第二話 セーフティモード解除
俺が彼らに背を向け、暗闇へと歩き出したその瞬間だった。
背後の空間で、何かが決定的に「切れる」音がした。
それは物理的な糸が切れる音ではない。
世界を構成する法則、その場に張り巡らされていた魔術的な加護と抑制のコードが、一斉にリンクを失い、崩壊していく音だ。
『システム通知:ユーザー「アルト」の離脱を確認。パーティ「栄光の剣」への管理者権限共有を停止します』
『ローカルエリア接続、切断』
『環境制御、初期化』
脳内に流れる無機質な文字列。
これまで俺が絶えず行っていた、ダンジョンに対する何千、何万という干渉プロセスが、潮が引くように消えていく。
俺は歩みを止めず、ただ掌を握りしめた。
指先の感覚が軽い。
これまで、意識の半分以上を割いて彼らの安全を確保していた重荷がなくなったのだから、当然だ。
「……せいぜい、頑張ってくれよ」
誰もいない闇に向かって、俺は独りごちた。
それは皮肉でも何でもない、純粋な事実の確認だった。
俺がこのダンジョン『奈落の顎』で何をしていたか、彼らは何も知らない。
例えば、通路の角を曲がるたびに、俺は壁の古代文字を読み、その先にあるトラップの感知センサーを誤作動させていた。
例えば、彼らが野営をする際、周囲の空気中に漂う致死性の猛毒胞子を、風魔法の術式を書き換えて結界外へと排気していた。
例えば、エンカウントするモンスターのステータスを、出現の瞬間に『書き換え』て、攻撃力と防御力を十分の一にデバフしていた。
ガレオスが「俺の剣で一撃だ!」と豪語していた敵は、本当は鋼鉄すら切り裂く甲羅を持っていたし、リリアが「燃え尽きなさい!」と焼いた植物モンスターは、本来なら火属性を吸収して爆発する性質を持っていた。
それら全ての「ご都合主義」が、今この瞬間から消滅する。
『警告:エリア深度9。魔素濃度が危険域に到達。空間歪曲率、上昇』
脳内の警告表示が赤く点滅する。
俺は自身の周囲に『翻訳』した防御術式を展開し、ダンジョンの深淵へと足を速めた。
もう、後ろを振り返る必要はない。
***
一方その頃、勇者ガレオスたち一行は、アルトを追放した興奮と解放感に浸りながら、ボス部屋へと続く回廊を歩いていた。
「あー、せいせいしたぜ! あいつの陰気な面を見なくて済むと思うと、空気がうまく感じるわ!」
ガレオスが大げさに深呼吸をし、大剣を肩に担ぎ直す。
その足取りは軽い。Sランク冒険者としての自負と、これから手に入る莫大な報酬への期待が、彼の精神を高揚させていた。
「本当にそうですわね。アルトさんがいると、なんだか貧乏神に取り憑かれているような気分でしたもの」
聖女ソフィアがくすくすと笑いながら同意する。
彼女の手には、最高級の光魔法石が埋め込まれた杖が握られている。回復役としての自信は揺るぎない。
「でも、荷物持ちがいなくなったのは少し不便ね。このマジックバッグ、魔力消費が激しいから私が持つの嫌なんだけど」
魔導師リリアが不満げに唇を尖らせた。
彼女の腰には、先ほどアルトから奪い取ったマジックバッグがぶら下がっている。
本来、マジックバッグは所有者の魔力を微量ずつ吸い取って機能するものだが、これまではアルトが効率化の術式を組んでいたため、誰もその負担に気づいていなかったのだ。
「ま、帰りは転移クリスタルを使えば一瞬だ。ボスさえ倒せばこっちのもんだろ」
「そうですわね。さあガレオス様、わたくしたちの愛の力で、醜いモンスターを浄化してしまいましょう」
三人は談笑しながら、石造りの回廊を進む。
彼らの視界には、壁や床に刻まれた不気味な模様――古代の魔術回路が入っていないかのように見過ごされていた。
これまでアルトが「そこは踏むな」「壁に触れるな」と口うるさく言っていた注意喚起がなくなったことで、彼らは完全に警戒を解いていたのだ。
「お、見ろよ。あそこ、宝箱があるじゃねえか」
ガレオスの目が、通路の脇に置かれた豪奢な装飾の箱を捉えた。
黒檀で作られ、金の縁取りがなされたその箱は、いかにも貴重なアイテムが入っていそうな雰囲気を醸し出している。
「あら、ラッキー! アルトがいないおかげで運が向いてきたんじゃない?」
「開けましょう、ガレオス様!」
疑うことを知らない彼らは、一直線に宝箱へと近づく。
アルトがいれば、間違いなく止めていただろう。
『それはミミックだ』とか、『開けた瞬間に即死ガスの罠が発動する』といった警告を発して。
だが、今は誰も止めない。
ガレオスが無造作に宝箱の蓋に手をかけ、豪快に開け放つ。
「へっへぇ! 何が入って……あん?」
カチリ。
箱の中身を確認するよりも早く、乾いた金属音が響いた。
それは宝箱からではなく、彼らの足元から聞こえた音だった。
「……え?」
ソフィアが間の抜けた声を上げる。
次の瞬間、世界が反転した。
ズゴォォォォォォォォッ!!
