第三話 魔王との対話
地底湖を渡りきった先には、異質な空間が広がっていた。
それまでの湿った岩肌や、自然に形成された鍾乳洞とは明らかに違う。
床も壁も天井も、継ぎ目ひとつない黒曜石のような素材で覆われ、幾何学的な紋様が淡い青白い光を放ちながら明滅している。
空気の質も変わった。
重い。物理的な気圧ではなく、空間そのものに充満する情報の密度が違うのだ。
肌にピリピリと静電気が走るような感覚。これは高密度の魔素が、制御された状態で循環している証拠だ。
「……ここが、管理区画か」
俺は壁に触れ、指先から微弱な魔力を流し込んだ。
瞬時に脳内へ膨大なデータが流れ込んでくる。
それはまるで、巨大な図書館の書棚が一斉に開かれたような感覚だった。
『エリア:第108層・中枢制御室』
『ステータス:主不在による自律稼働モード』
『セキュリティ:最高深度』
やはり、俺の読みは正しかった。
このダンジョン『奈落の顎』は、ただの魔物の巣窟ではない。
古代に作られた、一種の巨大な魔術装置だ。
そしてここには、その全権を握るための『鍵』があるはずだ。
俺は回廊を進んだ。
足音が黒い床に吸い込まれるように消える。
静寂。絶対的な静寂だ。
ガレオスたちの騒がしい怒鳴り声も、断末魔の悲鳴も、ここでは遠い世界の出来事のように感じられる。
突き当たりには、空間そのものを切り取ったような、巨大な扉があった。
扉といっても、取っ手も蝶番もない。
そこにあるのは、渦巻く漆黒の霧と、その中心で赤く輝く複雑怪奇な魔法陣だけだ。
『警告:これより先、生体認証が必要』
『権限なき者の侵入は、即時の存在抹消を執行します』
壁の文字が、赤色に変化して警告を発する。
通常の冒険者なら、この威圧感だけで腰を抜かし、逃げ出すだろう。
あるいは、無謀にも剣で斬りかかり、防衛システムによって原子レベルまで分解されるかだ。
だが、俺は口元を緩めた。
「……美しい」
思わず感嘆の声が漏れた。
この魔法陣の構造、なんと洗練されていることか。
数百の術式が複雑に絡み合いながらも、一切の無駄なく機能している。
まるで芸術作品のような『魔言』の集合体。
「さて、と。お邪魔しますよ」
俺は魔法陣の前に立ち、両手を広げた。
詠唱はいらない。
俺に必要なのは、この世界のソースコードを読み解き、書き換える思考だけだ。
(第3層、第7層のループ構造をバイパス。認証プロトコルに割り込み。ID『アルト』を仮登録。敵対意思なしフラグを送信……)
俺の思考に合わせて、赤い魔法陣がカチリ、カチリと音を立てて回転する。
パズルのピースがハマるように、拒絶の輝きが、受容の輝きへと変化していく。
『認証:完了』
『ようこそ、管理者代行』
漆黒の霧が晴れ、扉が音もなく左右にスライドした。
その先から溢れ出したのは、圧倒的な『闇』の奔流だった。
***
部屋の中は、広大だった。
天井が見えないほど高く、壁際には無数の水晶柱が立ち並び、ダンジョン各地の映像を映し出している。
そして、その部屋の中央。
一段高くなった玉座のような場所に、その人物はいた。
足を組み、退屈そうに頬杖をつく女性。
闇を凝縮したような黒髪が、床まで流れている。
背中からは、蝙蝠を思わせる禍々しくも美しい翼が生え、その周囲の空間がぐにゃりと歪んでいた。
魔族。
それも、ただの雑兵ではない。
全身から放たれるプレッシャーは、俺がこれまで遭遇したどのボスモンスターよりも桁違いに重く、鋭い。
彼女がゆっくりと目を開けた。
鮮血のような真紅の瞳が、俺を射抜く。
「――ほう」
彼女が口を開いた。
その声は、重低音の振動となって俺の鼓膜を揺さぶった。
「ネズミが一匹、迷い込んだかと思えば……人間か」
彼女が発しているのは、人間語ではない。
魔族特有の言語、『魔言』の原種とも言える高位言語だ。
