第四話 絶望の再会
ダンジョンの出口へ続く「帰還の回廊」。
そこは本来、冒険者たちにとって安堵の場所であるはずだった。
地上の光が差し込み、涼やかな風が吹き抜け、生還の喜びを噛み締める場所。
だが今、そこを走る三人の男女に、そんな余裕は微塵もなかった。
「ハァ、ハァ、ハァ……ッ! くそっ、足が、足が動かねえ!」
勇者ガレオスは、泥と血にまみれた顔を歪めながら、引きずるように足を運んでいた。
自慢の黄金の鎧は、スライムの酸で無惨に溶け落ち、あちこちから肌が露出している。
その肌も赤く焼けただれ、見るも無残な状態だ。
「待っ、待ってくださいガレオス様……! わたくし、もう走れません……!」
後ろから続く聖女ソフィアの声は、もはや悲鳴に近かった。
豪華な法衣はボロボロに裂け、高価な杖は先端の宝石が砕けている。
魔力枯渇による激しい頭痛と眩暈で、彼女の視界は明滅していた。
「うるさいわね! 止まったら死ぬのよ!? 後ろを見てみなさいよ!」
最後尾の魔導師リリアが叫ぶ。
彼女の髪はチリチリに焦げ、美貌を誇った顔は煤と涙でぐちゃぐちゃだ。
彼女が恐怖に引きつった顔で振り返った先、暗闇の奥からは、ズズズ……という重苦しい音が響いていた。
それは、無数のモンスターたちが彼らを追い立てる足音だった。
これまではアルトが「感知範囲」を操作して遠ざけていた深層の魔物たちが、獲物を逃がすまいと大挙して押し寄せているのだ。
「ちくしょう! ちくしょう! なんで俺たちがこんな目に遭わなきゃなんねえんだ!」
ガレオスは叫びながら、最後の力を振り絞った。
前方に、微かな光が見える。
出口だ。
あそこを抜ければ、地上の太陽がある。ギルドがある。安全がある。
「見ろ! 光だ! 助かるぞ!」
希望が彼らの体に活力を戻した。
三人は転がるようにして、光の漏れる大広間へと飛び込んだ。
この広間を抜ければ、あとは地上への階段を登るだけ。
「ははっ、見たか! やっぱり俺には運がある! どんな不運も、俺の実力の前には――」
ガレオスが勝利を確信し、高らかに笑い声を上げようとした、その時だった。
彼らの足が、ピタリと止まった。
笑い声が、喉の奥で引きつった悲鳴に変わる。
目を見開き、顎が外れんばかりに驚愕する三人。
彼らの目の前、出口を塞ぐようにして待ち構えていたのは、絶望の壁だった。
「……な、なんだ、これは……?」
広間を埋め尽くしていたのは、整列した軍団だった。
全身を黒い甲冑で覆った暗黒騎士。
巨大な戦斧を構えた牛頭の魔人。
空中に浮遊し、不気味な魔力を放つ悪魔の瞳。
百、いや二百はいるだろうか。
それら全てが、一糸乱れぬ隊列を組み、無言の圧力を放っていた。
ただの野生のモンスターではない。統率された、魔王軍の精鋭部隊だ。
その圧倒的な威圧感の前に、ガレオスたちは膝が震え、動くことすらできなかった。
剣を構える気力すら湧かない。
生物としての格が違いすぎる。
そして。
その黒い軍勢の中央。
一段高くなった瓦礫の上に、優雅に座る二つの人影があった。
一人は、漆黒の翼を持つ妖艶な美女。魔将軍セレスティア。
そして、その隣に座り、彼女と同じ目線でこちらを見下ろしているのは――。
「……ア、アルト?」
ガレオスの口から、間の抜けた声が漏れた。
見間違えるはずがない。
つい数時間前、自分が「役立たず」と罵って追放した、あの荷物持ちの少年だ。
だが、その姿は以前とはまるで違っていた。
薄汚れたシャツではなく、魔力で織り上げられた漆黒のローブを纏っている。
猫背だった背筋は伸び、その瞳には、かつてのおどおどした色はなく、底知れない冷徹な光が宿っていた。
「よお、ガレオス。ずいぶんと遅かったな」
アルトの声が、静まり返った広間に響いた。
それは友人に向ける親愛の声ではない。
実験動物の様子を観察するような、無機質な響きだった。
「お、お前……生きていたのか!?」
ガレオスの脳内が混乱する。
なぜアルトがここにいる?
なぜ魔族に囲まれて平気な顔をしている?