轟音と共に、彼らが立っていた床の石畳が一斉に消失した。
いや、消失したのではない。床板だと思っていたものが、実は巨大な回転扉のように下へと開いたのだ。
底なしに見えたその穴の下には、無数の鋭利な棘が待ち構えている。
「うわあああああああっ!?」
「キャアアアアアッ!」
三人の体が宙に浮く。
だが、彼らは腐ってもSランク冒険者だ。
ガレオスは瞬時に反応し、大剣を壁に突き刺して落下を防いだ。
リリアは即座に浮遊魔法を発動し、ソフィアの手を掴んで空中に留まる。
「あっぶねえぇぇ! なんだ今の罠は!?」
ガレオスが冷や汗を流しながら叫ぶ。
これまで、こんな露骨な落とし穴に引っかかったことなど一度もなかった。
いつだってダンジョンの床は平坦で、安全だったはずだ。
「ガレオス様、下を! 棘に毒が塗られていますわ!」
「チッ、ふざけやがって……! リリア、引き上げろ!」
リリアの魔法でなんとか通路の縁へと這い上がる三人。
だが、本当の地獄はそこからだった。
『侵入者検知。排除プロセス、フェーズ1』
どこからともなく、不気味な機械音声のような響きが聞こえた気がした。
直後、通路の壁にあるガーゴイルの彫像の口が、ガバリと開く。
プシューーーーーッ!!
激しい噴射音と共に、紫色の濃霧が通路内に充満し始めた。
「ゲホッ、ガハッ!? な、なんだこの煙!」
「目が、目が痛いぃぃっ!」
「毒霧よ! ソフィア、早く解毒を!」
リリアが涙目になりながら叫ぶ。
この霧は、粘膜を激しく刺激し、肺を焼く強酸性のガスだ。
これまではアルトが、通気口の術式を操作して事前に換気していたため、彼らはこの霧の存在すら知らなかった。
「わ、わかっています! 聖なる光よ、我らを癒やしたまえ……『キュア・ポイズン』!」
ソフィアが杖を掲げ、清浄な光を放つ。
通常の毒ならば、これで瞬時に中和されるはずだった。
しかし。
「……え? 消えない?」
光は一瞬輝いたものの、紫色の霧に飲み込まれるようにして霧散してしまった。
霧の濃度は変わらず、むしろ増しているようにさえ見える。
「な、なんでですの!? わたくしの魔法が効かないなんて!」
ソフィアがパニックに陥る。
彼女は知らなかったのだ。このダンジョンの深層には『魔素阻害フィールド』が常に展開されており、外部からの干渉なしには魔法効果が半減以下にされるという事実を。
アルトがそのフィールドに「穴」を開けていたからこそ、彼女の魔法は十全に機能していたに過ぎない。
「くそっ、このままじゃ窒息するぞ! 走れ! このエリアを抜けるんだ!」
ガレオスが鼻と口を腕で覆いながら走り出す。
リリアとソフィアも、涙と鼻水を垂れ流しながら必死でその後を追う。
Sランク冒険者の威厳など、見る影もない。
ただ生き延びるために、無様に逃げ惑う姿がそこにあった。
「ハァ、ハァ……! なんなんだよ急に! このダンジョン、壊れてんのか!?」
数百メートルほど走り抜け、ようやく霧の薄い広間に出たガレオスが、膝をついて悪態をついた。
喉が焼けつくように痛い。装備している黄金の鎧も、酸の霧によって所々黒ずみ、輝きを失っている。
「最悪……私の髪、ボロボロじゃない」
リリアが自身の髪に触れ、悲鳴に近い声を上げた。
酸で痛んだ髪はチリチリになり、毛先が溶けている。
ソフィアに至っては、自慢の法衣が黄ばみ、顔面蒼白で震えていた。
