02
「使って下さい」
その声は、美声だと評判のマスターより更に低く、身体の芯を震わせるような破壊力を持っていた。
絆創膏と共に目の前に差し出されたのは、節の目立つ大きな手。
どちらにも驚いて、私は俯いていた顔を上げた。その拍子に頭からタオルがずり落ちてしまったけれど、それが分からない程の衝撃を私は受けた。
「……え?」
思わず少しのけ反ってしまった私を許して欲しい。
テーブルの脇に立って私を覗き込んでいる男は、鳥の巣のような頭に顔の半分を覆う様なもじゃもじゃの髭。縁幅の広い眼鏡までしているものだから顔の判別なんて出来ない。良く言えば山男。いや、どちらかと言えば山から出て来た熊のような風体をしていたのだ。本能的に身体が防御体制に入ったのも致し方無いと思う。
しかし警戒を解かない私に対して目の前の熊男はさして気にした風でもない。それどころか更に覗き込んで来た。
流石に私も逃げようかと腰を浮かせた所で、熊男は自分の頬に指を当て絆創膏を更に私に差し出した。
「ここ、切れてます」
「えっ?」
人が無意識に反応する言葉ってあると思う。落ちましたよとか、付いてますよとか。切れてますよもそのうちの一つだと思う。見知らぬ人に言われても反応してしまうのだから、例え熊男でも目の前の人に面と向かって言われた私が、反射的に頬へ手をやってしまったのも仕方ないと思うのだ。
決して警戒を解いた訳ではないと数秒前の自分に言い訳させて貰いたい。
「いたっ」
果して、目の前の熊男の言う事は本当だったようで、左側の頬にピリリとした独特の痛みが走る。
顔の産毛の処理に失敗した時ってこんな感じだなと思って手を離してみると、指先にほんの少し滲んだ血が付いていた。
「使って下さい」
「あ……ど、どうも……」
ようやく熊男の言いたい事を理解した私は、戸惑いながらも差し出された絆創膏を受けとった。
「あっ!先生、ダメじゃないですか!」
思いがけず響いたマスターの大きな声に思わず肩が跳ねる。
(先生って、この熊男の事?)
マスターは箒とちり取り片手に熊男の側まで行くと、有無を言わさず男を引きずり私の向かいの席−−さっきまで元彼が座っていた席に押し込んだ。
「あーもう!やっぱりガラス踏んじゃってる!危ないからそのサンダル帰ったら捨てて下さいよ!」
そういえば床には割れたガラスが散乱していたのだった。熊男がインパクトありすぎてすっかり忘れていた。
「あの、マスターごめんなさい。グラス割っちゃって…」
「あーいいよいいよ。ヒヨちゃんが割った訳じゃないし。それより頬っぺた切れてるね。破片が飛んだのかな、大丈夫?」
マスターも気づいたようで心配そうに覗き込んで来る。私は慌てて手を振り大丈夫だとアピールした。
「平気です、こんなの。それにこちらの、えと……先生、に絆創膏頂いたので」
熊男の事を何と呼んでいいか分からず、マスターの言う先生、と呼んでみた。何で先生なのかは知らないが、マスターの親し気な様子からすると彼も此処の常連客なのだろう。
「あーそれでこの人こんな所に。カウンターに居たと思ったら、いつの間にかガラスの上に居るんだから、びっくりしたよ」
そう言ってマスターは呆れたと言うように熊男を見た。当の“先生”はガラスを踏んでしまったサンダルを脱いで、顔に近づけたり離したりして底に刺さってしまった細かい破片を見ていた。
「そうだ、ヒヨちゃん。これ新しいタオル。遅くなってごめんね。綺麗なの中々見つからなくて」
「いえ!こちらこそ何から何までありがとうございます」
「うん、どういたしまして。それより早く拭かなきゃ風邪ひくよ。レストルームさっきからお客さん入ってるんだよね。ここで大丈夫?鏡持ってこようか」
再び奥に引き返そうとするマスターに慌てて声をかけて、鏡は自分で持っていると告げる。これ以上迷惑をかけるのは遠慮したい。今でさえ申し訳なくてどうしていいか分からないのに。
「じゃあ、俺はすぐにここ片付けちゃうから」
「はい、ありがとうございます」
マスターが手際良くガラスを片付けて行く中、私も鞄から手鏡を出して身繕いに勤しんだ。
その時、熊男はまだサンダルの裏を見てたけど、あえて声はかけずにおいた。