いや、そんなことはどうでもいい。重要なのは「アルトがいる」という事実だ。
ガレオスの思考回路が、都合の良い方へと爆走する。
アルトがいるなら、助かるかもしれない。
あいつはいつも俺の言うことを聞いていた。便利な道具だ。
「おいアルト! ちょうどいいところにいたな! 早くこいつらをなんとかしろ!」
ガレオスは震える手で剣を向け、虚勢を張って怒鳴った。
「見ての通り、魔物の大群に囲まれてるんだ! お前、魔物の注意を引け! 囮になって俺たちを逃がすんだ! そうすれば、追放を取り消してやってもいいぞ!」
狂気じみた提案だった。
だが、ガレオスは本気だった。彼は未だに、自分がパーティのリーダーであり、アルトが従うべき下僕であると信じて疑っていなかった。
「そうですわ、アルトさん! わたくし、怪我をしてますの! 早くポーションを出しなさい!」
ソフィアも金切り声を上げた。
「私のマジックバッグ、ロックを解除して! 中身が取り出せないのよ! なんて意地悪な設定にしてるの、早く直しなさいよ!」
リリアもヒステリックに叫ぶ。
彼らは理解していなかった。
自分たちが置かれている状況を。そして、目の前のアルトが、もう「彼らの知るアルト」ではないことを。
アルトは、呆れたように小さくため息をついた。
「……すごいな。ここまで想像力が欠如していると、逆に感心するよ」
アルトが指を軽く振る。
それだけで、広間の空気が変わった。
隣に座っていたセレスティアが、ゆっくりと立ち上がり、美しい顔を怒りで歪めた。
「貴様ら……。我が同志アルトに対し、その口の利き方はなんだ?」
ドォォォォォォォンッ!!
セレスティアの体から、赤黒い闘気が爆発的に噴き出した。
物理的な衝撃波となって広間を駆け抜け、ガレオスたちを吹き飛ばす。
「うわぁぁぁっ!?」
「きゃぁぁっ!」
三人は地面を転がり、壁に激突した。
肺が潰れるような圧力。
Sランク冒険者である彼らが、ただの「気迫」だけで圧倒されている。
「ひぃっ、な、なんだこの化け物は……!」
「ガレオス様、魔族ですわ! あれは上位の魔族です!」
恐怖に顔を引きつらせる彼らに、アルトは玉座から降り、ゆっくりと歩み寄った。
彼が歩くたびに、周囲の暗黒騎士たちが一斉に膝をつき、頭を垂れる。
その光景は、まるで王の凱旋だった。
「ガレオス。お前たちは勘違いをしている」
アルトが彼らの目の前で立ち止まる。
見下ろす視線は、氷のように冷たい。
「俺は捕まっているわけでも、助けを待っているわけでもない。このダンジョンの『主』として、不法侵入者の処分を決めに来たんだ」
「ぬ、主だと……? 何を言ってやがる、お前はただの通訳だろ!?」
ガレオスが地を這いながら吠える。
まだ現実を認められないのだ。認めてしまえば、自分の愚かさが露呈してしまうから。
「通訳、か。まあ間違ってはいないな」
アルトはフッと笑った。
「俺は通訳したんだよ。お前たちという『害虫』を排除するように、このダンジョンのシステムにな」
アルトが右手を掲げた。
その手の中に、青白い光の文字――『魔言』が浮かび上がる。
『システムコマンド:重力制御』
『対象エリア:座標XY指定』
『倍率設定:10倍』
「――跪け」
アルトが短く命じ、手を振り下ろした。
ズシンッ!!
「ぐあぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
「ぎゃぁっ!?」
次の瞬間、ガレオスたちの体に、巨大な岩が乗ったような負荷がかかった。
立っていられないどころではない。
強制的に地面に叩きつけられ、顔面が石床にめり込む。
骨がミシミシと悲鳴を上げ、指一本動かすことができない。
「な、なんだこれ……体が、重い……ッ!」
「息が、できな……ッ!」
地面に這いつくばり、カエルのように手足を広げて悶絶するSランク冒険者たち。
その無様な姿を、アルトは無表情で見下ろした。
「重力魔法……いや、環境そのものを操作しているのか?」
「正解だ。お前たちが『ただの文字』だと思っていたもので、俺はこの空間の物理法則を書き換えた」
アルトはしゃがみ込み、ガレオスの目の前で顔を覗き込んだ。
「なぁ、ガレオス。痛いか? 苦しいか?」
「あ、アルト……た、頼む……やめてくれ……」
ガレオスの目から、初めて「懇願」の色が見えた。
プライドも虚勢もへし折られ、ただの命乞いをする弱者へと成り下がっていた。
「助けてくれ……俺たちは仲間だろ? 今まで一緒にやってきたじゃないか……」
「そうだな。一緒にやってきたな」
アルトは頷いた。
「俺がお前たちのために罠を解除し、毒を消し、敵を弱らせていた時も、お前たちは俺を『役立たず』と笑っていたな。俺が稼いだ金で買った装備を奪い、死地に置き去りにしたのも、仲間だからか?」
「そ、それは……出来心で……!」
「『報酬のない相手に払う金はねえ』。そう言ったのは誰だったか」