「ここ、本当におかしいですわ……。さっきの落とし穴といい、毒霧といい、難易度設定がバグってますのよ、きっと!」
「ああ、そうに違いねえ。ギルドの連中、とんでもねえ欠陥ダンジョンを紹介しやがって。戻ったらクレーム入れてやる」
彼らはまだ気づかない。
これが「異常」なのではなく、これが「通常」なのだということに。
そして、自分たちの無知と慢心が招いた結果であるということに。
その時だった。
広間の奥、暗がりの中から、ぬちゃりとした水音が響いたのは。
「……なんだ?」
ガレオスが警戒して大剣を構える。
現れたのは、半透明の緑色をしたゲル状の塊――スライムだった。
それも、一体ではない。十、二十と、壁や天井から滲み出るように湧いてくる。
「なんだ、ただのスライムかよ。脅かしやがって」
ガレオスが安堵の息を吐き、嘲るような笑みを浮かべた。
スライムといえば、初心者が最初に戦う最弱のモンスターだ。
Sランクの彼らにとっては、蚊ほどの手応えもない雑魚中の雑魚。
「ちょうどいい、ストレス解消だ! 汚ねえ霧の鬱憤、ここで晴らしてやるぜ!」
ガレオスは踏み込み、大上段からスライムへ向けて剣を振り下ろした。
岩をも砕く剛腕の一撃。
当然、スライムなど霧散して消えるはずだった。
ガギィィィンッ!!
「……は?」
手元に返ってきたのは、まるで分厚いゴムと鉄板を同時に叩いたような、重く鈍い反動だった。
剣が弾かれたのだ。
スライムの表面は波打ちこそすれ、傷一つついていない。
「な、なんだこいつ!? 硬ぇぞ!?」
「ガレオス様、何を遊んでますの? スライム相手に手加減なんて」
「うるせえ! 本気で斬ったんだよ!」
ガレオスが焦りの声を上げる。
この深層に生息するスライムは、ただのスライムではない。
『アダマンタイト・スライム』の変異種であり、物理攻撃を99%無効化し、さらに触れた金属を瞬時に腐食させる『王水』の体液を持つ凶悪モンスターだ。
これまではアルトが、スライムの核にある魔術コードを書き換え、『物理耐性』を『物理弱点』に反転させていたからこそ、豆腐のように切れていただけだった。
「リリア! 魔法だ! 魔法で焼き払え!」
「もう、人使いが荒いんだから。……『ファイアボール』!」
リリアが杖を振るい、巨大な火球を放つ。
炎はスライムの群れに着弾し、爆発した。
ボォンッ!
「ほら、やっぱり魔法ならイチコロ……って、嘘でしょ?」
煙が晴れた後、そこにいたのは、少し焦げただけでピンピンしているスライムたちの姿だった。
それどころか、炎のエネルギーを吸収したのか、体がひと回り大きく膨れ上がり、赤く発光し始めている。
「熱変換スキル持ち!? そんなの聞いてないわよ!」
リリアが叫ぶ。
事前の情報収集など、彼らは一切していなかった。
「アルトが何か言ってたけど、どうせくだらないことだろう」と聞き流していた報いが、今ここに来て襲いかかっていた。
じり、じり、と。
スライムたちが包囲網を狭めてくる。
その動きは、知能のない下等生物のものではなく、獲物を追い詰める捕食者のそれだった。
「くそっ、なんなんだよ今日は! どいつもこいつも強すぎんだろ!」
ガレオスが剣を振り回すが、スライムはそれを軽々とかわし、あるいは弾き返す。
一匹のスライムが飛びかかり、ガレオスの脛当てに張り付いた。
ジュウゥゥゥゥッ!!