通常の人間が聞けば、その魔力波だけで発狂するか、脳が焼き切れるほどの情報量を含んでいる。
だが、俺の脳はそれを自動的に『翻訳』し、意味のある言葉として処理していた。
「貴様、どうやってここに入った? そこの結界は、物理攻撃も魔法攻撃も一切通用せぬ『断絶の理』だぞ」
彼女は玉座から立ち上がることなく、指先だけで俺を指し示した。
その指先に、黒い稲妻のような魔力が収束していく。
「まあよい。どうせ死ぬのだ。答えを聞く必要もあるまい」
問答無用。
彼女にとって、人間など羽虫と同義なのだ。
会話する価値もなく、ただ潰せばいいだけの存在。
黒い稲妻が、俺に向かって放たれた。
回避は不可能。光速に近い速度で迫る純粋な破壊エネルギー。
直撃すれば、俺の体は跡形もなく消滅するだろう。
だが、俺は動かなかった。
恐怖で動けなかったのではない。
その必要がないと、『読んで』しまったからだ。
(術式構成、雷属性・収束型。魔力密度80%。……なるほど、座標指定に僅かなズレがある)
俺は口の中で小さく呟いた。
「座標修正、右へ30度」
その言葉は、誰に向けたものでもない。
この空間そのものを支配するシステムへの『命令』だ。
バチィィィィンッ!!
黒い稲妻は、俺の鼻先数センチのところで直角に折れ曲がり、俺の横にある何もない空間へと逸れていった。
壁に衝突した稲妻が爆発し、黒曜石の壁を溶解させる。
「……なっ!?」
初めて、彼女の表情が動いた。
退屈そうだった瞳に、驚愕の色が浮かぶ。
頬杖をついていた手を離し、彼女は身を乗り出した。
「貴様……今、何をした?」
彼女の声に、警戒の色が混じる。
当然だ。絶対の自信を持って放った攻撃が、指一本動かさずに逸らされたのだから。
俺はゆっくりと息を吐き、彼女の目を見据えた。
ここが勝負所だ。
ただの「迷い込んだ人間」として扱われれば殺される。
だが、「対等な対話者」として認識させれば、道は開ける。
俺は喉の奥を震わせ、彼女と同じ『言葉』を紡いだ。
『ご挨拶がいきなり死の稲妻とは、魔族の歓迎はずいぶんと熱烈ですね』
俺の口から出たのは、流暢な魔族語だった。
人間には発音不可能な音域を含んだ、複雑な振動音。
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。
彼女は目を見開き、信じられないものを見るように俺を凝視した。
「……貴様、人間でありながら、我らの言葉を話すのか?」
『話すだけではありません。読むことも、書くことも、そして――書き換えることもできます』
俺は一歩、前へ踏み出した。
彼女の放つ威圧が肌を刺すが、俺はそれを柳のように受け流す。
『あなたの放った雷撃、術式自体は完璧でしたが、この部屋の空間歪曲率と干渉して、照準に僅かな誤差が生じていましたよ。私が修正しなければ、あなたの愛用しているその水晶柱を破壊していたところです』
俺が指差した先には、さっき稲妻が逸れた方向――もし俺が曲げなければ直撃していたであろう場所に、一本の巨大な水晶柱があった。
そこには、このダンジョンのエネルギー供給を司る重要な回路が刻まれている。
彼女は水晶柱と、俺の顔を交互に見た。
そして、フッと口元を歪めた。
それは侮蔑ではなく、獰猛な笑みだった。
「……ハハッ! 面白い! 実に面白いぞ、人間!」
彼女は玉座から立ち上がり、翼を大きく広げた。
その姿は、破壊の女神のように美しく、そして恐ろしかった。
「我は魔王軍第三軍団長、『魔将軍』セレスティア。人間を虫けらとしか思わぬ我が、まさか人間に礼を言うことになるとはな」
彼女――セレスティアが、階段をゆっくりと降りてくる。
ヒールの音が、カツン、カツンと響くたびに、部屋の魔力濃度が濃くなっていくようだ。
俺の目の前、わずか数メートルの距離で彼女は止まった。