アルトの声が低く沈む。
それは、かつてガレオスがアルトに放った言葉そのものだった。
「俺にとって、今のお前たちを助けるメリットはゼロだ。むしろマイナスだ。なら、助ける義理はないよな?」
「ま、待て! 金なら払う! 今回の報酬も全部やる! 装備も返すから!」
「金? 装備?」
アルトは鼻で笑った。
「そんなガラクタ、今の俺には何の価値もない。見ろ」
アルトが背後を示す。
そこには、セレスティアが恭しく差し出す、最高級の魔剣や、国宝級の魔道具が山のように積まれていた。
ダンジョンの宝物庫からアルトが引き出した、本物の財宝だ。
「俺は魔王軍の幹部待遇で迎えられた。お前たちが一生かかっても稼げない富と、地位と、力を手に入れたんだ。お前たちのはした金など、路傍の石ころ以下だ」
ガレオスの顔色が、絶望で真っ白に染まった。
彼が提示できるものなど、アルトはとっくに持っていたのだ。
交渉の余地すらなかった。
「さて、そろそろ時間だ」
アルトが立ち上がり、重力操作を解除した。
ふっと体が軽くなり、ガレオスたちは激しく咳き込んだ。
「げほっ、ごほっ……! た、助かったのか……?」
「慈悲深いな、アルト。殺さないのか?」
セレスティアが不思議そうに尋ねる。
アルトは首を横に振った。
「殺す価値もない。それに、俺が手を下すまでもないさ」
アルトはガレオスたちに背を向けた。
そして、指をパチンと鳴らす。
ゴゴゴゴゴゴ……。
出口の扉が、ゆっくりと閉まり始めた。
光が遮断され、広間が再び闇に包まれていく。
「ま、待て! 閉めるな! 開けてくれぇぇぇ!」
ガレオスが這うようにして追いすがる。
だが、その足元に、ぬちゃりとした感触がまとわりついた。
「……え?」
見れば、床のあちこちから、先ほどのスライムたちが湧き出していた。
さらに、背後からはミノタウロスたちが鼻息荒く迫ってくる。
空中のイービルアイが、石化の光線をチャージし始めた。
「言っただろ。俺は不法侵入者の処分を決めに来たと」
アルトの声が遠ざかる。
彼はセレスティアと共に、空間転移の魔法陣の中へと足を踏み入れていた。
「このダンジョンは、今日から『対人類迎撃要塞』として再稼働する。お前たちはその栄えある最初のテスト被検体だ。光栄に思うといい」
「いやだ、いやだぁぁっ! アルト! アルト様ぁぁぁっ! ごめんなさい、許して、助けてぇぇぇ!」
リリアとソフィアが泣き叫び、懇願する。
だが、アルトは一度も振り返らなかった。
「さようなら、Sランク勇者様。地獄の底で、自分たちの無能さを呪いながら果てるといい」
『転送開始』
魔法陣が強く輝き、アルトとセレスティアの姿がかき消えた。
残されたのは、閉ざされた扉と、迫りくる魔物の群れ、そして三人の絶叫だけ。
「ギャアアアアアアアアアッ――!!」
断末魔の悲鳴と共に、ダンジョンの重い扉が完全に閉ざされた。
後には、深い静寂だけが残った。
***
場所は変わり、魔王城・最上階テラス。
赤紫色の月が空に浮かび、眼下には魔族たちの街が広がっている。
心地よい夜風が、俺の頬を撫でた。
「……ふぅ。良い夜ですね」
俺は欄干に寄りかかり、眼下の夜景を見下ろした。
隣には、ワイングラスを手にしたセレスティアがいる。
「ああ、素晴らしい夜だ。どうだアルト、初めて見る魔界の景色は?」
「悪くないですね。人間界よりも空気が澄んでいる気がします」
嘘ではない。
あんなドロドロとした人間関係の中で呼吸するよりも、今の空気はずっと美味かった。
「ククク、そうか。気に入ってくれたようで何よりだ」
セレスティアは上機嫌に笑い、俺の肩に手を回した。
「魔王様も、貴様のダンジョン再構築の手腕を絶賛しておられたぞ。『これなら人類を滅ぼすのも時間の問題だ』とな」
「それは光栄です。まあ、まだ手始めに一つ落としただけですから」
俺の手には、新たなタブレット型の石版がある。
そこには、世界中に点在する他のダンジョンのマップが表示されていた。
かつて人類が解明できなかった古代遺跡の数々。
俺の『魔言』があれば、それらすべてを掌握し、魔王軍の拠点に変えることができる。
「次は西の『竜の谷』か、それとも東の『海底神殿』か……。やりたいことが山積みですね」
「ふふ、頼もしいな。だが、今夜は祝杯だ。我らの新たな参謀の誕生を祝ってな」
セレスティアがグラスを掲げる。
俺は自分の手元に作り出した氷のグラスを、カチンと合わせた。
「乾杯、同志アルト」
「乾杯、セレスティア」
かつて「ただの通訳」と蔑まれた俺は、今ここにいない。
ここにあるのは、世界を裏から操る管理者としての自分と、それを認めてくれる仲間だけだ。
俺はワインを一口含み、ニヤリと笑った。
人間たちよ、震えて眠れ。
お前たちが捨てた「役立たず」が、今度はお前たちの世界の「常識」をすべて書き換えに行く。
その時になって泣いて謝っても、もう遅いのだから。