「ぐあぁぁぁっ! 熱っ、痛ぇぇぇ!」
肉が焼けるような音と白煙。
最強硬度を誇るはずのオリハルコンの脛当てが、ドロドロに溶かされていく。
その下の皮膚にまで酸が達し、ガレオスは激痛に顔を歪めた。
「回復! ソフィア、早く回復しろ!」
「やってますわ! でも、魔力が……魔力の消費が早すぎますの!」
ソフィアの額から脂汗が流れる。
この空間の魔素阻害は、回復魔法の効率を著しく低下させるだけでなく、術者の魔力を通常の倍以上食い尽くす。
数回『ヒール』を使っただけで、彼女の魔力タンクはすでに枯渇しかけていた。
「これじゃジリ貧だ……! おいリリア、あのマジックバッグからポーションを出せ! 特級ポーションがあるはずだ!」
ガレオスがリリアに怒鳴る。
リリアは慌てて腰のバッグに手を突っ込んだ。
しかし、彼女の顔色が土気色に変わる。
「……ない」
「ああん!? ねえわけあるか! 出る前に満タンにしただろうが!」
「取り出せないのよ! バッグの口が開かないの! 『認証エラー』みたいな赤い光が出て……!」
アルトから奪ったマジックバッグ。
それはアルトの魔力波長でロックされており、さらに内部の在庫管理システムも彼が構築したものだった。
無理やりこじ開けようとすれば、防犯機能が作動し、中身ごと亜空間へ転送されてしまう設定になっている。
もちろん、そのことを彼らは知らない。
「ふざけんな! アルトの野郎、こんな細工までしてやがったのか!?」
ガレオスは自分の無能さを棚に上げ、不在のアルトへの怒りを爆発させた。
「あいつだ! あいつが何かしたんだ! 俺たちをハメるために、ダンジョンにおかしな呪いをかけていきやがったんだ!」
見当違いも甚だしい被害妄想。
だが、そう思い込まなければ精神が崩壊してしまうほど、彼らは追い詰められていた。
スライムの群れは、いまや壁のように彼らを取り囲んでいる。
逃げ場はない。
圧倒的な「死」の予感が、彼らの喉元に突きつけられる。
「ちくしょう……ちくしょうッ! なんでこんな雑魚に手こずらなきゃなんねえんだ!」
ガレオスの絶叫が、虚しく広間に木霊する。
彼らはまだ理解していない。
この絶望的状況こそが、Sランクダンジョン『奈落の顎』の平常運転であり、
これまで自分たちが歩んできた「栄光の道」こそが、一人の少年の献身によって作られた「接待プレイ」だったということを。
***
遠く離れた深層の一角で、俺はふと足を止めた。
鼓膜を震わせるような絶叫が、風に乗って微かに届いた気がしたからだ。
「……騒がしいな」
それが誰の声かは想像がつく。
だが、俺の心には何の波紋も広がらなかった。
憐れみもなければ、罪悪感もない。
あるのは、ただ静かな納得だけだ。
『自業自得』。
その四文字が、すとんと胸に落ちる。
俺は視線を前方に戻した。
目の前には、巨大な地底湖が広がっている。
その水面は鏡のように静まり返り、天井に群生する発光苔の光を反射して、幻想的な青い光を放っていた。
美しい景色だ。
彼らと一緒だった時は、常に索敵と解析に追われ、こんな風に景色を楽しむ余裕などなかった。
「さて、と」
俺は地底湖のほとりにしゃがみ込み、水面に指先を浸した。
冷たい水の感触と共に、膨大な情報が流れ込んでくる。
この湖の水流、温度、成分、そしてこの先に潜む「主」の気配。
すべてが手に取るようにわかる。
俺は自由だ。
誰に指図されることもなく、誰かの顔色をうかがうこともない。
この広大なダンジョンすべてが、今の俺にとっては庭のようなものだ。
「……ん?」
水面の解析を進めていた俺の脳裏に、不意に異質なノイズが走った。
それはダンジョンのシステム由来のものではない。
もっと異質で、強大で、そしてどこか懐かしさすら感じる魔力の波長。
『接続要求:外部ソース』
『発信源:エリア最深部、管理区画』
俺は顔を上げ、地底湖の向こう側――闇のさらに奥を見つめた。
そこには、人間が決して足を踏み入れてはならないとされる領域がある。
誰かが、俺を呼んでいる。
いや、俺の『力』に気づいた何者かが、接触を求めてきているのだ。
「……面白そうだ」
俺は立ち上がり、濡れた指先を振った。
恐怖はない。むしろ、知的好奇心が体を突き動かす。
ガレオスたちの顛末など、もはやどうでもいい。
俺の前には今、未知なる可能性への扉が開かれているのだから。
俺は地底湖の上を歩き出した。
水面には俺が書き換えた『表面張力固定』の術式が展開され、波紋ひとつ立てずに道となる。
その背中は、かつて「荷物持ち」として猫背で歩いていた頃とは別人のように、堂々と伸びていた。
そして、運命の出会いが待つ最深部へと、俺は吸い込まれるように進んでいった。