見上げるほどの長身。そして、匂い立つような色香。
「名は何という?」
「アルトです」
「アルトか。よい名だ。……して、アルトよ。貴様はなぜ、これほどの力を持ちながら、人間ごとき姿をしている?」
彼女の問いは、純粋な疑問だった。
彼女の認識では、これほどの魔力干渉能力を持つ者は、高位の魔族か、あるいは古代竜の化身くらいしかあり得ないのだろう。
「ただの人間ですよ。生まれつき、世界の『理』が文字として見えるだけの」
「ほう……『魔眼』の類か。だが、それだけで我が術式に干渉できるわけがない。貴様、その頭脳、どうなっている?」
セレスティアが俺の顔を覗き込む。
その顔には、先ほどの殺意はなく、代わりに強烈な知的好奇心が浮かんでいた。
彼女もまた、知性を尊ぶタイプの魔族なのだろう。
脳筋のガレオスたちとは正反対だ。
「……セレスティア様。あなたは、このダンジョンを管理するためにここに来たのですか?」
「様付けなど不要だ。セレスティアでよい」
彼女は髪をかき上げながら、つまらなそうに言った。
「そうだ。魔王様より、この古代遺跡『奈落の顎』を接収し、魔王軍の拠点とせよと命じられてな。だが……見ての通りだ」
彼女は周囲のモニターを指差した。
そこには、赤く点滅するエラーメッセージが無数に表示されている。
「このダンジョンのシステムは古すぎる。言語体系が現在の魔術理論とまるで違うのだ。我が解析能力をもってしても、中枢制御を掌握するには、あと百年はかかる」
彼女は悔しそうに唇を噛んだ。
魔力だけなら最強クラスの彼女でも、ロストテクノロジーの塊であるこのダンジョンのOSまでは扱いきれないようだ。
「百年……ですか。それは気の長い話ですね」
「魔族の寿命なら造作もないが、魔王様はせっかちでな。今月中に成果を出さねば、我が首が飛ぶかもしれん」
彼女は冗談めかして言ったが、目は笑っていなかった。
魔王軍という組織も、なかなかのブラック企業のようだ。
俺は周囲のエラーメッセージを見渡した。
『排熱処理異常』『魔素循環ポンプ、詰まり』『第七層、照明システムダウン』……。
俺にとっては、それは見慣れた日常風景だった。
Sランクパーティの荷物持ちとして、毎日必死にパッチを当て続けていたバグの山だ。
「……俺なら、5分で直せますよ」
俺は静かに言った。
ハッタリではない。事実だ。
セレスティアが目を丸くする。
「5分だと? 貴様、我を愚弄するか?」
「いえ。論より証拠です」
俺は近くのコンソール――空中に浮かぶ石版状の操作パネルに手を触れた。
指先を走らせる。
思考を加速させる。
(ルートディレクトリへアクセス。不要なキャッシュファイルを全削除。魔力循環のパイプラインを再構築。古い防御プロトコルを最新版へアップデート……)
俺の指が残像に見えるほどの速度で動く。
石版の文字が、赤から青へ、そして正常稼働を示す緑へと次々に変わっていく。
『システム再起動』
『オールグリーン』
『最適化、完了しました』
ゴゴゴゴゴ……という低い地鳴りと共に、部屋全体の空気が澄み渡った。
明滅していた照明が安定し、水晶柱の映像がクリアになる。
澱んでいた魔素がスムーズに循環を始め、部屋の温度が快適なレベルに調整された。
さらに、俺は余興として、部屋の隅にある瓦礫を素材に、錬成術式を組み込んだ。
床からニョキニョキと黒曜石が盛り上がり、装飾の施された優雅なテーブルと、二脚の椅子が形成される。
ついでに、空気中の水分を集めて冷却し、氷のグラスを作り出した。
「……どうぞ、お座りください。立ち話もなんですし」
俺は椅子を引いて、彼女を促した。
セレスティアは、口をぽかんと開けたまま、呆然と周囲を見渡していた。
百年かかると言った作業が、わずか数分で終わったのだ。
それも、彼女が想像もしなかったほどの高水準で。
「……化け物か、貴様は」
