようかと思っていると、絶妙なタイミングでマスターが飲み物を運んで来てくれた。


「先生。そんなにじろじろ見たら失礼ですよ」


 マスターが軽く諌めながら熊男の前に大きなマグカップを差し出す。あ、マイカップって事はやっぱりこの人常連さんなんだ。


 大きな手の中にあってもしっくりくる大きなサイズの紺色のマグ。熊男はそれをマスターから受け取ると、気まずそうに首の後ろに手をやった。


「いや、小さな巾着から色々出て来たと思ったら、あっという間に顔が直ったから何ていうか、面白くて、つい……」


 おい。直ったって何だ。直ったって。私、人間辞めた覚えなんてないんですけど。


「あのね先生。いつも言ってるけど、言葉のチョイスおかしいから。作家先生なのにどうしてその語録をコミュニケーションに使えないかね」


 怒られた熊男は、バツが悪そうに肩を竦めて誤魔化すようにカップに口を付けた。


 

 それにしても作家!

 なるほど、それで先生ね。


 この熊男みたいな格好も締め切り間近だったからとか、そういう事?

 じゃあ、あの至る所にある黒い汚れはインク染み?

 いや……でも、いくらなんでもコレはなぁ……限度ってものがあるてしょう。


 私が一人でうんうん唸っていると、熊男の様子を見ていたマスターは心底呆れたように大きな溜息をつくと、気を取り直した様にくるりと私の方に振り返った。


「はいヒヨちゃんには温かいカフェオレね」

「マスター!でも、こんなにして貰ったら悪いです……。ただでさえご迷惑おかけして……」

「迷惑だなんて思ってないから。遠慮しないで飲みなさい。ね?」


 にっこりと微笑むマスター。私はこの笑顔に弱いのだ。歳の離れた兄にどこか似ているのもあって、マスターの笑顔見たさにここに通っていると言っても過言ではないのだから。

 結局、冷めちゃうよと目の前に差し出されたカフェオレを断る事は出来ず、小さく頷いて受け取る事しか出来なかった。


 目の前の熊男と同じく黙ってカップに口を付けると、いつもよりちょっとだけ甘いカフェオレに全身の力がゆっくり抜けて行くのがわかった。


「どうヒヨちゃん。少し落ち着いた?」


 はい、と返事をしようとして口を開いたけれど、私が返事をする前に熊男が何かに反応して顔を上げた。


「ヒヨ? 彼女の名前はヒヨさん?」


 大きなカップを片手に不思議そうに私とマスターを交互に見ている熊男。

 マスターは今回も呆れた顔を隠さずに溜息を付いている。


「あのね、先生。これも毎回言ってるけど、疑問に思った事をすぐ口から出すのはよそうね。言われた方はびっくりするから」

「ん。ごめん。ヒヨさんもごめん」


 いや、間違ってはいないんだけど“ヒヨさん”って言われると何か違う気がする……。


 あ、そういえば私この人にお礼も言ってない。絆創膏一つとはいえ恩は恩。しっかりお礼をしなくては。

 

 

「あの。先程は見苦しい所をお見せして。遅くなりましたが、絆創膏、ありがとうございました。

 私は吾妻日和あづまひよりと申します。ヒヨと言うのはあだ名なんです」


 座ったままだったけど、姿勢を正して一礼。ついでに名刺を差し出してしまったのは長年OLをしてきた性だ。


 急に畏まった為か熊男は驚いた様子で、一瞬の後に慌ててカップを置いて私の名刺をその大きな手でうやうやしく受けとった。


「その、こちらこそ初対面の女性に失礼ばかりして。

 僕は東堂海慈とうどうかいじといいます。一応作家の端くれとして飯を食わせて貰ってます。えっと名刺……」


 そう言ってパタパタと身体を触り出す熊男……もとい東堂海慈という男。本人は一生懸命名刺を探しているようだけど、正直名刺なんて要らない位の有名人だ。いや、本当に本人だとすればだけど。


「ああ……すみません。僕、今は名刺を……あれ、そういえば名刺ってどこやったっけ……うちにあるのかな……」

「……えっと?」


 やっぱり怪しい人、なの?

 話しの途中で一人で考え込んじゃったし、私はどうすればいいんだろう?

 私が少し引き気味になっているのに気づいたマスターが、見兼ねて助け舟を出した。


「先生の名刺なら俺が持ってますよ。ヒヨちゃん。この人今の所凄く怪しいと思うけど、本当にあの東堂先生だから。今名刺持って来るね」


 マスターは踵を返してカウンターに戻って行く。レジ脇に置いていたらしい名刺入れから間もなく目的の物を探しあてると、何故か自分のコーヒーも持って戻って来た。


「はい。これ先生の名刺。俺いくつか持ってるから、それはヒヨちゃんにあげる。いいよね、先生」


 差し出された名刺を受け取ると、確かにそこには“文筆業・東堂海茨”とシンプルに印刷されている。裏には編集者らしい人の名前と連絡先が小さく印刷されていた。


 本当にあの東堂海慈なんだ……。この熊みたいな人が?


 私は驚き過ぎてポカンと口を開けたまま、目の前の男と、その先生とやらを押しのけて席に座りこんだマスターを交互に見つめる事しか出来なかった。

 

 


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