彼女が呟いた。
その言葉には、畏怖と、そして隠しきれない歓喜が混じっていた。
「ただの『元』通訳ですよ。仲間からは役立たずと追放されましたが」
「追放だと?」
セレスティアが素っ頓狂な声を上げ、そして腹を抱えて笑い出した。
「ククッ、ハハハハハ! 人間どもは、どいつもこいつも眼球が腐っているのか!? これほどの至宝を、ドブに捨てるような真似を!」
彼女はひとしきり笑った後、ふと真顔になり、俺に向き直った。
その瞳は、獲物を狙う肉食獣のように鋭く、しかしどこか甘い熱を帯びていた。
「アルトよ。単刀直入に言おう」
彼女が俺の手を取り、グイと自分の方へ引き寄せた。
顔が近い。
甘い香水の香りと、危険な魔力の匂いが混ざり合う。
「我のものになれ」
それは命令ではなく、懇願に近い響きだった。
「貴様の力があれば、このダンジョンだけでなく、世界の理すら書き換えられる。人間ごときに使役されるには、貴様の器は大きすぎる」
「……俺を、魔王軍に入れると?」
「そうだ。雑兵としてではない。我が参謀……いや、同志としてだ。富も、名誉も、力も、望むものはすべて与えよう。少なくとも、『役立たず』などと呼ぶ愚か者は、我が軍には一人もおらん」
彼女の真っ直ぐな視線。
そこには、俺がずっと求めていたものがあった。
『理解』だ。
俺の能力を正しく評価し、必要としてくれる存在。
それが人間ではなく、魔族であったとしても、今の俺には些細な問題だった。
俺はガレオスたちの顔を思い浮かべた。
俺を蔑み、嘲笑い、ゴミのように捨てた彼ら。
彼らのために力を尽くす義理は、もう1ミリも残っていない。
「……いいでしょう」
俺はセレスティアの手を握り返した。
「契約成立です、セレスティア。俺の知識と技術、すべてあなたに捧げます」
「うむ。良い返事だ!」
セレスティアは満面の笑みを浮かべ、子供のように無邪気に俺の手をブンブンと振った。
先ほどの威厳ある魔将軍の姿とのギャップに、俺は少しだけ苦笑した。
「では、早速仕事にかかるとしましょうか、参謀殿?」
「仕事?」
「ああ、そうだ。先ほどから、このダンジョンの出口付近で、五月蝿いハエどもが暴れ回っていてな」
セレスティアが指を鳴らすと、空中のモニターの一つが拡大された。
そこに映っていたのは、ボロボロになりながら逃げ惑うガレオスたちの姿だった。
スライムに装備を溶かされ、毒霧で顔を腫らし、それでもなお「助けろ!」と叫びながら、出口を目指して無様に這いずり回っている。
「……ああ、彼らですか」
「知っているのか?」
「ええ。俺を追放した『元』仲間たちですよ」
俺の言葉を聞いた瞬間、セレスティアの瞳がスゥッと細められ、絶対零度の冷たさを宿した。
「ほう……。貴様という至宝を捨てた愚か者どもか。それは、丁度よい」
彼女は残忍な、それでいて最高に美しい笑みを浮かべた。
「我が軍への手土産だ、アルト。あのゴミ掃除、貴様の好きにしてよいぞ。我も手伝おう」
「ありがとうございます。ですが……」
俺はモニターの中のガレオスたちを見つめ、冷ややかに告げた。
「掃除の必要はありませんよ。彼らはもう、俺の手の平の上ですから」
俺はコンソールを操作し、ダンジョンの出口付近のエリア設定を書き換えた。
『希望』を見せてから『絶望』に突き落とす。
それが、彼らに相応しい末路だ。
「行きましょう、セレスティア。最後の挨拶をしに」
「ふふ、悪趣味だな。だが、嫌いではないぞ」
俺たちは並んで歩き出した。
人間を辞め、魔王軍の参謀として踏み出す第一歩。
その足取りは、かつてないほどに軽やかだった。
背後で、管理システムのモニターが青く輝き、新たなメッセージを表示していた。
『新規管理者登録:アルト』
『権限レベル:SSS(支配者)』
ダンジョンは今、完全に俺のものとなった。




